第3章 1話 「オオサザキノスメラミコト」
大鷦鷯は、高津宮にてスメラミコトになることを宣言した。
ここに正式に第十六代スメラミコトが誕生したのである。
二代目の武内宿禰には平群木菟を任命した。父はあの一件以来、側近の大臣を置かなかったが、故に多忙さを極め体を酷使させたのであろう。ここは先人の慣例に従うことにした。異を唱えるものはいなかったが、唯一反対してきたのが異母弟の隼別(ハヤブサワケ)であった。
言い分としては、近しい者の人選はのちに災いをもたらすのではないかという、父と初代武内宿禰のことを含んでことであった。しかし、スメラミコトは明確に否定した。あれは疑いが晴れた事案であり、むしろ、父が武内宿禰のことを心底信頼していなかったからこそ起きた混乱であったと。隼別には「今はおぬしが心配することではない。自らの務めに尽くせ」と諭し、本来兄の大長守が担うはずであった海人部と山守部を束ねる役目を命じた。
軽島豊明宮は破棄し、三種の神器(みくさのかむたから)が高津宮に移され、しばらくは儀礼と各地の国造や県主の謁見が続いた。その中にはあの淡路の海人もいた。男は嬉しそうに「あなたこそが相応しいと思ってました」と大声で言い、これでもかという海の幸を差し出してきた。スメラミコトは満面の笑みを浮かべ、今度こそはしかとそれを受け取ったのであった。
百済、新羅、高句麗からの使者もあった。特に未だこう着状態の高句麗の使者を迎える際は、宮内にも緊張感が漂った。高句麗が献上したのは、どんな矢で射抜けぬという楯と的で、倭国の矢の名手である盾人宿禰(タタヒトノスクネ)に試し打ちさせることにした。すると、盾人宿禰の放った矢が的を射抜いてしまうという事故があった。場が凍りつくように静まりかえる中、「鏃(やじり)が高句麗のものであったのだ」というスメラミコトの機転により、その場を収めることができた。
ようやく謁見に訪れる者の数も収まり、宮内も落ち着きを取り戻してきたという頃、武内宿禰が改まって高津宮を訪れた。
「おう。木菟か」
スメラミコトが出迎えると、木菟と呼ばれた武内宿禰は、おいおいと手を振り、
「もうその名で呼ぶのはよせ。スメラミコトが武内宿禰と命じたのだぞ」
と睨んだ。
「そうだったな。すまぬすまぬ」
スメラミコトが頭を下げようとすると、
「おれに頭を下げるな」
とさらに一喝した。
「おれとおまえの仲だ。無礼は承知の上だが、頭を下げるのだけはよせ」
「そうであるな…」
スメラミコトはごまかすように、空を見上げ、体を伸ばした。
「スメラミコトよ、国見(くにみ)をせねばならぬ」
「ん?」
スメラミコトは腕をおろし、武内宿禰の方を向いた。
国見…。国見とは、この国を治めるものが高台から国土を望み、声に出して褒め讃えることによって豊りを祈る儀礼である。かの初代スメラミコトが橿原宮で即位したときにも国見が行われた。この倭国では、声、つまり言葉にもカミが宿ると考える。よって、口に出して言葉にすることが重要であった。なにより、スメラミコトは国をシラス存在。まずは国を見ることから始まるのである。
スメラミコトは殿上の端に移動した。
高津宮はもともと高台にあるためよく景色が望めた。
見事な快晴に目をしばたたかせ、眼下に広がる光景を見る。
河内湖に流れ込む大和川。はるか東の先には大和と隔てる山脈の影。わずかな平野には大小の建物が点在しているのが見えた。
美しい景色には違いないが、求めている景色ではなかった。われが見たいのはもっと民が活気のある姿…。
目を閉じ、その姿を思い浮かべようとする。
しかし、浮かぶのはかつて大和で見た、変色し痩せた田畑の光景と、うつろな目をした民の姿であった。
違う…。われは褒めなければならない。国土を褒めたてまつらなけれらならない。これは儀礼だ。言霊によって国土を潤わす。スメラミコトは自分に言い聞かせた。
だが、どうしても口が動かない。
どうしたのだ。われに言わせないつもりか。
目をあけたスメラミコトは、諦め大きくため息をついた。
そして自然と言葉が出た。
「これでは駄目だ」
「はっ?」
武内宿禰が声をあげ、首をかしげたままスメラミコトの顔を覗き込んだ。
「スメラミコトよ、今なんと言った?おまえは国見をしておるのだぞ。なにが駄目だと言うのだ?」
スメラミコトはゆっくりと首を振り、そして絞り出すように言った。
「竈の煙があがっておらぬ…」
「竈の煙…?」
「民の住居から竈の煙があがらぬということは民が飢えているということだ。飢えていてどうやって国土を耕せると言えようか」
先ほど難波の平野を望んだ時、感じた違和感がそれであった。集落は数えるほどしかないが、それでもまるで無人かのごとく静まり返っていたのだ。
われの知らぬところで倭国は死に絶えようとしている。
これがカミの起こしたことであるなら、祈る意味がある。しかし、これは人が招いた災いだ…。
「向こう三年。調(みつぎ)の取り立てをやめるべきだ」
スメラミコトが言った。
武内宿禰は絶句し、信じられないという目でスメラミコトを見た。
調とは、第十代スメラミコトの御世に民に課せられたものである。「弭調(ゆはずみのみつぎ)」と「手末調(たなすえのみつぎ)」と呼ばれ、男は獣の肉や皮革など狩猟でとれた物、女は編んだ絹や布を献上するとはじめは定められた。今は農作物なども範囲が広められ、広く地域によっても合わせ定められている。
「民は先の戦と、田畑の不作によって疲弊している。われはこの目で見たのだ。そしてこれは大和だけに限った話ではなく、各地域の国々ではさらに災害などで苦しんでいるとまで耳にした。このままでは倭国の土台が崩れてしまう。戦以上の困難を今われらは迎えようとしておるのだ。国土をあずかるわれとしては、なんとかするしかない。われにしかできぬこと、われにならできることを」
「待て、待て、待て!」
武内宿禰が手を振り上げ叫んだ。
「…調は、かつてのスメラミコトが決めたことであるぞ。それを変えると申すのか?」
「変えるとは言っていない。三年だけの話だ」
「そんな型破りなこと…。おまえはスメラミコト…」
「…おぬしがわれにスメラミコトになれと言ったのだぞ」
「……」
「…たしかにおれは言った。おまえがスメラミコトにふさわしいと…」
武内宿禰は頭を抱えた。しかし、次の瞬間には「ふふ」と声を漏らし、顔に笑みが浮かんだ。諦めたという笑いだった。
「もちろん、われだけの力ではやり切れぬであろう。おぬしの力が必要だ。むしろ、おぬし以外にはこんなことを頼めぬ」
「こんなこととは認めるのだな」
「あぁ」
今度はスメラミコトが笑みを浮かべた。
「頼む。われの力になってくれぬか」
「……」
最も翻弄されることになるのは武内宿禰であることは承知していた。国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)の説得に実際に当たるのは武内宿禰である。しかし、考えを改めるつもりはなかった。倭国のために今もっともすべきことなのは間違いないのだ。
「それはスメラミコトとしての命か?」
「もちろん」
「ならば仕方がないな」
「どうしても納得せぬというものがおれば、われの元へよこしてくれ」
「承知した」
武内宿禰はそう言って頭を下げた。
*
正妃となる磐之媛が葛城から高津宮にやってきた。
宮は総出で盛大に迎えた。おそらく、大鷦鷯がスメラミコトに宣言してから、最も宮内が騒がしくなった。
スメラミコトが殿上で待ち受けていると、門の方から行軍さながらの兵の隊列が入ってくるのが見えた。先頭は馬に騎乗した異国の兵と鳥の装束の鴨族が務めている。
磐之媛は、大和の伝統的な装束を身にまとっていた。衣は白と赤を基調とし、正面で大きな帯を巻いている。化粧は目元に赤いすじをいれ、髪は男子が結むみずらとは違い、中央で丸く結び櫛でとめられていた。首と手首の飾りが陽の光りにきらめいている。
スメラミコトは思わず顔がほころびそうになり堪えた。あのはじめの出会いの衝撃がなければ、素直に令しくおとなしい娘と見たであろう。
ただ、あの娘がこのような立派な姿になったのかと思うと、それはそれで感慨深くも思った。きっと、われと同じように磐之媛も葛藤や覚悟もあったであろう。正妃になるというのはどういうことなのか。すると、ふと愛おしさのようなものが湧いてきたりもしたのであった。
しかし、儀礼が終わり磐之媛を宮殿に招き入れると、そのようなスメラミコトの望郷するような感傷的な思いは見事に打ち砕かれた。
「思うてたよりは、良いところではないか。これよりわらわの城なのだな」
磐之媛は先導したスメラミコトを追い越して奥の間に入ると、柱を叩きながら隅々を見ては、「常に海原が見えるのは落ち着かぬが」と帳を覗いた。
呆気にとられているスメラミコトをよそ目に、磐之媛はとなりの間に移っていく。
困惑した顔で女孺がこちらを見た。スメラミコトは、仕方ない好きにさせてみようと表情で伝え、座して待つことにした。
突然、バタバタと足音がし、「ひぇ~」と悲鳴が聞こえてきた。
まさかと思いスメラミコトが立ち上がろうとすると、磐之媛が髪長媛を抱きかかえるようにして連れだって間に入ってきた。
「これがおぬしの前妻か、こんなかわゆい娘をもらっていたとはな」
と髪長媛を差し出すようにして見せる。
「ひぇ~。すみませ~ん」
髪長媛は何故か謝りされるがままで、磐之媛は意に介する様子もなく言った。
「どこの娘だ?」
「どこもなにも…、われの妃である」
「そういう意味ではない。どこの生まれの娘だ」
「髪長媛は日向国の諸県牛諸井(モノガタノウシモロイ)の娘だ」
「ほう。日向国。また遠いところから来たのだな」
磐之媛が髪長媛の顔を覗いた。
「はぃ。そうであります。すみません」
髪長媛は、また謝る必要がないのに謝った。
「本来は父上の妃となるはずであったのだが、われが見初めたのだ」
「……」
「髪長媛は、われが今までに見てきた娘でも最も令しい…」
スメラミコトがそう言うが否や、磐之媛は髪長媛を掴んでいた手を放し、バタン!と音と立てて髪長媛は床に倒れた。すかさず女孺が駆け付ける。
「ふーん」
急に磐之媛は興味をなくしたようにつまらなさそうにして、帳をあけ間から表に出て行った。
スメラミコトは後を追った。
表に出ると海原を眺めている磐之媛が立っていた。
「それほど海原の景色が珍しいか?」
と声をかけたが、磐之媛はなにも答えない。
それでも背に向けて語りかけた。
「しかし、相変わらずであるのう。さすが葛城襲津彦の娘」
「それは、どういう意味である?」
磐之媛は背を向けたまま言った。
「どういう意味と言うべきであるか…。われはおぬしとはじめて会った時のことをよく覚えておるぞ」
磐之媛の肩がピクッと動く。
「忘れられようもないわ。あれは…」
「わらわは覚えておらぬ!」
磐之媛は叫ぶようにして言葉を遮った。
「…そうか、覚えておらぬか」
スメラミコトは、そんなはずはないだろうとも思いつつ、
「おぬしの父上、葛城襲津彦から聞いたぞ。おぬし、われのことを好いてくれているそうだな。われは素直に嬉しく…」
「それは嘘である」
「えっ?」
「わらわは、おぬしこそがわらわを好いておるから、どうしても行ってやってほしいと懇願されてここにきたのであるぞ」
「……」
やはりそうであったのか。おかしいと思っていたのだ。この娘がわれのことを好いておるのだと…。いや、待て、われが好いていたからだと。それも嘘だ。
スメラミコトは首をかしげつつ、磐之媛の表情を見たかったが、背を向けたままなので見ることはできなかった。しかし、そんなことをここで言い争っても仕方がなかった。どちらがどうであれ、結果は同じことであったのだ。それに、先ほど正装した磐之媛を見て、令しいと思ったのも事実だった。
「たしかに久しぶりにおぬしの姿を見た時は、見違えたがな。あの娘がこれほど令しくなるものかと」
「……」
「われは歓迎するぞ。おぬしが正妃となると決断してくれたことを嬉しく思う。末永く、力を合わせ共に暮らそうではないか」
「ふん」
磐之媛はそう鼻を鳴らし、こちらを向いた。
そして、腕を組み言った。
「そこまで言うのなら仕方ないわね」
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