第116話 外伝「空が青いと君がいった日」1

 世は並べて事もなし。

 娼婦と寝た朝に思うのは、そんなことだ。

 わたしに背をむけて軽い鼾をかく女は、モーリア王国から来たという。かなりの売れっ妓らしく顔も身体も悪くなかったが、いささか喋りすぎたし化粧が濃い。

 神殿に戻るまえに湯をつかわなければ、この匂いでエミールに嫌われる。

 いちど、脂粉塗れで朝帰りしたのを見咎められて以来、わたしは身を整えて太陽神殿に戻るよう気をつけていた。あの女の子みたいに可愛らしい顔が嫌悪感にゆがむのを目にすると、少々倒錯的な興奮をおぼえないでもないが、本格的に軽蔑されるのは避けたいものだ。

 わたしが作男として席を置く太陽神殿の面々は、女遊びにうつつを抜かすことは決してない。神官にしてわたしの主君のルネさまは、娼婦買いなどしたこともない清廉潔白な騎士であるし、ニコラは長年連れ添った恋女房に死なれて以来、そちら方面はめっきりご無沙汰らしい。15歳と若いエミールはきっと童貞で、作男のジャンは……わからない。

 彼とは、女の話などしない。

 いや、あの狭く小さな神殿のなかでわたしたちは共通の話題をもたないように工夫してきた。隔たりのわけは階級差にもあったろうが、本質的には我の強いもの同士であるからだろう。だからこそ、意見が表立ってぶつからぬよう互いを牽制し、自身を抑止し、うまく立ち回ってきたはずだ――つい、先日までは。

 ジャンが遂に、上級試験を受けるといいだした。

 ルネさまは穏やかに微笑まれ、その肩を抱いて祝福した。ニコラは、不器用なやつだなあと笑った。彼には、ジャンが遠回りしているように感じたのだろう。神官見習いのエミールは先を越されると慌てるかと思ったのに、笑顔で手を叩いていた。子供だとばかり思っていたが、落ち着いていた。

 なるほど、ひとはきちんと成長するものだ。わたし以外の人間は。  

 そんなことを思いながら娼館の外に出たせいか、驢馬をひいたジャンの姿が目にはいる。あいかわらず縦ばかり伸びて幅がない。きちんと食べさせているつもりだが、いっこうに太らない。あれでは女一人抱えあげられないと心配になるが、彼には余計な世話に違いない。それにしても、買い物ならば露店の並ぶ橋のほうへいくはずが、こんなところをうろついているのはおかしかった。それに、ただ伸びるに任せた褐色の髪を束ねた頭はいつもどおりだが、身につけているのは汚れっぱなしの野良着ではなく水色の紋織りでできたよそ行き用の短衣だ。

 エリゼの都はかつてひとときなりとも皇帝の住まいがおかれたので、街の中央には立派な石畳がしかれている。しかしながら、娼館の立ち並ぶ町外れのこのあたりはぬかるみが多く、運が悪ければ汚物を踏むような有様だ。折り重なるように立つ家々が昇ったばかりの朝日さえ遮り、薄暗い。エリゼ公国の都市民として未だ認められないひとびとが住む場所なので当然だが、治安も悪い。家々からは煮焚きの匂いだけでなく、なにかわからない異臭さえ漂っていた。 

 そんな場所で周囲を見渡す彼の後ろ姿は、迷子の子供のようだった。あんなふうでは物盗りにでも狙われかねない。らしくないとはこの事だ。わたしは気づかれないように後を追った。

 しばらく歩くとジャンは三階建ての建物の前で足をとめ、驢馬をそこにつなぎ、なんどか大きく深呼吸してから中へと入っていった。娼館ではないが、商人の家でもない。独居者たちが住まう集合住宅だ。知人でもいるのだろうかと考えて、ジャンがこの都の出身者ではないと思い至る。

 角に隠れ崩れ落ちそうな屋根を見あげていると、ジャンは妙齢の婦人の手をひいて戻ってきた。亜麻色の髪にぱっちりとした青い瞳となかなかの器量よしだが顔色が悪く、唇のはしが切れている。胸を深く刳った衣服は堅気の婦人には見えず、娼婦ではないにせよ誰かの囲い者かと思われた。真面目なジャン青年には縁がない女であることは間違いない。ところが彼はその女性を驢馬に乗せて手綱をつかみ、ゆっくりとした歩調で歩みだした。

 逡巡したが、好奇心には勝てなかった。

 ジャンは今年19歳と、わたしより10ほど年が下だ。

 彼はエリゼ公国の南の農村地帯から、領主の支援があって帝都にのぼり、再びこの国に戻ってきた。本人は水呑百姓の息子のようなことを口にするが、わたしが調べたところ、郷士の家の生まれだった。むろん、彼の言葉の半分は嘘でなく、先代までの富貴は黒死病のために脆くも費え、何もかもを失い一家離散の危機に陥ったのは事実でもあった。

 彼を帝都へ送り出した伯爵は、帝都やレント共和国に幅広い交友関係を持っていた。そのためか、跡取り娘にレント共和国で二番手と目される貴族の家から婿をとった。

 公国離れ著しいと受け取るものがあってもおかしくない。

 ジャンが、いったいどのような役目であの小さな太陽神殿にいるのか、わたしにはわからなかった。帝都の大神官の秘書室からこんな田舎に送り戻されたのが、ただ彼の不始末のせいだけとは思えない。

 わたしが後をつけたのは、彼の身を案じただけでなくそうした理由もあった。娼婦や愛人を秘密の連絡係にする者もいないではない。

 ところが、ジャンはときどき驢馬のうえの女性に一言二言はなしかけるだけで、何処かへ誘導されているわけではないようだ。察するに、乗り心地が悪くないか怪我の具合はどうだのと尋ねているに違いない。彼らには男女の間の親しみはうかがえず、もちろん陰謀めいた関係も見えず、わたしは次第に後ろめたさをおぼえはじめた。

 行く先の、見当がついたのだ。

 完全に日が昇った街は、物売りたちの騒がしい声に埋もれていた。今日は男湯の日らしく、呼び声がかかると走り出す子供たちもいた。露店がずらりと並ぶ通りには、店先に売り物を並べる手もとめず、おしゃべりに興じる女たちの姿もあった。彼女たちはわたしが横を通りすぎるときだけは口も手もとめて、こちらを流し見た。顔から胸、腰から脚と追いすがられながら、わたしはジャンと驢馬の姿を見失わないように注視した。

「アンリさん、今日はなにが要りようですかい?」

 馴染みの肉屋に肩をたたかれそうになったのをひらりと避け、今は話しかけるなと目顔で制し、腹を割って吊るされた牛の横をすりぬける。新調したばかりの服を血肉で汚すのは御免だが、すでにして靴は泥と腐肉にまみれたようだ。仕方がない。

 地面から顔をあげると、ジャンが後ろを振り返った。この距離だ。わたしに気がついた風はないが、もしも気がついたなら、後で尾行者を振り返るのは危険だと教えてやらねばなるまい。

 それにしても、どうせ見つかったのだとしたら、足を戻して肉屋のロベールにあの腐りかけ寸前の豚肉は揚げ物にして使うから取っておけと言えばよかった。あとで戻ったのでは主婦たちに買われてしまうだろう。そんなふうについ貧乏根性が顔をだしたが、いまはジャンのほうが大事だ。

 喧騒が遠ざかると、自分の勘があたったことで、今度はべつの不安がもたげてきた。何故なら彼がその女性を送り届けたのは、あろうことか《死の女神》を奉る古神殿の裏手だったからだ。

 古神殿の裏――それは、堕胎する女性が訪れる場所だった。

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