マウンドに咲いた向日葵

渡橋銀杏

第1話 三年生の引退

 夏の終わり。夏がいつからいつまでなんて人それぞれの持つ定義によるだろう。


 夏休みの終わりとか、お盆休みの終わりとか、気温が三十度を下回ったらなんて様々な測り方があるけれども、その中で先輩たちの夏は今、私のほんの数十センチ後ろで硬球がキャッチャーミットに吸い込まれてバシンという音を立てた瞬間に終わった。アンパイアがストライクのコールをしてゲームに幕が下りる。


 高校女子野球千葉県大会準々決勝の二試合目。


 甲子園のサイレン、その代わりと言わんばかりに大きな音を立てて蝉が泣いていた。ギンギンギンギンと耳の膜に直接、不快な音を響かせてくる。その音が一周するたびに体中の汗腺からまた再び汗が溢れた。一筋の汗が耳の後ろをすり抜けて背中に消えていった。これから夏本番を迎えようとするこの季節、七月の半ばだった。


「ああ、負けたのか」


 脳では理解していたけれども、バッターボックスの中で言葉にしたおかげでようやく体の中に負けた感触が染み込んできた。負けた悔しさは、自分の中から上手く出てこなかった。バットを叩きつければいいのか、大きな声をあげて悔しがればいいのか、そんな風に感情を大きく表現することが少なかったせいか多分、他の人から見れば三振しても飄々とベンチの方に戻っていると取られるかもしれない。ただ、私は自分自身がふがいなかった。負けたのも、何もできなかったのも事実だ。


「お疲れ様」


 相手チームとホームベースを挟んでの礼が終わると、ベンチにいた昴に声をかけられる。いつもならそれを喜んで、表情筋があまり鍛えられてないせいで分かりづらいんだろうけど、それでも小さく微笑むような、自分にとっては嬉しい出来事のはずなのに。それが、今の自分が悔しがっている証拠なのかなとも思う。


「ベンチからの応援ありがとう。打席でも聞こえてたよ」


「そっか、それは良かった」


 昴が頷いて、私の頭に手を置いた。昴は、私よりも十センチ以上も身長が低くて、本当は背伸びしても頭のてっぺんに届くはずがないのに、つむじの辺りから夏の不快な日差しと違う温かさが、彼女の手の平を通じて伝わってきた。


「ごめんね」


 どうしてごめんという言葉が出てきたのかわからないけれども、私は昴に向かってそう言った。昴は、予想通りにぽかんとした顔をしている。次の瞬間に溢れかけた涙をこらえて、それでも私が落ち込まないようにと精一杯の笑顔を浮かべてくれる。そんな昴のことが、私は好きだった。いつも明るくて、向日葵みたいな。


「ううん、湊は頑張ったよ。ほら、帰って休もう」


 ぽんぽんと背中を優しくたたかれて、私は片づけを始める。


「ありがとうございました!」


 グラウンドから去る前にもう一度、全員でそろって礼をする。既にグラウンドの整備は始まっていた。二時間もすれば、またここで新しい試合が始まって、またその数時間後にはまた誰かの夏が終わる。


 失礼な言い方かもしれないけど、あっけないものだった。これまで野球をしてきて何度も最後の夏、引退試合を自分のものも含めて経験してきたけれどもやっぱり負ける時は一瞬だった。スコアボードには上の欄には八が、下の欄には零が表示されていた。スコアを見れば誰が見ても大敗だとはっきりわかる。


 ベンチの裏から外へと出られる通路の中で三年生の間に会話は無かった。特に最後尾を歩く遠野さんは言葉を発する気力も残っていないようで、頭にタオルをかけてただ歩いている。最終回、スタミナの切れかかっていた遠野先輩はそれまでのらりくらりと二点に抑えていた相手打線につかまって一挙六失点で終戦。


 もともと、打線もプロ注目の相手先発から散発の四安打に抑えられていたからこそ、最後の舞台として遠野さんを続投させていた部分があるのは湊にもわかる。後ろで守っていた三年生たちもそれには納得しているようだった。


 今年は特に投手不足の中で、二年生のエースである昴が怪我をして状態があがらなかったことが監督にとっては大きな誤算だった。ここまですべての試合で遠野先輩は先発し、五イニング以上を投げてきた中で捕まった先輩を責めることはできない。


 遠野さんが最後に取ったアウトもショートのファインプレー。用意されたドラマのように感動的な流れだった。だけど、うちはホームは踏めなかった。本当の距離以上に、ホームベースが遠かった。それは湊が一番よく感じている。


―――でも、リードもバッティングもどっちもダメだ。


 自分自身ですらも気が付かないようなそんな考えも、隣にいた昴は察して気遣ってくれる。自分が支える側じゃないといけないのに。


「大丈夫だよ。湊は頑張った。ここまで来たのも湊のおかげだよ」


「そうだぞ、気にするな」


 サードを守っていた三崎先輩が、ちょうど私たちを追い越していくときに背中をバシンと叩いてからそう言ってずんずんと前に進んでいった。先輩たちも泣きたいだろうに、それでも涙を見せない。それは私たちに強いところを見せてくれているのだろうか。先輩たちと甲子園に行けなかった、その悔しさが噴き出した。


「ありがとうございました」


 そんな先輩たちに向かって、小さな言葉だけが口から漏れた。



 夕方、グラウンドには二つの人影があった。


「ほら、湊。そろそろ休もうよ。怪我するよ」


 ボールをあげる石田昴と、それを打ち返す掛橋湊。湊はずっとバットを振りながらも、今日の打席から見た光景が脳裏から薄まってくれなかった。


 柏原は千葉県でベスト四常連の県内なら十分に強豪と呼べる力があった。そのおかげで同じ関東圏の東京や埼玉、神奈川の強豪から練習試合を申し込まれることも多く、これまでプロ注目と呼ばれる選手と打席で対することは人一倍与えられていた。


 あったけれども、ドラフト一位候補とまで呼ばれる選手を打席で目にするのは初めてだった。変化量の大きなスライダーで腰を引かされ、アウトコース低めに決まるストレートのコンビで四打席連続で凡退。その悔しさをぶつけるように、スライダーの幻影を振り払うためにバットを振る。それしか思いつかなかった。


 もう何回、スイングしているのかわからない。昼頃、学校に戻って先生に解散を言い渡されてから休憩を挟みながらずっとこうしている。試合中、ボールを受け続けていたこともあって手に握力は残っていないし、疲れで体勢が崩れているのもわかる。スイングフォームが崩れる可能性もあったけれど、それでも気が済むまで素振りをしていないと、もう体力も残さずに布団に入った瞬間に眠らないと、いつまでも寝れない気がした。昴があげてくれるボール、それを思い切り振りきろうとした瞬間。


「湊!」


 ボールが二つに重なって見えて、バットが手からすり抜けようとした。しかし、それは手の平にくっついて離れない。そのせいでバランスをとれずにふらりと脳まで揺れる。いつの間にか私は昴に抱き留められていた。


「湊はよく頑張ったよ。お疲れ様」


 昴の小さなそれでも暖かな体に包まれて優しくされた瞬間。


 ようやく目から涙が零れ落ちた。


――悔しい。悔しかった。


 溢れてくる思いは、今日の試合の悔しさと自分へのふがいなさと、もっと上手くなれるのかという不安だった。自分でも気が付かないうちに私は弱くなっていたのかもしれない。それを見かねた昴が助けてくれるまで、ずっとそんな気持ちに押しつぶされてしまいそうだった。ようやく、自分の涙と心が落ち着いたところで昴にバットを手から外してもらって、その日はゆっくりと眠ることができた。

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