第3話 グアテマラ・アンティグアと僕

 雨の日の『コーヒーボーイ』は、どこか放課後の教室みたいな静けさと厳かな雰囲気が漂っていた。僕はいつものように「本日のカフェ・ラテ」を頼むと一番奥の壁際の席についた。


 ここ最近、新しく入った女性スタッフが注文を受けてくれるのだけれど、「この人、ラテばっかり頼んでるなあ」とか思われていないだろうか。どうにも不安だ。


 コーヒーを飲まないわけじゃない。


 ただ、コーヒーを飲むタイミングを決めていた。僕は何かしらの別れの場ではコーヒーを頼んだ。別れとは様々なものだ。絶交、破局、絶縁、死別。この世に甘い別れなどは存在しない。別れとはどれも苦くて悔いの残る代物だ。


 だからこそ、僕はコーヒーを飲んだ。どれだけ苦いコーヒーでも難なく喉を通すことができた。むしろその苦みが別れという現実的非合理から僕を守ってくれていた。


 グアテマラ・アンティグア

 透明感のあるフレッシュな柑橘系の酸味


 コースターを手に取ると、美しい横文字の並びが目に留まった。

 グアテマラ・アンティグア。声に出してみたくなるような、音楽性を伴った。煌びやか名前だ。僕はすぐにグアテマラ・アンティグアのことで頭がいっぱいになった。


 それに透明感。透明感である。

 常々から僕は、この批評を書いているコピーライターの方に一度お会いしたいと思っていた。その気持ちが爆発してしまいそうになる。


 透明感とはとても難しい言葉だ。水晶やガラスのような自然の美しさをも持ち合わせる他、プラスチックやビニルなど無機質などにも言える。幅広く、受け取り手の裁量に一任してしまうような単語だ。

僕はこうして、小説を書く身ではあるけれど、この透明感という言葉に幾度も惑わされて痛い目を見てきた。だからこそ、このカフェ・ラテが今とても僕にとって革命的なものになり得るのではないかという期待さえ抱いている。


 カフェ・ラテには当然だがミルクが入っている。つまり色は白濁としている。お世辞にも透明とは言い難い。


 しかしグアテマラ・アンティグアは違うと言っている。本当のわたしを見てと言っている気がした。


 僕がストローに口をつけるとグラスの中で「からん」と氷が鳴る。ころころと笑っているようだった。

 酸味。奥歯がさっぱりするような柑橘系の爽やかな香りと味わい。ちょっと酸っぱいくらいの勢いが、即座にミルクの甘さによって緩和される。


 グアテマラ・アンティグア。普段の彼女は、口が悪いことでクラスでも有名な女子高生だ。

 机に脚を乗っけたり、生徒間のトラブルは日常茶飯事。派手なピアスなどを付けて、教師からの評判も悪い。僕もまた、一匹狼の彼女を遠巻きで眺めるだけのクラスメイトでしかなかった。


 雨の日だった。『コーヒーボーイ』の外で降りしきる雨よりもずっと、ひどい雷雨の日だった。学校へ行くと、教室に張り出してあったプリントを見て休校を知ったなんてことがあった。メールで通知を出してるなんて書いてあったけれど、携帯電話をもってなかった僕からすれば、そんなことは知る由もない。


 急遽時間を持て余した僕は、あてもなく校舎を歩いていた。すると音楽室の方からピアノの調べが聴こえる。美しい音色だ。


 誘われるように音楽室を覗くと、そこには彼女がいた。

 グアテマラ・アンティグア。


 彼女が人知れずピアノと対話していた。エリック・サティ作曲。ジムノペディ第一番。言わずと知れたピアノ独奏曲の名曲だ。


 目を瞑りながら、アッシュの入った長い髪を揺らしながら。グアテマラ・アンティグアは鍵盤に指を添える。教室の低い天井から降り注ぐような音階が、二人の世界を明るく照らした。


 カフェ・ラテの味わいが、ストローの咥える位置によって変わるように。グアテマラ・アンティグアもまた、普段の彼女とは違う慈しみをもってピアノと対話している。そこに嘘はない。酸味の聞いた言葉もない。柔らかく頬を撫でるような余韻が僕をグアテマラ・アンティグアに釘付けにしてくる。


 驚くべき二面性を携えていながら、グアテマラ・アンティグア自体の後味はとても軽い。

 

 口の中に入ってきた瞬間の弾けるような果実味とミルクの甘さが僕の思考を徹底的に支配していく一方で、飲み込んでしまえば跡形もなく消えてしまう。あっさりとした味わいといった表現ではあまりに粗雑に感じた。これは魔法だった。魔法が消えてなくなる瞬間に何度も立ち会うような別れを僕は口内でループさせた。


 他人からすれば、グラウンドにできた水たまりのように彼女の濁った性格を嘲笑うものもいるだろう。しかし僕の目には、グアテマラ・アンティグアの世界は透き通って見えた。


 僕は空になってしまったグラスを忍ぶようにカウンターテーブルに置いて席を立つ。


 音楽室でピアノを弾く同級生を不意に見つけてしまった感動をそっと胸にしまい、僕は学校の階段を降りるように店を後にした。

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