第17話 エリス姫、はつこいのひとと結ばれる

 黄金宮殿にいたころ、女たちはいつも「しようがない」と口にした。

 殿方は幾人もの方を愛せるのだからと、笑っていた。

 彼女たちに、諦めることを学ぶよう諭された。

 女とは摘み取られる花のようなもので、実を結ぶために美しく着飾り、ただ相手のいうなりになるしかないと教えられた。

 おれがその言に納得できないと反論すると、貴女様はまだお若くて美しいからわからないのだと、おれの目から見て眩いほどのご婦人方は鈴を鳴らすような笑い声をたてた。故郷の田舎では見たこともないような美女たちが何故そんなふうにいうのか、そのときのおれにはわからなかった。

 少しはそのことを理解したのは、おれの侍女がある貴族の子弟に乱暴されそうになって後のことだ。後ろ盾のないおれが、物珍しさも手伝って宮廷で目立ち始めたための嫌がらせだった。

 おれの庇護者になった男には妻がいた。この大陸一の銀行家の一人娘だ。

 彼は借金の形に平民に購われた、さきの皇帝の皇子だった。そして、その反撥をあらわにするようにおれを囲った。

 あの男を愛していたのかと問われたら、おれは首を横にふる。

 愛していたというのなら、いまの皇帝陛下こそを慕っていた。おれにただの一度も手を触れなかった男だからこそ、そしてまた黄金宮殿で唯一、あの男の呪縛から救い出してくれるかもしれないひとであったからこそ、頼りにした。

 ところが、皇帝陛下はおれをあてにすることはあっても、おれの頼みをきいてくれたことはなかった。

 皇后陛下のいない宮廷で、おれは各国の使節団を迎える役におさまった。

 おれはとび抜けて若く、《死の女神の娘》というふたつ名を持っていた。

 陛下の琥珀色の瞳は、時としてまるで黄金のメダルを嵌めこんだかのように煌いた。それは日の神、この世を照らし出す太陽神を思わせる強烈な視線で、気の弱いものは陛下の目に触れることを恐れたくらいだった。

 豊かな黄金の髪と琥珀の瞳をもつ陛下と、漆黒の髪に闇色の瞳をしたおれが並びあうと、ひとびとはそこに光と闇を同時に見る想いがしたそうだ。

 皇帝陛下のいちばんの寵姫と呼ばれたのはそれ故で、おれは薔薇のように艶やかな貴婦人方からは失笑をかい、水仙のように麗しい寵童たちからは憐憫の視線をあびていた。あの黄金宮殿に起居するものは、事情通であればあるほど、おれと皇帝陛下が「わりない仲」であるとは思っていなかった。

 半年ほど前、おれの庇護者だった男の妻が病に倒れ、彼は家督を息子に譲り、妻とともに帝都をはなれた。

 続いてすぐに、おれは皇帝陛下から暇を出された。

 正確に再現するなら、ふたつに一つを選べといわれた。


 皇后になって黄金宮殿に骨を埋めるか。

 《歓びの野》に還るか。


 おれは迷わなかった。

 ルネのことばが、おれをこの地へとつなぎとめ、呼び戻した。

 おれの返答をきいた皇帝陛下は、それでこそ女神の娘だと、金色の眼を輝かせた。


 昔、おれは《死の女神》が嫌いだった。

 もちろん、人並みに畏敬の念はあった。

 死は恐ろしくおぞましい。それは、わかる。

 しかしながら、誰が、そんな忌まわしい神を愛するのかわからなかった。


 ところが、出会ってすぐに、ルネは女神を崇拝しているといった。

 崇拝というのは恐れているということかと尋ねたら、ルネはそのとき幼かったおれがことばの意味を知らないとでも思ったのか、「好き」という意味ですとこたえた。そして、あまりにそれでは女神に対して不敬でぞんざいすぎると思ったらしく、自身を咎めるような難しい顔をして、日の神よりも死の女神のほうが偉いのですよと続けた。

 太陽神の神殿につとめているくせにそんなことをいうので、おれはルネが罰をあてられはしまいかと不安になった。そう口にすると、彼は日の神もそう思っているから大丈夫ですと微笑んだ。

 日の神は女神を嫌って出て行ったのでしょう? そう問うたおれに、ルネは厳かに首をふった。

 そういう話もありますが、私はそうは思いません。

 でも、日の神はたくさんの他の神様と恋をしてるじゃない。

 そうですね。けれども日の神は他の誰とも一日以上過ごしませんし、毎日どんなことがあろうと女神の支配する闇と眠りに身を委ねるのです。日の神が女神のおそばを離れなければ、いつまでたっても夜が明けません。それでは困るので仕方なくおそばを離れることにしたのです。

 ルネは、嘘はいわない人間だった。

 少なくとも、おれには嘘をつかなかった。

 そのかわり、甘いことばも囁かず、浮ついた将来の約束もしなかった。たとえおれがそれを望んでも、唇を引き結んで応じなかった。

 まるで、ことばなぞ役に立たないとでも思っているかのように、でなければ、それが偽りになることを恐れるように、悲しげに目を伏せておれの手を握り、貴女様は女神の娘なのですから、とくりかえした。

 女神の娘だからどうだというのか、おれはそれさえも尋ねられなかった。

 女神の娘としての恩寵があるから帝都での暮らしにも不安はないという慰めなのか、女神の娘なのだから黄金宮殿にいっても毅然としていなさいという励ましなのか、はたまた、女神の娘であるおれのことが好きだという意味であるのか、そんなこともおれは訊けなかった。

 懇願すれば、なにがしかのことは吐き出したと思う。

 でもおれは、そうしなかった。

 ルネの口から何かを聞けば、おれはもう、帝都へは行けなかっただろう。

 不思議なことに、皇帝陛下がおれに望んだことと、この男がかつておれに望んだことは同じだった。

 《死の女神》のようであれというそのことばは、おれには重荷であり、それと同時にこれ以上ない支えでもあった。

 さきほど、ルネはおれに髪を弄られながら、今にも気を失いそうな表情で途方にくれていた。おれは、自分が途轍もなく酷いことをしている気になった。たとえてみれば、無垢な乙女を手篭めにする悪党にでもなったような気分だ。

 しかしながら、当たり前だが、ルネ・ド・ヴジョー伯爵はか弱い少女ではない。

 狼狩りや夜盗退治に率先して出かけ、黒死病が吹き荒れる街を一度もはなれず病人を看護し、勇猛果敢な神殿騎士たちを押しのけて馬上槍試合で事実上の勝利を勝ち取った男が、おれに近寄られて震え上がっているように見えた。

 実際に震えていたわけではないが、妙に緊張して、落ち着かなさげに瞳が揺れた。

 おれはそんなに恐ろしい女だろうか?

 他の男の愛人になったことで、この男がおれを見限ったというふうにも実のところ思えなかった。とすればやはり、亡くなられた奥方を愛しているからおれと関係するなどとは考えられないのだろうか。

 それは有り得るように思って尋ねると、ルネは何かいいかけて口篭った。意志的に黙ることはあるが、あんなふうに頼りない表情で口を閉じるのは見たことがなかった。

 どうしたことかと首をかしげながら、ここまで迫ったのだからもうおれに失うものは何もないと、本心を述べた。

 すると、ルネはおれを見あげ、おれの手をとって、搾り出すような声で告げた。


――エリス姫、私は貴女様だけをずっとお慕いしてまいりました――


 それを聞いておれは吐息をついた。そのまま抱き寄せてくるものと思っていたら、ルネはいきなり顔を伏せて、何処にもいかないでほしいと希った。

 おれはそのことばを唇で塞いだ。

 驚いて目を見開いたルネに、その話はあとだと告げて、説明した。


 夜は短い。明日、アレクサンドラ姫に迎えに来るよう命じている。あのむすめのことだ、日が昇ると同時に扉を蹴破られるぞ。


 ルネは心の底からおかしそうに笑って頷いた。

 おれはそれを見て、あらためてこの男が好きだと気がついた。彼がおれの教師だったころ、彼のいうことばをくりかえし、その綴りをなぞりして、この屈託のない笑顔を見るのが一日のなかでいちばん楽しかったことを思い出した。

 ルネに腰を抱かれながら、おれは目線が上になった相手の顔に問うた。


 それにしても、よく来たな。てっきり来ないものだと思っていたよ。

 私もそう決めていましたが、女戦士の姫君と勝負をして負けたのですよ。しかも、謀られました。

 謀られた?

 ええ。渦巻き紋が表裏にはいった金貨を持っておいででしてね。私の乗った馬の尻をたたいてから、投げてよこしたのです。


 ほらと差し出されて、まったく同じうずまき模様を表裏に刻まれた金貨には見覚えがあった。あのむすめが何かの護符のように手にしていたそれに、おれも同じように担がれたことがある。

 そういうと、ルネはまたもや笑った。

 もう、先ほどのように怯えた顔ではなかった。

 それから瞳があって、おれはゆっくりと顔を傾けて唇をあわせた。

 くちづけを深くするためおれの頭を抱き寄せようとしたルネは、まだ自分がその手に金貨を持っているのに気がついて、卓においた。

 ろうそくの灯りに照らされて、それが鈍く琥珀色に揺らめくのを、おれは目の裏にとどめた。


 ふたりの息遣いを早めて溶暗の熱がこごった。

 失墜の予感にあげた悲鳴は相手の喉おくに押しこまれ、容赦ない仕打ちで追い込まれたことに抗議することばは甘い囁きに笑みへとかわり、仕返しにのばした悪戯な手を大きな手にくるまれて、抱きしめられていたわられる歓びにおれは泣いた。

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