遺伝子の記憶

本条想子

第1話 アルバイト

 昨日は、アルバイト先で腹を立てたため、今日の目覚めが悪かった。

 アルバイトは劇場の客室係だった。客室係の仕事は、場外で切符切りのもぎりと呼ばれるものと、場内の案内や監視、そして扉の開閉の仕事などがあった。

 扉の開閉時間は、上演時間によって決まってくる。少々の時間のずれは、芝居の進行状況で把握できた。そして、役者自身も毎日の事で、そうそうばらばらな時間に終わるようなセリフ運びはしない。

 いつも、終演時間の十分前から扉を開ける準備をすれば間に合った。普通は二人ぐらいが場内に残り、終演時間になると扉ごとに、一人か二人が付いて、扉を開けてお客を送り出す手筈になっている。夜公演は人数が少ないが、終演のアナウンス前には、休憩の人たちや場外の人たちが駆け付けて、扉は電灯が点くと同時に開けられて、お客を送り出す態勢が整っていた。



 しかし、昨日は大きく違っていた。私が休憩を終えて、夜公演の場内に入ると芝居の進行が早いように感じた。場内を見渡しながら、芝居に注目するとセリフが早いことに驚く。そして、セリフが一部カットされている始末だ。

 芝居は爆笑時代喜劇だったため、少々の事はお客にもわからずに済んだだろう。しかし、時間が経つにつれ、大胆になっていった。

 セリフが早くなっているため、役者も戸惑い気味でセリフをつっかえている。それに苛立ってか、

「もういいよ」

と、笑いながら座長が言っていて、その役者のセリフを遮って幕に引っ込んで行ってしまった。ここまで、座長の要請なのか誰も逆らわないできた。


 しかし、お女郎さん役の女優が独りだけ抗議めいた言葉を発した。

「それは、ないですよ」

と、言うのが精一杯のようであった。この人は、女優というより抜群の歌唱力がありながら少女時代のデビュー曲がヒットしたきりの演歌歌手であった。


 しんみりした場面では、二大主演だったお姫様役の売れっ子女優が、普段通りにセリフを言っていた。流石に座長も気を使ってか、頼む事ができなかったのだろう。しかし、照明係には頼んでいたのかセリフの最後を言い終わる前に消えていた。そんなつけが、他の役者のセリフ回しに極端に現れているようだ。


 私は交代の人が来ると、すぐに主任の所へ走った。

「芝居の進行が早いのですが、どうしたのですか」

と、主任に尋ねた。


「座長が今夜、テレビに出演するらしい。だから、早く終わるようだよ」

と、平然と答えた。


「セリフが滅茶苦茶ですよ」

と、私はいきり立った。


「テレビの方が大事なんだろう。無理を承知で出演するのだから」


「役者というのは、ギャラではなくて、舞台を大切に考えていると聞いていましたから、残念で仕方ありません。それに、お客様に対しても申し訳ないと思わないのでしょうか」


「まぁ、そうそうある事じゃないだろうから、我慢してやりなさい」

と、冷静に言っている。



 その時、舞台劇好きのホームレスの名物小母さんが大きな紙袋を提げて、切符も買わずに入ってきた。

「小母さん、切符がなければ入っちゃ駄目だよ」

と、いつもの馴れ合いの言葉を主任が言った。


「いいからいいから、私の一人や二人が加わったって席は空いているでしょう」

と言って、平気でずかずかと入っていった。


「仕様がないなぁ」

と言ったものの、もう主任は諦めているようだった。


 場内へ入っていった小母さんは、少しして帰ってきた。

「この間見た時より、芝居が早いよ。早口だね。役者があんな芝居をしちゃいけないよ。お金を取って見せているのだから」

小母さんは苦言を呈した。そして、小母さんはブツブツ言いながら再び場内へ消えた。


「いつも切符を買わないで、よく言うよ」

主任は呆れ顔だった。



 この小母さんは、芝居好きで、中でも『劇中劇』にはまっているようだ。劇中劇は、劇の中でさらに別の劇が展開するもので、「入れ子構造」によってある種の演出効果を生む技法だった。「これ、劇中劇ある」とかよく聞いてくる。「ないですよ」と言っただけで、入らずに帰ることもあったほどだ。


「どのくらい早く終わるのでしょうか」


「10分か20分ぐらいだろう」

と、不確かな事を言った。


 しかし、結果は幕間の休憩時間も短くし、40分も前に終演した。終演のアナウンスは遅れるし、ライトが点くのは遅れるし、扉を開けるのも遅れるしで、お客の口々から不満が漏れて散々の結末だった。

 私は、役者魂なんてこんなものかと思いながら、家路を急ぐお客に対して、いつもより丁寧に見送った。ただ救われたのは、たった独りの女優でも、悪い事をしていると気付いてくれているという事だった。私は、もう一度あのデビュー曲のようにヒットを飛ばしてもらいたいと願わずにはいられなかった。


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