第57話 ヴジョー伯爵、太陽神殿に帰着する

 どうやら、私の中にも軟禁されていたあいだの鬱屈はたまっていたらしい。

 考えなければならないことは山ほどあるが、風を受け、馬の体温を感じながら疾駆する悦びは忘れがたい。

 10年前、まだ幼くていらしたエリス姫は、子馬に乗っておいでだったはずだ。乗せてさしあげ、《歓びの野》まで走ったこともある。

 年若いむすめなら馬や高いところを怖がったりすると思っていた大方の予想を裏切って、あの方は私にしがみついたりなさらずに、可愛らしい笑い声をあげてもっと早く走ってくれとせがんだりした。胸の下にまわった姫様の小さな両手を上から握り締めた私が、落ちたら大変だと断ったのに、あの方は、大丈夫しっかりつかまっているからと、両手で馬を追えと頼むのだった。

 私が全速力で走らせてはお供の者たちがついてこられないとわかっていて、あの方の願いどおりに橋を渡り、森を抜け、空よりもなお青い雛罌粟の咲き誇る平らかな野を駆け抜けた――


 そのあとで、私も姫様もそれぞれに大変なお小言をくらった。

 とりなしてくれたのはいつもオルフェ殿下で、大教母でさえも、あの方に頼まれてはそれ以上きびしいことは口にしなかった。エリス姫は、お兄様は誰からも叱られないと頬をふくらまして拗ねてみせたが、すぐにけろりとした顔で、また連れていってくださるわよねと私へと微笑んだ。私がどうこたえようか思案するのをオルフェ殿下は呆れ顔で見あげ、吐息をついた。私になにをいっても無駄だと達観したご様子だった。そして、すべての主導権を握っている妹姫へと、次はもう助けないからね、と囁いた。エリス姫は兄君の念押しにちいさな頭を揺らしてうなずいたものの、殿下がこの先も姫様を庇い立てしないことはないと、少しも疑っていないように見えた。殿下もそれがわかっていて、今度は私のほうを見て再びため息をつかれたのだ。

 あれから、どのくらいの月日がたったのだろう?

 あのときの了解――なにもかもを分かち合い、互いの想いを寸分たがわず理解し、共に深く親愛の情を抱いていると信じられたあの日々は、いったい何時から失われてしまったのだろう。

 私が、道を誤ったのだ。

 姫様を手の届かない方だと思い定め、あの方から距離をおこうとした私の弱気を、オルフェ殿下が口惜しく思っていたことを知っている。

 ぼくのところには頻繁に手紙が来ます。

 姫様が帝都について半年も越えた頃のことだったろうか。殿下はそういって、寝台から見あげた。そして、私の母宛の手紙をこれみよがしに、差し出してきた。

 あなたの母上様にお渡しください。贈り物も添えてありました。さすが、皇帝陛下の愛妾ともなると、こうも扱いが違うのですね。遠く東の国から運ばれた絹織物だそうですよ。

 私は御礼を申し上げたはずだ。

 陛下の御寵愛深きこと、喜ばしい限りでございますと。

 実は、本心でもあった。

 あの頃は、姫様が皇后にのぼられるものとこの国の者みなが期待していた。おそらくは、それを望んでいなかったのは、殿下おひとりであったと思う。

 この世でもっとも尊い身分の皇帝陛下の伴侶になることを、喜ばない者がいるだろうか? 

 ところが、殿下は私のこたえに鼻白み、掠れた声でこたえた。

 正式に結婚できない女など、娼婦と同じではないですか?

 殿下?

 エリスがどうなろうともあなたにはもう、関係のないことですね。

 そんなことは……。

 ない、と口にしたあとの虚しさは例えようがなかった。

 私は、エリゼ公爵と私の母に呼び出され、姫様の障りになるようなことは決してするなと言い渡されていた。おわかりでしょうけれど、と公爵は述べた。その、たいそうへりくだった物言いに、私は恐縮した。

 伯爵、黄金宮殿の使者いわく、エリスは畏れ多くも皇帝陛下のお后候補であるらしい。皇后を亡くされてのち寵妃のほとんどが既婚者であった陛下にこれという皇子殿下がいないことを鑑みると、世継ぎの御子を期待されているようです。

 伯爵には帝都から姫君を迎えられる由、聞いております。わたしからもお祝いに東の狩場を開放いたしましょう。いつでも自由にお使いください。オルフェに譲ろうと思っていた土地ですが、彼は狩りを好みませんのでね。

 黙って頭をさげることが、許されたただひとつの行為に思えた。姫様の栄誉とこの国の将来を思えば、何も口にできることはなかった。

 旅立つ前、姫様はいくどか泣かれたことがあった。ただ、それでも、行きたくないとだけはおっしゃらなかった。意志の強く賢い方で、私はそれを痛ましい想いで見つめた。

 だから、約束になるようなことばは一度たりとも言い交わさなかった。

 年長である私が、姫様の将来を危うくするようなことは死んでもしてはならないと思っていた。一方、あの方は私に将来の約束を望みながら、私がそれを口にしないことで拗ねたりはしなかった。兄君の前で可愛らしく口を尖らした少女は、私の頑なさを許すように何もいわず微笑んだ。今にして思えば、私は私の弱さや臆病を、あの方に許され続けてきたのであろう。

 だからこそ、私はあの方の危機にも遠ざけられている。

 あの方の愛人が月の君であると、私は知ろうとしなかった。考えればすぐにも理解できることを、目を瞑りつぶって耳を塞いでなかったことにした。突き詰めてみれば、エリス姫の不遇は、帝都での私の振る舞いのせいであったのだ。

 それなのに、エリス姫に自分を頼ってほしいなどと願っていた。

 そんな相手に、何もかもを打ち明けることなどできるはずもない。あの方の未来を、将来の幸福を、私は一人勝手に狭め、自分の腕の中にいてほしいと、何処へもいかないでほしいと願った私を、あの方は諌めることもなく微笑んだ。

 私はあの方を失うのを恐れ、哀願し、とりすがって希った。あの方に無理難題を要求し、それが叶えられないことで責めたのだ。

 その結果、あの方は困りきり、私に薬を飲ませて眠らせた……。

 もし、私があのように自分の願望を押し付けたりしなければ、姫様はアレクサンドラ姫や私とともに都へ帰り、無事であったに違いない。

 考えても詮無いことではあるが、己の犯した罪が、この国の将来を危うくするものだというその事実が呪わしい。

 その事実に胸ふたがれる想いでいると、目の前に太陽神殿が見えてきた。

 一日はなれていたせいか、西に傾きはじめた陽に照らされた神殿はどこか頼りなげなようすであった。いつもなら改めて見るまでもないものをじっと見つめ、自身の気持ちの変化に苦笑した。

 神殿は明り取りの窓が少ない古い時代の様式で、壁は厚く、それでいて鈍重さはない。おそらくは、積み上げられた石の形がそれぞれ綺麗に揃っているからだろう。似たような建物は、同じく町外れの西にある古神殿で、あちらはこの建物の倍以上も大きく立派だった。

 私は建物の横手にまわり馬からおりて、トマはどうするつもりなのか振り返った。彼は慣れたしぐさで馬をつなぎ、さいぜんと同じようにお供いたしますと口にした。

「エミールに会っていきますか?」

「いえ。勤務中ですから。お荷物など運ばせていただきます」

 たしかに、よくよく考えれば着替えのほかにも冠や杓などの装具があった。ここしばらく簡易式服だけで過ごしてきたが、他国へ訪問するとなると略礼装というわけにはいかない。

 お任せくださいと心安い笑顔で申し出てくれた若者に礼をいった。

 回廊に入ると、トマは頭を巡らし、陰影に富んだ列柱の影を眺めて歩いた。その影よりなお濃い、沈み込むほどに暗い黒衣は太陽神殿では見慣れないもので、異質な存在がまぎれこんでいると目に訴えるほど艶やかだった。新神殿付の騎士たちの黒衣は姫様の着ていらしたそれと同じ染を使っているのだと、そのときになって気がついた。

 ふと、この太陽神殿に足を踏み入れた黒衣の騎士は彼で何人目であろうと考えた。

 互いに決して親密とはいえない二つの神殿ながら、夏至と冬至には、入れ替わって参拝することもある。彼が、あの巨大な帝都の太陽神殿に参詣したことがあれば、この神殿の小ささに驚いているかもしれない。

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