第二十四話 西征に向けて

 私は政治家としては内政を重視していました。特に首都の衛生状況改善には精力的に取り組み、上下水道の補修や新設には積極的に予算を配分しましたよ。


 このため、同じように内政重視派の宰相のムルタージャなどは私を強く支持してくれるようになっていました。


 というのは、アルタクス様が西征の準備に注力し始め、軍の拡充や武装の新調、軍需物資を国境に集積するなどして予算をバンバン注ぎ込み始めたからです。内政を重視したいムルタージャとしては見過ごせない浪費に思われたのでしょう。


 ムルタージャは何度かアルタクス様本人にも諫言をして、西征など無謀であり益もないのだから止めるようにと主張したようですね。


 しかし、アルタクス様が受け入れないので、皇帝陛下に唯一意見出来る皇妃であり、内政を重視する私に皇帝陛下を止めてくれるように願い出てきたのでした。


 内廷の相談室でそう持ちかけられた際、私はキッパリと言いました。


「陛下の願いを叶えるのが大臣の仕事ではありませんか。陛下が西征を志すのなら、大臣は総出でこれを助け支えなければなりません」


 しかしムルタージャは納得しませんでした。彼は様々な資料を用いて説明をしてくれました。


「陛下が西征の最終目標にしている神聖帝国の首都ヴィーリンは、我が帝都から行軍二ヶ月程の位置にあります」


 私は驚きました。意外に遠いのですね。考えてみれば、帝都から私の故国ローウィン王国の国境まで馬車で半月以上掛かるのです。軍勢ならもっと掛かるでしょう。


「ヴィーリンは守りの堅い都市ですから、陥落させるには十万人以上の軍勢が必要だと思われます。もちろん、これは最小限の試算です」


 十万人? 途方も無い数です。十万人を超える人口を持つ街など故国には王都を含めてありませんからね。それがゾロゾロ二ヶ月も行軍するというのです、


 ただ歩くだけではありません。その間に食事をして排泄をして睡眠を取らなければなりません。その手当を考えるだけでも気が遠くなります。大都市レベルの集団の消費を二ヶ月、いえ、往復ですから四ヶ月。戦争ですからきっとそれ以上の期間支えるというのがどういうことか、帝都の政治に取り組んでいる今の私にならわかります。


「そうやってたとえヴィーリンを陥落させたとしても、彼の地は遥かに遠過ぎて我が帝国では統治しきれません。遠征しても益がないというのはそういう意味です」


 ヴィーリンは神聖帝国に与する諸侯の領地に取り囲まれていて、奪っても守り切るのは非常に難しいと思われる事。ヴィーリン陥落に刺激された西方諸国が大同団結して、奪還のための遠征軍を興されると戦争が長引く可能性があることなどもムルタージャは説きました。


「ローウィン王国を保護国化出来るならそれで満足すべきではありませんか。そこからじわじわと北方や西方を圧迫していけば、情勢は帝国に有利になってくるでしょう。何も長征に拘ることはありますまい」


 さすがに長く宰相を務めるムルタージャの言には説得力がありましたね。私は考え込んでしまいました。


 私が単なるアルタクス様の寵姫なのであれば、こんな事を考える必要はありません。しかし私は皇妃でアルタクス様から帝国の政治をかなりの部分任された存在です。


 アルタクス様は私の判断を尊重して下さいますし、私の政策を覆すような事をしたこともありません。だからこそ、私は自分の責任で物事の判断をしなければなりません。


 単なる寵姫としてではなく、ただの妻としてでもなく、一人の責任ある政治家として、私は果たしてアルタクス様の企む西征に賛成できるのかどうか、が問われていました。


 内政を司る立場で見れば、西征は壮大な浪費です。多大な予算を消費しながら、予想される利益は大した事がないという、ムルタージャの言う通り労多くして功少ない計画であると言わなければなりません。


 ローウィン王国を実質的に手に入れられる算段があるのであれば、そこに帝国の駐屯地を造ってローウィン王国を帝国が守備する一方、ハウンバール王国を圧迫化してこれも属国化すれば、神聖帝国は帝国からの圧力に苦しむことになるでしょう。


 この状態で有利な条約を結べば、帝国の西部北部国境は安泰になります。帝国の敵は西だけではなく、東にも南にもいます。海を超えた先にも争いがあって、帝国は大きな軍船で組織された大艦隊を送っているのです。西部国境の安定があれば、これらの他の紛争地域に注力することが出来るでしょう。


 そういう事を考えれば、無理な西征は控えるべきであり、私は皇妃として。責任ある政治家として、皇帝陛下の事を諌めて無謀な遠征を止めなければならないのかもしれません。


 私は考え込んでしまいました。それで、私はハーレムに帰って二人きりになった時に、アルタクス様に質問をしてみたのでした。


  ◇◇◇


「アルタクス様はどうして西征がしたいのですか?」


 お風呂上がりに寝室のソファーに並んで座り、肩を寄せ合った状態でそんな事を問われて、アルタクス様はキョトンとした顔をしてしまいましたね。こんな甘い状況でする話ではなかったかもしれません。しかし、他のシャーレがいるところで出来るような話ではないので仕方がなかったのです。


 アルタクス様は少し考えて、こうお答えになりました。


「それが皇帝の義務だからだ」


 端的なお返事でした。私にはよく分からず首を傾げてしまいます。


「西征が皇帝の義務なのですか?」


「西征、がではないな。西に限らぬ。南に東に、あるいは海の向こうにも、軍を送り敵を撃ち倒し、領土を広げて行くのは皇帝の義務なのだ」


 意外なお言葉でした。アルタクス様個人の野望なのではなく、皇帝たるものの義務だから軍を発すというのは。


「カロリーネ。君も政治に携わったなら、人間社会が常に拡大するものである事を知ってるだろう? 帝都は毎年人口が増え、都市は発展し、建物も市場もどんどん増えているであろう?」


 そうですね。帝都の拡張は目にも止まらぬ速さで進んでいます。帝都に入りきれずに城壁の外の数カ所に衛星都市が出来ていてそれが繋がって帝都を取り囲んでいるくらいです。


 栄えている街には人が集まり更に発展するというのは自然の摂理と言うべきでした。


「この自然な拡大を抑えるとどうなるか。すると流れが淀んで腐敗が始まる」


 拡大を止めた街や国は必ず腐敗するのだとアルタクス様は仰います。人心は荒廃し風紀は乱れ、人も金も上手く流れなくなって経済も縮小し、汚職や賄賂が横行して政治も上手く機能しなくなる。これも自然の摂理なのです。


「だから国は常に拡大をし続けなければならない。流れを淀ませてはならない。拡大する先に敵がいるなら撃ち倒さなければならない。そうしなければ国は腐って必ず滅ぶ。国を拡大させ続け、国の健全さを保つのは皇帝の義務なのだ」


 私は言葉を失いましたね。アルタクス様のお言葉には勇壮な響きはなく、むしろ悲壮な覚悟が隠れていました。


「……拡大にも限度がありましょう? その時はどうするのですか?」


 予算的にも人員的にも、国家が統治出来る国の広さには限界があると思います。ムルタージャの意見では、現在の帝国はその統治限界に近づいているという事でした。これ以上の拡大は帝国にとって負担が大き過ぎると。


 拡大を続けなければならないのに。拡大には限界がある。矛盾ではありませんか。限界まで拡大した先に、帝国はどうなってしまうのでしょう?


「……かつてあった大帝国は、そうやって限界まで拡大した先に崩壊してしまった。あるいは拡大を止めて腐り落ちてしまった。どちらに転んでも国家に永続はないのだ。カロリーネ」


 アルタクス様のお言葉から感じる悲壮感の原因はこれでしょう。アルタクス様は帝国の永遠なる発展と継続を願っていながら。それが不可能であることも察していらっしゃるのです。


「心配するな。帝国には拡大の余地は残されているから、まだまだ滅びぬ。滅びるとしても君と私の子の、そのまた次の世代以降のことになるであろう」


 その時の事はその時の皇帝が考えれば良いのだとアルタクス様は仰いました。私は頷きました。そうですね。そんな未来の事は私たちにはどうにも出来ませんもの。


「それと、西征してヴィーリンを陥落させる事が出来れば、神聖帝国は混乱するであろう。そうすればそれに乗じて神聖帝国の一部を切り取る事が出来るかもしれぬ」


 神聖帝国の南部から西部は肥沃な土地ですから、ここを奪ってしまえば神聖帝国を含む西方世界の経済に深刻な打撃を与える事が出来るといいます。帝都から遠過ぎるので直接統治は難しいので保護国を置いて間接統治する事になるでしょうけど。


 そういうアルタクス様の説明を聞いて、私は安心しました。彼は自らの野心にのみ突き動かされて、無謀な西征に踏み切ろうとしている訳ではなかったのです。


 帝国の未来を考え、自分の孫子の代のことまで見据えての決断だったのです。当然ですが、帝国の内情や予算に掛かる負担まで考慮しているのでしょう。私が心配するような事は、アルタクス様はとっくに考えて対策している事でしょうね。


「君が後を守ってくれれば安心だ。君に帝都を任せて、私は前だけを見て進撃する事が出来る」


「分かりました。お任せくださいませアルタクス様。私は貴方を信じます。貴方の、御心のままにお進み下さい」


 私とアルタクス様は微笑み合い、熱い口付けを交わしたのでした。


  ◇◇◇


 遠征には莫大な予算が必要です。帝国は豊かで帝都に集まる富は膨大で、そこから上がってくる税収は途方もない金額になりますけど、十万人もの軍勢を何ヶ月にも渡って遠征させるのに必要な予算もまた桁違いです。


 そのためにアルタクス様は帝都住民や市場に臨時の税金を課す事を決めました。この時は元々取っている間口税と出店税を上げることにしたのです。これは帝国が軍事行動をする時はいつも行われる事でしたから、この布告があっただけで西征が間近いことに気が付いた者も多かったと思います。


 そして人員の徴募ですね。兵士や輸送に携わる者を帝都の民衆から募集して集めるのです。必要人員に足りない場合は、強制的に駆り集める事もありますけど、百万人もいる帝都住民の中には職に就けず食い詰めている者も多いですから、募集すればあっという間に定員まで集まるのが普通でした。


 ここで帝国軍についてちょっと説明しましょうか。


 帝国軍には常備軍がいます。故国では騎士以外の兵士は皆、傭兵でしたから、こちらで常備軍について教わった時には驚きましたね。


 帝都には常に三万人ほどの兵士がいます。この内、一万人は帝都の住民から徴募した兵士です。五年契約で、帝都の守備や帝都周辺の治安維持活動に従事し、何も無い時には訓練をしています。もちろん、遠征もします。


 残りの二万が近衛軍と呼ばれる軍団です。これが他国には類を見ない、帝国独自の軍制によって編成された軍団なのでした。


 近衛軍の人員は子供の頃に集められます。各地の太守が年に一度、領内で集めるのです。これは太守の義務となっています。


 この時、別に奴隷でなければならないという決まりはないそうですけど、子供を差し出したがる親はあんまりいませんので(この場合は見返りが何もありませんので)、各地の太守はどうしても奴隷の子供を集める事になります。


 太守はこの子供達を十歳くらいまで育成します。色んな労働に従事させ、適性を判断し、そして戦士に向いていると思われた者を帝都に送ります。


 ちなみに、この時に戦士には向かないけど賢く勤勉な者は、官僚候補としてやはり帝都に送られます。そして官僚見習い、あるいは宦官になって帝宮で働くのです。


 そして帝都に送られた戦士候補は厳しい訓練を積み、十三歳で成人するとようやく一人前の近衛兵になることが出来るのです。


 この英才教育された近衛兵は規律ある行動と、指示に迅速に従う忠実さを持ち、勇猛果敢でもあります。最新鋭の軍装を与えられた彼らこそ帝国軍の中核なのです。


 この他に、大規模な遠征ともなれば各地の太守が兵を率いて集まってきます。太守の率いる軍は騎兵が多いです。特に帝国の南西部は草原地帯ですので、馬に日常的に乗っている者が多く、それが剽悍な騎兵として戦争時には重宝されています。


 今回はこのような兵や人員を集めて十二万人(輸送部隊を含む)という大軍勢を編成する事になっていました。途方もない人数ですが、帝国軍はかつて、二十万人を集めて今はなき東の強国を滅ぼした事があるそうですので、けして無理のある軍の数ではないそうですけど。


 しかしながら大軍勢である事は間違いありません。その準備は本当に大変でした。


 十二万人は人間だけの数です。これに何千頭もの馬が、ラクダが、大砲を引くための牛が加わります。これらの生き物にも食事が排泄が、休養が必要です。それの手配にも人がお金が場所が時間が必要なのです。


 太守達が集めて送り込んでくる軍勢や馬やラクダを帝都で一時引き受けるだけでも大問題でした。帝都に全員入れたらいくら大きな帝都でもあっという間にパンクしてしまいます。


 幸い、地方の騎兵達は遊牧生活を送っている者も多かったので、私は彼らに帝都城壁の外での野営を命じ、食糧や水はそこまで配給する事にしました。帝都の中にどうしても入りたがる一団もいましたので、これはやむを得ず入れて、騒動を起こさぬよう厳しく命ずるしかありませんでした。


 戦争の準備の為に物資を集めると、それに乗じた商人達の買い占め値の吊り上げが起こります。そうすると帝都の物価が高騰してしまい、帝都の民衆が困り怒り、暴動につながる場合もありました。


 私は先手を打って商人達に布告を出し、不当な買い占めを禁じましたが、それでも物価の高騰はどうしても起こったようです。実際問題として十万人の胃袋その他を満たすために帝国軍が物資をドンドン買い集めたおかげで、物資が品薄になっているのは事実でしたから、ある程度はやむを得ないと考えるしかありませんでした。


 もっとも戦争は経済にとって悪いことだけでもありません。帝国軍は武具や弾薬などを帝都の職人に発注しましたから、職人街は大活況を呈したそうです。


 普通の服や下着、背嚢、水袋、靴や靴下や帽子や手拭い、そういういわゆる日用品も兵士達が遠征に行くには必要です。大砲を馬に引かせるにはロープが必要ですし、食料を運ぶ為には麻袋が要ります。そう、遠征軍にはありとあらゆるものが必要で、それは軍隊では生産出来ません。すべて帝都の職人が作るしかないのです。


 ですから帝都の経済は活性化して税収も相応に増えて、私の試算では十分に遠征の費用を賄う事が出来ると考えられました。もちろん、遠征が予定以上に長期化すれば話は別です。


 遠征準備が始まると、機を見るに敏な海外の貿易商人が帝都に押し寄せ、帝国軍に物資を大量に売り付け始めました。食料品や日用品もですが、サーベルや大砲や鉄砲、そしてそれに使う火薬など、帝国内だけでは調達が難しい品を貿易商人達は運んできていました。


 彼ら貿易商人は海の向こうの、どちらかといえば西方世界の者達でした。彼らは既に我が帝国軍の目的が西方遠征であると知っている筈でしたが、一切気にする事なく帝国軍に物資を売りつけていましたね。商人の逞しさです。


 帝国軍の遠征準備の動きが隠れもしないようになると、各国からの外交使節の来訪も活発になりましたね。侵攻方面にある国や諸侯から、帝国の意図を問う書簡が届き、中には帝国の野心を非難する使者もいました。


 アルタクス様は遠征準備に掛かり切りになっていましたから、そういう使節への対応も私がしました。


 そういう時、私は首を傾げため息を吐きながら言うのでした。


「どうなのでしょう? 陛下のお心は私にも計り知れません。私も心を痛めておりますの」


 これから攻め込んで貴様らの首を城門に晒してやろう、などと馬鹿正直に言う必要はありませんよ。なるべく韜晦して真意を悟らせず、相手の対応が遅れるように仕向けたいところです。


 時には「西方ではなく東方への遠征だと聞いていますよ?」と惚けたり「私は軍事には疎くて」などと言ったりしました。使節の者達は呆れたり私の不誠実な態度に怒ったりしてましたけど、私の知ったことではありません。


 そんな中に紛れてローウィン王国からも使者が来ました。口頭では他の国の使節と同じように私を問い詰めたり怒ったりしていましたが、同時にもたらされたお父様からの書状で、アルタクス様の提案に同意してローウィン王国は我が帝国に降る事。西征のために国を挙げて協力する事。神聖帝国や周辺諸国からは帝国に対抗するための共同作戦への協力を求められているけど、協力するフリだけしている事などが書かれていました。


 実際、エルムンドはもっと緊密に密使を送ってお父様と具体的な作戦を立てているようでしたね。それによれば我が帝国軍は一気にローウィン王国を縦断してルクメンテ公国に突入する手筈になっているみたいです。ルクメンテ公国を抜けば神聖帝国首都ヴィーリンはすぐそこです。作戦が上手く行けば帝国の積年のライバルである神聖帝国に大きな打撃を与える事が出来るでしょう。


 もっともアルタクス様曰く「戦争だからな。相手がいる話だ。敵とてこちらを出し抜くために様々な策を考えていることだろうから、そう簡単にはいかぬさ」という事でした。そんなことを言われると私は不安になってしまいますけど、アルタクス様の自信は揺るぎませんでした。


「心配するな。来年の今頃には、君は二つの帝国を統べる皇帝の妻になるだろう。楽しみにしておく事だ」


 アルタクス様ならきっとやってのける事でしょう。私も彼の野望の成就の為に、あらゆる障害を蹴散らして、全力で支えようと決意していました。


 年明け早々、まだ春にならない内に、アルタクス様は出征の詔勅を発し、既に帝都に集合しつつあった十二万の大軍勢に出撃を命じました。進む方向は西北、ローウィン王国方面。


 いわゆる西征の始まりです。

 

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