第一章 ~『温泉と魔女』~
シルバニア辺境伯領には誇るべきものが二つある。一つは精強な騎士団、もう一つは温泉だ。
王国中から観光客が押し寄せるほど泉質に優れており、傷や疲れを癒やしてくれる。訓練で疲れた騎士たちの一日終わりのご褒美にもなっていた。
温泉好きは領主のレオルも同じで、彼は屋敷に温泉を引いていた。敷地の外れにある貸し切り露天風呂へとメアリーは足を運ぶ。
周囲はすでに暗くなっていた。湧き上がる湯気に包み込まれた湯船は、月明かりで照らされて神秘的な雰囲気を放っている。
メアリーが湯船に足を浸すと、足元に温かさが広がり、木々の葉が風に揺れる。穏やかな音を奏でる静寂を楽しみながら、温泉の心地よさを満喫していた。
(この温泉に入れただけでも、実家に帰ってきた甲斐がありましたね)
子供の頃から温泉が大好きだったメアリーだが、アイスビレッジ公爵家に嫁いでからは多忙でそんな余裕もなかった。
のんびりとしたスローライフも悪くないかもしれない。そのようなことを考えていると、湯気の向こう側で影が動く。
「誰かいるのですか!」
この露天風呂は貸し切りのはずだ。入口に鍵もかけているため、間違って入ってきたわけでもないだろう。
恐る恐る影の動いた方へと近づいていく。するとシルエットが形づいて、その正体が判明する。
「シロ様でしたか……温泉を楽しみにきたのですか?」
「にゃ~」
シロは躊躇うことなく温泉に飛び込む。猫は濡れるのを嫌がると聞くが、そのような素振りもない。不思議な猫だった。
(もしかしたら魔物の血を引いているのかもしれませんね)
魔物と動物の違いは、魔力の有無にある。
魔力は魔術のエネルギー源としての運用以外にも、体に宿しているだけで身体能力の底上げや老化防止にも役立つ。
起源の動物と習性が異なるため、水を恐れなかったり、いつまでも子猫のままだったりといったシロの特徴にも説明がつく。
(ただ魔力は感じないんですよね……内に秘めたまま隠している可能性もありますが……)
魔力をゼロにして隠すような技術は熟練の魔術師でも至難の業だ。もしシロがそのような魔力運用を行っているなら、魔物の中でも高位に位置する種なのかもしれない。
(私にとってはどちらでも構いませんね。シロ様は可愛い。それだけで十分ですから)
シロはしなやかに泳ぎながら湯船を移動し、水面に浮かぶ湯けむりを掴もうとしている。その愛らしい姿を間近で観察していると、興味をメアリーに移して胸に飛び込んでくる。
湿った毛並みの感触を感じながら、メアリーは笑みを溢す。
(こんな安らかな時間がいつまでも続けばいいですね……)
魔物を狩り尽くすために魔術の腕を磨いてきた。その努力の日々も終わったのだ。
(これからが私の第二の人生の始まりです。旅行したり、新しい趣味を始めたり、やりたいことはたくさんありますから)
頭上で輝く星を見上げながら、この先の人生に想いを馳せる。流れ星は落ちていないが、きっとこの願いは叶うはずだと信じるのだった。
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