第4章 心を鬼に

   1


「サーナディーバーロカシードヘータイメリーフォアカッドナシンファー……」

「真君!」

 三百六十度、逃げ場はない。真はなにやら唱えているが、夏芽には理解できない。

「ロン!」

 パーン!

 何かが爆ぜる音。次の瞬間にはトカゲもどきたちは全て粉々に吹き飛んでいた。

「うげぇ」

 正視に耐えない光景に夏芽は吐き気を催すが、どうやら真が何かすごい事をしたということはわかった。一番驚いていたのは真自身だったが、二番目の孤兎市も相当驚いていた。

「へぇ、やるぅ」

「はぁ、まさかこんなに上手くいくとは思わなかった」

 魔法とは本来、恐ろしく高い知能を持ったものが使いこなせるもの。孤兎市のように脳に異常のある者より上手く使えるのはある意味では当然のこと。

「真君、魔法なんて使えたの?」

「本で読んでなんとなく覚えてみただけだよ。実際に使ったのは初めて」

 これだけの数の敵を一気に吹き飛ばすのはかなり高度な術だ。少し息を切らしながら、それでも真は姉譲りの強気で迫る。

「さぁ、もっと強いやつを出しなよ! でないと一番手っ取り早い方法を取るよ! 君自身を倒す!」

「この辺りでいいでしょう」

「そうだな」

 万月対灼瑛。舞台は定まった。おそろくは葎花たちを置いてった場所よりも五十メートルほどは上に昇ったフロアの四方二十メートルほどの部屋。

「のんびり行こうぜ。たぶん向こうも長引く」

 向こう=葎花対氷綱!

「長引く? どうして?」

「あいつがあんなに面白そうな玩具をあっさり壊すはずがねぇ」

 万月の目が鋭くなる。徐々に闘気を解放していく。臨戦態勢に入っていく。強い怒りと共に。

「そんな目で睨むなよ。俺はお前みたいな猛者と久しぶりに殺り合えるってんで気分がいい」

「僕は不本意だよ。本当なら君たちと和解して、その七人目の男とやらを協力して倒したい」

「じっくり話し合うのは苦手でな。俺は」

 言葉とは裏腹に、灼瑛はなかなか戦闘を開始する様子を見せない。攻防どちらの構えも見せない。やがておもむろに動かしたのはまたしても口だった。

「俺の父親はよく酒を飲む男だった」

「?」

「普段は子犬みたいに弱い男だった。だから家ではお袋にいびられて、職場じゃ上司に叩かれて、ストレスを絵に描いたような男だったよ」

「それがどうした?」

「もともとは下戸だったはずなんだ。ある時から酒を飲み始めて人が変わった。常に酒瓶を手放さないようになった。あいつにとってそれが武器だったんだ。酔った時だけは誰よりも強かった。そしてその暴力の一番の対象は、一番の弱者だった、俺さ」

「想像がつく話だね」

 ボウッ!

 灼瑛の右手から唐突に放たれた。小さな火球。だが、速い。

 が……

「何がしたい?」

「なっ!」

 灼瑛は驚嘆した。威力は犬小屋一つ燃やせないほどのものだったが、相当のスピードで放ったつもりだった。それも話の途中でそれなりに隙はついたつもりだった。それを眉一つ動かさずに余裕で避けた。どう動いたのかも見えなかった。

「君はこの程度か?」

 灼瑛の落胆をも見透かすように万月は容赦なく言う。

「どうやら聞きたくもない話を聞かされそうだ。君がどっちか死ぬまでの勝負をしようってなら、いっそすぐに楽にしてやる」

「待て!」

 自分でも自分の気持ちがわからなくなる。躊躇の気持ちが強まるほどに万月は逆に徐々にだが確実に殺気を高めているのがわかる。

「聞いて、くれよ。親父は来る日も来る日も俺に暴力を振るった。逆らえなかった。俺はその頃、まだ八歳だぜ」

「それで、君はどうした?」

「殺したよ」

 万月の目の色が変わった。それは悲哀の色だった。ちょうど灼瑛の狂気の奥に潜んでいる誰にも打ち明けられなかった感情の色と同じだった。

「一つだけ約束して。いやらしいことはしないって。そんなことしたら幽霊になって末代まで祟ってやる」

 万月たちの気配が消えて第一声がそれだった。日頃からポーカーフェイスの氷綱だが、これには笑ってしまった。

「心配しなくても、僕は年上の女性にしか興味はないですよ」

「そうなんだ。私もタメ以下の男って無理」

 なんの話をしているのかと思う。それでも、年頃の女の子が明らかに悪人とわかっている、それも常軌を逸するほどに強い男と二人だけで取り残されては、死んだほうがマシなことをされることが、一番怖い。

「晃さんの作戦では君たちを別々の場所に飛ばしながら僕ら四人がかりで一人ずつ確実に殺すつもりでした」

「はぁ! なにその卑怯な作戦!」

 葎花は当然のブーイングをした。相楽たちの話では六煉桜は実はそれほど悪人ではないかのような印象だったからなおさら。

「反対したのは僕ですよ」

「えっ?」

 なぜだかわからないけど、葎花の中の尖った感情が一気に解けた。目の前にいる男が心底から優しい目をしているように見えた。

「葎花さん、ちょうどあなたと同じくらいの年頃でしたよ。姉さんが死んだ時、僕は十七歳だった」

「お姉さんがいたの?」

 相手の話に素直に耳を傾けるふりをしながら刀を握り締める。剣対剣の戦いしか経験のない葎花だが、怯んではいられない。隙あらばいつでもー

 パンッ!

「ひっ!」

「動かないで! まだ、あなたを殺したくはない」

 隙を見せてはいけないのは自分のほうだった。しかも恐ろしいほどに冷たい弾丸。一瞬にして部屋の空気が冷えた。

「僕は弱い子供だった。でも、母さんはよく言っていた。あなたは喧嘩になったら決して勝てない。でも、どんなに悔しくても、卑怯な手を使ってまで勝とうとするんじゃないって」

「なんで、私にそんな話するのよ。さっさと殺すことくらい簡単でしょう?」

「死期が近い人間というのはそういうものですよ」

「死期?」

 氷綱は銃口を下ろした。それでも決して踏み込む勇気は出ない。虎の穴に入り込むようなもの。

「外を見てごらん」

 氷綱に言われて慌てて窓の外を向く。全く気づかなかった。まだ昼時のはず。だが、辺りでは漆黒の闇に雷鳴が轟いていた。

「外では孤兎市が全能力を解放し始めたようだ。今頃、妖怪たちが世界中で大暴れしてますよ」

「そんな、嘘でしょ……」

 ほんの数ヶ月前には夏祭りで満開の花火を見た。同じ空、同じ世界のはずなのに。

「しかし、おかしいですね。どうやら誰かが孤兎市と戦っているようだ。妖怪たちの気はたしかに感じるのに想定していたほど暴れてはいない」

「誰だか知らないけど、食い止めてくれてるわけね。人間はそう簡単に滅んだりしないわ」

「たしかにね。でもね、わからないものですよ。人間の命なんて」

 一体なんなのよ、と葎花は思う。だが、思った通り氷綱は自分語りを始めた。

「七個も歳上の姉でした。優しい人だった。髪は黒く長かったですが、なんの因果でしょうね。顔立ちはあなたにそっくりだ」

「だからなによ。他人の空似でしょ」

「性格は対照的のようですね。姉さんは淑やかで物静かなタイプでした」

「悪かったわね。どうせ私は男勝りなお転婆娘よ」

 死期、という言葉が葎花の心にも浮遊した。この男のほんの気まぐれ一つでも、すぐにデスマッチが始まる。自分はほんの数秒後にはもうこの世にいないかもしれない。

「僕が生まれたのとほとんど同時期だったそうです。姉さんの身体に重い病が見つかったのは」

「それは、お気の毒なことね」

「部屋で寝込んでいる姉さんを見る度に、僕は自分の無力さを呪った。少しでも力になりたかった。僕は医学を学び始めました」

「いいことじゃない。それでどうなったのよ」

 呼吸が荒くなっていく。もう強がる気力も失せた。全身が極度の緊張と恐怖で固まるでも震えるでもなく説明不可能な状態に陥っている。

「まず最初の不幸は父が僕らを捨てて他の女性とどこかへ行ってしまったことです」

「最悪、信じらんない」

「ショックから母は精神的に少しおかしくなりました。でも、僕らを育てるため、それから姉さんの治療費のため必死に働き、やがて倒れました」

 なぜだかわからないけど葎花は瞳が少し潤んでいくのを感じた。

 相楽、弥生、真、時には喧嘩だってあるけど、みんな優しくて楽しくて幸せな家族だ。

 葎花は幸せしか知らない。平和しか知らない。

 もちろん本やテレビで凄惨な事件や問題だらけの家族を目の当たりにすることなど日常茶飯事だ。

 でも、今、倒すべき敵からの悲壮な告白を直接に聞いて初めての気持ちを知る。これが人生の深淵というものだと。

「寒い寒い雪の日に二人は二つ並べた布団に横たわったまま、逝きました。僕は大切な人と、夢を失いました」

「夢?」

「医者になって、二人を救う夢。その先でもっとたくさんの人を助ける夢」

 氷綱は冷たく笑った。暖かい心まで失ってしまったとは、葎花にはどうしても思えなかった。ただ、この人の心を冷たくしてしまったのは、無力感と、きっと孤独感。

 銃口がはっきりと葎花に向けられた。来る。

「たぶん向こうでも同じように自分語りをしてるよ。でも僕の話はここまで、聞いてくれてありがとう。そして、さよなら」

 向こう=万月対灼瑛。

 パンパンパン!

 葎花はカッと目を見開いた。三発の銃弾は全て一並び。右が左に避けろ。

 スッと横っ飛びするだけで避けられたのに、葎花は前につんのめってしまった。慌てて起き上がる。

 ダダダダダダダダダダ!

 葎花の四方八方に氷の弾丸が飛び散る。その全てが地面から逆向きの氷柱のように突き上がった。

「さぁ、逃げ切れるかな? それとも、反撃できるかい?」

 パーン!

「あっ!」

 右半身に激痛を感じた。次の瞬間には右肩から血が吹き出していることに気づく。

 距離を詰めることすらできないままひざまずく。右肩を抑えながら。くそっ、利き腕からやられた。

「不思議な気持ちですよ。姉さんに似ているというだけであなたを殺す気が失せる」

「だから他人の空似よ。でも、正直、殺さないでほしい。私は別にプライドとかないから。命乞いを、するわ」

 葎花は土下座の一つもしようと思った。その時だった。

「スキあり」

 ザスッ!

 氷綱の背後から一閃。ちょうど彼のド体のド真ん中、みぞおちの辺りを「槍」が貫いた。葎花には刹那なにが起きたのかわからなかった。

「ガッ……」

 氷綱は崩折れた。背後に立っていたのは、葎花としては一度しか面識はないが一目でそうとわかる人物だった。

「乱」

 大量の血しぶきにその身を汚しながら、そいつは不敵に笑った。

「奇襲成功。ずいぶん探し回ったけど間に合ってよかったわ」


   2


「くそっ。乱の野郎、人を小馬鹿にしやがって」

「で、どうするよ? この女」

「決まってるだろ。今のうちにトドメをー」

 意識を失っている舞雪を男一同はチラリと見やる。乱の手加減なしの拳で派手に倒れた彼女の着物はかなり乱れ、豊満な胸元や真っ白な太ももがはだけて見えている。

 男たちは一瞬怯む。だが、そのスケベ心が戦陣においては致命的な甘さだった。

 ムクッ!

「痛っ! クッ! なによ。あの下品な男。気持ち悪い」

 トドメを刺す好機を逃した。舞雪は起き上がったが乱れた服を直そうとはしない。男心を完全に掌握してしまった。誰一人、この蠱惑的美女に手を出せない。

「始める? 第二ラウンド。むさ苦しい警察署暮らしじゃずいぶん溜まってるんじゃない?」

「舞雪サン、あなたいい加減にしなよ」

 先程の乱の時と同じような登場の仕方で進み出てきたのは波町だった。一人で廃蛮鬼を百人は倒して流石にバテ気味だったが、まだ闘志は失っていない。

「そうやって一体、何人の男を嬲り殺しにしてきたんですか? 昔、あなたになにがあったかはもちろん知ってます。でも、だからって世の中の男全部を憎むのは筋違いですよ」

「そういうあなただってハァハァ言ってずいぶん興奮してるじゃない」

「これはそういう呼吸じゃなくて……って絶対わかってて言ってんだろ!」

 実直、勤勉を絵に描いたような波町も苛立ってきた。

 このままでは埒が明かないと思っていたところにちょうどいい刺客が現れた。

「ぎゃー! 落ちるー! チクショウ! 死ぬー!」

 上空からなにかが降ってくる。それが何物か真っ先に気づいたのは敵方である舞雪のほうだった。

 スッと右手を天にかざした。

 辺り一帯の空気がグニャリと歪むような感覚が男たちを包んだ。その落下物の降下スピードが緩やかになっていく。

「はれ? はりゃ? なんだなんだ!」

 ドシーン!

 結局、「それ」を盛大な音を立てて着地した。

「相楽さん!」

「痛え! 腰打った! 痛え! あれ? 生きてんのか?」

 なにが起きたのか全くわからないが波町はとりあえず相楽に駆け寄った。どこから降ってきたのかもわからないが、どうやら相当な高さから落下したのはわかる。それにも関わらず、どうやら大きなケガはない。

「ひさしぶりね。会員番号一番のおデブちゃん」

「舞雪? お前が助けたのか?」

 波町はキョトンとする。会員番号一番?

 これが相楽には舞雪を殺せない理由。相楽は女優時代の舞雪のファンクラブの会員番号一番、今でも弥生からつねられるほどの大ファンだった。

「重力を操ったのよ。あなたくらい重い身体を支えるのはけっこう堪えるわね」

「どうして助けた?」

「あなただけは私を見捨てなかったから」

 あの日から最大時には五万人を超えていたファン達は一人また一人と自分から離れていった。相楽だけは、自分まで白い目で見られることになっても、退会しなかった。事実上解散してるクラブでも、相楽は何度も舞雪に会いに行った。舞雪自身からもストーカー呼ばわりされても。

「俺のこと、気持ち悪がってると思ってたぜ」

 起き上がって全身についた土を払う。

 どうやら役者は揃ったようだが、波町は迷う。肝心の駒の進め方。

「どういう事情でシータみたいに落ちてきたのか知りませんけど、戦いましょう。この女を……殺せば戦局は確実にこちらに好転します」

 かなり躊躇ったが波町ははっきり「殺す」と言った。相楽も覚悟を決めるしかないと悟った。その時だった。あまりにも馬鹿げたことが起きた。

「もう我慢できない!」

 警察隊の中の一人が猛然と舞雪に襲いかかった。その様は正に発情期の猿と同等。

「ばっ! おまっ! なにやってんだ!」

 常人離れした舞雪の色香。それはまるで戦場における慰安婦。ただでさえ死に対する極限の恐怖を抱えた人間にとって、それはもはや本能で、抑えられないものだった。

「キャッ!」

 死闘の真っ只中とはいえあくまでも硬派に自分と向き合う相楽、波町に舞雪も油断していた。

「落ち着け! 離れろ!」

 相楽は次の言葉だけは錯乱状態の部下にもはっきり届くように叫んだ。

「取り返しのつかないことになるぞ!」

 もう遅かった。

 ブチッ!

 それはなにが切れた音だったのか。舞雪の理性?違う。

「ぴぎゃーーーーー!」

 長い髪を不気味に振り乱した舞雪はその肉片をポイッとゴミのように捨てた。

 男の性器だった。

「舞雪! 落ち着け! 許せ! 全部こいつが悪い!」

 必死で叫ぶ相楽の声も虚しく響くだけだった。

 男たちを睨む舞雪の目は先程までの大人をからかって楽しむ女の子のようなそれではなかった。

 舞雪の脳内でなにかがフラッシュバックしている。触れてはいけないものに触れてしまった。

「よくも……よくも、私の体を……」

 ゴッ!

 鈍い音とともに地面から無数の柱状の物体が飛び出す。

 警察隊と舞雪のぐるりを鉄柵が取り囲んだ。それら一つ一つからビシッビシッと鋭い棘が飛び出す。

「影援魔導術、呪縛の章ー有刺結界!」

「……責任取れよ。馬鹿野郎。もう死んでるだろうけど」

 局部をちぎり取られた男は即ショック死した。一瞬の痛みだけで、これから始まる地獄のショーを見なくて済んだ彼が一番幸せだったかもしれない。

「晃様、命令の範疇を超えることをお許し下さい。でも……こいつらは全員殺す!」


   3


「しつっこいよ! 君たち!」

「当たり前でしょうが! あんたにさえ好き勝手させなきゃ妖怪たちはおとなしくしてるんだから!」

「夏芽さん、時間稼いで!」

 凛府、真と夏芽対孤兎市。

 孤兎市は弱い。はっきり言って武力だけで言えば六煉桜の中でダントツで最弱。それでも普段は踊るようにしか剣を振らない夏芽では若干押されてる。

「僕は操術のためでも鞭振るのは好きじゃないんだよ! いい加減離れ……っろ!」

 ビュン!

「おっと!」

 大振りの鞭が夏芽の頬をかすめた。血がつたう。

「ギルドン!」

 孤兎市が指笛を吹いた。一番の相棒、移動用にも戦闘用にもここぞという戦いでは一番頼りにしてきた翼竜が雄叫びを上げる。

「よーし、溜まった!」

 両の手を握り合わせていた真にギルドンが大きな爪を突きつける。迫力にはビビらされるが、心の奥は一切怯まない。キッと睨み返した。

「真君!」

「負けず嫌いは姉譲りだよ!」

 パーン!

「ギャース!」

 ギルドンの巨体が爆ぜる。全身から血が吹き出す。

それでもパンパンッと容赦なく呪文の効果は続く。

「ギルドン……」

 孤兎市の目から光が消えたように見えた。その一瞬を夏芽は見逃さながった。

「あんたの相手はこっちでしょうが!」

 孤兎市はハッとして条件反射的に素手で防ごうとする。刃を持たない凛刀とはいえ、この道十年の夏芽の渾身の一撃。

「!!!」

 声にならないほどの激痛が右の手のひらに広がる。

「夏芽さん、チャンス!」

「はぁぁぁ!」

 技の名前なんてない。ただ無我夢中で夏芽は剣を振り孤兎市に怒涛の五連撃を浴びせる。

 ズザザー!

 砂埃が一面に舞い上がった。真の放った魔法の残り火の爆煙と混ざり合い、五秒間ほどはなにがどうなったか誰にもわからなかった。

「はぁはぁ」

「はぁはぁ」

 どれが誰の呼吸音かもわからないまま真と夏芽はとりあえずグータッチした。どうやら一連の攻防はこちらに軍配が上がったことはわかる。

「あいつは? どうなった?」

「あれ?」

 二人の目に映ったのはグッタリと横たわるギルドンとその前にひざまずく孤兎市だった。

「大丈夫? あの子」

「わからないです。ただ、もう剣はしまっていいかも」

 グスン、という音が聞こえた。

「大切な友達だったなら謝る。でも、こっちにも守りたいものがある」

「晃様の教えの一つ。なにがあっても泣くな。それは優しさではなく弱さだ」

「じゃあ、それは汗が目に入っただけ?」

 孤兎市は立ち上がった。ユラリと振り返る。

「僕は一人ぼっちなんかじゃない。変われたんだよ。みんなのおかげで」

「みんなっていうのは六煉のこと?」

「友達が欲しかっただけなんだ。本当は人を殺したりするのはイヤだった」

 真がゆっくりと孤兎市に近づく。そしてなにも持っていない右手を差し出した。

「知ってる? 握手だよ。自分は武器なんて持ってないってことを見せることで同盟和議の意志を伝えるんだ」

「同盟和議? 正気?」

 たぶん、無意識だったと思う。孤兎市は同じように右手を差し出し、固く、とは言えない程度にだが、握った。

「僕も友達になるよ。大丈夫。僕もいがみ合うことなんて好きじゃない」

「……真君」

 夏芽は剣をしまった。今は真の想いを尊重する。

 この子が、この子たちが、平和への切り札になるかもしれない。

「真君、厳しい意見だけど、絶対に油断はしちゃダメ。この人たちは、ハッピーエンドなんて端から望んでない。破滅型の組織なんだからね」

「わかってますよ。だから、僕らも確かめに行こう。本当の真実ってもんを僕も知りたい」

 孤兎市はもうなにも言わなかった。正直、夏芽の猛攻はかなり堪えている。

「ギルドンは一番の友達だったけど、唯一じゃない。まだまだ頼りになる仲間はたくさんいる」

 孤兎市は指笛を吹いた。そして、向かうべきは龍獄怨だと思っていた。

「その前にさ、話してよ。禾南壊滅の真相。どう考えてもしっくりこないんだ。警察隊と君たちがこんなふうに本格的に対立するきっかけを作ったのはなに? あるいは誰?」

 真は真っ直ぐに孤兎市を見つめる。

 黄の桜は迷いながらでも真相を話した。全てを聞き終えた二人は無言で目を合わせた。

「そいつ、一発ぶん殴る」

「僕もぶん殴りたい」

 孤兎市は失笑した。

「手強いやつだよ。僕も直接話したことは数えるくらいしかないけど、こんなふうに容易くわかり合えるやつだとは思わないほうがいい」


   4


「一つ、強力な魔力が一気に弱まった。どうやら氷綱ってのはやられたようだね」

「馬鹿な。あんな小娘に」

 灼瑛は既にボロボロだった。万月は灼瑛の過去を聞いても情けをかける気はなかった。それでもトドメを刺すことだけは躊躇してしまったし、必死で防戦する灼瑛はなんとか命の灯を保ち続けていた。

「もう敵の気を感じることもできなくなったようだね。葎花ちゃんじゃないよ。やったのは。察するにどうやら乱君だね」

 乱と聞いても灼瑛には誰のことかわからない。だが、氷綱を倒せるーまだ殺されてはいないことは微かに感じられる気から察せたー人間がいることが信じられなかった。

「そんなに意外かい? 君たちは本当にお互いを信頼し合っているようだね」

「そうさ、氷綱がそう簡単にやられるはずがねぇ」

「気づいているかい? もう一つ大きく乱れている気があることに」

 万月は刀を灼瑛の鼻先に突きつけた。子供の頃から優しい人間として生きてきたはずだった。いつからだろう。こんなにも怒りという感情が心を満たすようになったのは。今、万月は一体、誰に対して怒っているのか、わかっていなかった。

「なんのことを言ってる?」

「影援魔導師。君たちの中にいるんだろう? 紅一点だと聞いたよ。その人がどうやら、ご乱心のようだ」

「舞雪が? どうしてそんなことがわかる?」

 万月は恐ろしくなった。影援魔導術というものの効果はこれほどだったか。

「心技体全てを彼女が高めてくれていたんだね。それらの効力が一気に弱まっているんだよ」

「馬鹿な……」

 万月という男はここまで強いのか。そう感じていたことも間違いではないが、自分のほうが弱くなっていた。

「降参してくれ。灼瑛クン。今はここでじっとしていてくれると約束してくれるなら僕も君を殺したりはしない」

「それで、どうするつもりだ?」

「上へ行くさ。あと二人だろう。黒の桜と晃。殲滅か和解か、わからないけどどちらにしても戦いは避けられないだろう」

「父さんは……」

「?」

 最期の、力を振り絞って灼瑛は語る。自分を虐待した父親を自分の手で殺した時のこと。

「悪い人間なんかじゃなかった。悪いのは父さんを苛め抜いた人間たちだ。この世界だ。父さんは被害者だった。だから誰かを犠牲にしないと生きられなかった。その犠牲が俺だ。俺も被害者だ。生まれてから今この瞬間まで俺たちはずっと被害者だ」

 灼瑛の頬を涙が伝った。信じられなかった。組織の中で一番の暴れん坊。負けん気の強さでは誰にも負けないと思っていた。

 万月は長いまつ毛の目を細めた。憐憫と叱責の情を込めてささやく。

「傷が痛くて泣いているの? それとも自分が情けなくて泣いているの?」

 灼瑛の脳裏にいつかの記憶がフラッシュバックする。優しかった父と、泣きながら自分を殴る父が。

「どっちでもねぇ。ちくしょう」

 灼瑛はそれ以上なにも話さなかった。どうやら精根尽き果てて気を失ったようだ。

「わかり合うことは、できないのかな。同じ人間なのに」

 万月もそれ以上はなにも言わず、先を急ぐことにした。


   5


「痛ぇ、痛ぇよぉ」

「足が、俺の足が」

「殺して、もう、殺してくれぇ」

 ほとんどの男たちはもう瀕死の重傷、虫の息だった。

「強すぎる……」

 波町は既に勝ちを諦めていた。完全に正気を失った舞雪。いったいどれほど男という存在を憎んでいればここまで残虐になれる。生きながらじわじわと苦しめる術をいったいどれほど身につけてきたんだ。

「舞雪、どうしてそんなふうになっちまったんだ。確かに俺だって警察として、性的暴行を受けた女性は何人も関わってきた。でも、お前は、異常だ」

 立っているのは既に相楽だけだった。影援魔導師の任を完全に放棄した舞雪はおそらく、六煉桜二番目の手練れ血風刃と同格。もう止められない。

「私は、負けず嫌いなの。でも、それ以上に嫌いなのは戦えないこと」

 ぼそぼそと語り出した。

「三人がかりで押さえつけられたら抵抗の仕様がないじゃない。レイプのこと、魂の殺人っていう理由わかる気がするわ。私はなにもできなかった。ただ、されるがままの人形よ。どんなにやめてって叫んだってやめてくれない。なんで私が許してって言わなきゃいけないのよ。しかもそれがいつ終わるのかもわからない。ひょっとしたらそのまま首でも締められて殺されるかもしれない。だから、私はひたすら終わるのを待つことしかできなかった。抗うことすら許されなかった。その絶望感が魂を殺すのよ。もうこんな世界はイヤだって思わせるのよ。死にたいって思わせるのよ」

 一気にまくし立てたあとで、それでも一切緩まない鋭い眼光で「でも!」と言い放つ。

「私は死ななかった。晃様が私を拾って下さった。お前が魂を奪われた代わりに得た憎しみ、怒り、呪い、負の感情の全て俺に預けてみろ。復讐という生きがいと、そのための力、俺が呉れてやる。そう言ってくれたわ」

 舞雪は既に男たちの血とそれ以外の多様な体液でドロドロの両手をべろりとなめた。相楽は鳥肌を立てた。

「お前を襲った男たちは……」

「とっくに三人とも捕まえたわ。今でも龍獄怨の地下牢の中。驚いた? 今でも生きてるわ。毎晩毎晩、痛めつけて死にかけのところで回復させて、その繰り返し。誰がトドメなんて差してやるもんですか。いつまでもいつまでも生き地獄を味合わせてやるわ」

 心の奥底までドス黒い憎しみに染めてしまった女。相楽は涙がこぼれるのを止められなかった。

「舞雪、どうして……」

 もう届きはしないとわかっていた。それでも伝えたいことがあった。その時だった。

 ドス!

「あっ……」

 舞雪の身体の中央を一つの刃が貫いた。そして、引き抜かれた。

「晃、さま……」

 吹き出す血とともに舞雪は倒れた。後ろに立っていたのは金の桜、晃だった。

「晃様、どうして……ここに?」

 自分が、愛する人に刺されたことなど気にしていないかのようだった。なぜ、戦陣を離れたの、と。

「舞雪、お前は俺に嫌われたいか?」

 その場にいた誰にも晃の言葉の意味も意図も掴めなかった。

 晃の目がひどく寂しげだったことにも、誰も気づいていなかった。


「驚いたな。最上階にいるのは当然、晃サンだとおもっていましたよ、プウさん」

「晃は大事な用ができたから下に降りたよ。それからその呼び方はやめろと二十年前から言ってるだろ、万月」

 龍獄怨最上階、因縁の戦いのラストラウンドは、どうやら万月対……黒の桜・血風刃に決まったようだ。


   6


「死んでるの?」

「いや、生きとる。意識もあるかもしれん。おい、こら! 狸寝入りしとんのやら起きろ!」

 だが、氷綱はぴくりとも動かない。

「ちょうどええわ。嬢ちゃん、こいつにトドメ刺せ」

「は?」

「聞こえんかったか? こいつを殺せ」

「なに言ってんのよ。イヤよ、そんなこと」

「なんでや?」

「なんでって……」

 しばし沈黙が広がった。その間も氷綱は動きを見せない。

「心を鬼にするんや。そのための練習や」

「練習って、やだ」

「殺れ」

「やだってば」

 乱の目から一切の甘さが消えている。これが悪人と偽善者の決定的な違い。

「この戦い、一切の綺麗事は許されない。殺らなければ殺られる。それも嬢ちゃん自身だけやない。嬢ちゃんが守りたい人たちも、下手したら一人残らず……」

 全ての情け容赦を捨てた目で乱は「最後や」とだけ言って自慢の槍を葎花の眉間に突きつけた。

 選択肢は、ない。葎花にも、乱にも。

「(スキあり)」

 ババババババババッ!

 吐息さえも凍てつくほどに冷え切っていた空間の温度がさらに下がった。その青と白の似合う空間に飛び散る真っ赤な鮮血。

「ガッ!」

 乱は全身からの出血と最後に大きな吐血とともに倒れた。代わりに起き上がったのは氷綱。

「心を鬼にできていなかったのはあなたのほうでしたね」と言いたかったが、もう無駄な会話をしている余裕もなかった。

「この、クソ狸!」

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 氷綱は震える両膝を叩いた。形勢は逆転したとは言えない。既に自分も死を覚悟していた。

 葎花も必死で頭を働かせた。今こそ、自分が戦わなければ、今こそ……

 心を鬼に、鬼にするんだ。

 甘っちょろい戯言では慰みにもならない。

 薄っぺらい綺麗事では何一つ守れやしない。

 今この瞬間だけでいい。全てを捨てて、自分が大切に想ってきた愛情も優しさも正義も、凛刀術の理も捨てて!

「わー!」

 葎花は刀を振り上げ、下ろした。

 ドガッ!

 鈍い音と感触と両手から脳まで届く痛み。

 まるで自分が死んだかのようだった。優しい両親のもとに生まれ落ちてから、つい数ヶ月前まではたしかに手の中にあった幸せな日々の記憶の走馬灯。

 先にムクッと起き上がり冷静なツッコミを入れたのは乱だった。

「なに、結局、峰打ちしとんねん」

 葎花はポンと頭を叩かれた。涙が溢れた。

「乱、傷は? 大丈夫?」

「まだ戦えるっちゅうたら嘘になるわ。身体中が死ぬほど痛ぇ。まぁ、こいつもまた気絶しとるだけかもしれんけど、ほっときゃえぇわ。どうせこの寒さと出血や。そのうち失血死する」

 息も絶え絶えで説明するが、葎花の頭には入っていなかった。

 自分は、悪いことはしていないと、言えるのだろうか。

「万月様はどうなってるのか、私たちも急がないと。でも、乱は?」

「悪いが、まずは一人で行ってくれ。ここでできる限り回復に努めて、可能なら、きっと助太刀に行く」

 あまりにも酷な頼みだった。それでも、葎花は頷いた。

「絶対に死なないで。私も頑張るから」

「当たり前や。さっきの峰打ちは練習やからギリギリ合格にしといたる。でも、次にナメたマネをしたら、今度こそ死ぬで」

 葎花はもうなにも言わなかった。階段はどっちだとキョロキョロキョロキョロしてからすぐに駆け出した。


   7


「なるべく急いでよ、スカリー」

 バッサバッサと羽ばたいて飛ぶギルドンに対して、滑空型の翼竜、スカリー。目指すのは最も倒すべき敵、影狼のアジト・屍村。

「孤兎市君、その影狼って男について、もう少し詳しく教えて」

 真はもう君付けにしていた。「信じてほしければまず信じろ」ークソお人好しの姉からのバカ正直な教えだ。

「これから行く屍村ってところは、生半可な覚悟で足を踏み入れていい場所じゃない」

「なんとなくわかるよ。覚悟はできてるなんて簡単には言っちゃだめだよね」

「奴隷、やつはやっと自分の足で歩けるようになったような頃から奴隷として生きてきた。やつだけじゃない。支配する者とされる者、それだけが屍村の全てだ」

 朝から晩までただ働き続ける。力尽きて倒れてから自然に目を覚ますまでだけが休憩時間。家畜のエサのような食料だけが与えられ、栄養失調で死ぬまでなんの喜びも楽しみもない人生。

 真は息を飲んだ。同時に両の二の腕を擦る。

 寒いわけじゃない。むしろ気温は凛府の地方より高いくらいだ。

 金欲と支配欲、そして絶望と憎悪だけに満ちた世界。あまりの醜悪さに歴史の教科書にも地理の教科書にすら載っていない、地球上で最も地獄に近いと言われた村。

「結局、支配する側も互いに猜疑心でいっぱいになって、最後には全滅するまで殺し合ったっていう……」

「怖すぎるよ。私たちそんなところにこれから何しに行くんだっけ?」

「夏芽さん、だっけ? 屍村はもう永久に消えない腐敗臭で完全に呪われた村扱い、影狼だけが自由にアジトとして使ってる。村の唯一人の生き残りとしてね」

「どういう神経してんの?」

 夏芽も背筋が凍るような気がした。

「人間爆弾ーそれが晃さんが付けた称号だよ。全身が発火装置、火薬は……怒りだ」

 孤兎市の声変わりもしていない声が一オクターブ下がった。

「あいつの中にもう人間らしい感情はない。怒り、憎しみ、憎悪、いくら言い方を変えたところでそれしかない。この世界、全部爆破してやるくらいの怨念を晃さんと僕たちでなんとかコントロールしてきた。でももう、歯止めが効かない」

「ちょっと待って! 今さらだけど、私たちそんなやつと戦いに行くの?」

「戦うんじゃないよ、夏芽さん。話し合いに行くんだよ」

「真君、馬鹿言わないでよ! そんなやつ、もう人間の形した兵器じゃない! 話し合うもなにも、そもそも言葉通じんの?」

「夏芽さん、影狼は確かに心は失ってるかもしれないけど脳は死んでない。むしろ僕よりも頭はいいくらいだよ。悪い意味で恐ろしく狡猾だしね」

 孤兎市の口調がどんどん自信なさげになっていく。

孤兎市の口調がどんどん自信なさげになっていく。同時に「晃さんと僕たち」という言い方もなにか引っかかった。

「もうすぐで着く。もうなにも言えない」

 スカリーは降下を始めた。

「プウさん、僕は意味もなく戦うのは嫌いだ。昔からね。まずは理由を聞こう」

「ここまで辿り着いたってことは灼瑛や氷綱は破ったんだろ? 俺たちはもう風前の灯だ。もともと未来なんてない組織だよ。要するに力試しがしたかっただけだ。最初から。俺はな」

 万月は抜刀した。納得はしてないが、理解はできてる。ずっと前から。とっくに。

「俺はガキの頃から喧嘩が好きだった。特にタイマンは最高だ。修行して戦って修行して戦って、それを繰り返してるうちに強くなり過ぎちまった。相手がいなくなるくらいにな」

「悪い趣味だとは思わないけど、何事もやり過ぎはよくないね」

 万月は一歩退いたが、それは逃げではなくむしろ一撃を入れやすい距離を取ったということ。つまり臨戦態勢。

「なにもかもどうでもよくなっちまったんだよ。見渡す限り雑魚だらけの世界だぜ。俺からしたら気が狂いそうだったよ。そんな時だった。あいつに、晃に出会ったのは」

「戦うことだけが全てじゃないって、その前に教えてあげたかったね、あなたに」

「こいつは人間じゃねぇ。そう思うくらいの強さだった。魂が震えたよ。やっとどうでもよくねぇやつに出会えたってな」

「同感だよ。その力、正の方向に活かしてほしかった」

「なによりありがたかったのは、あいつに負けても不思議とプライドは傷つかなかったことさ。あいつを超えること。あいつは俺にたった一つの生き甲斐をくれた」

「たぶん十人中九人がくだらないって思うだろうね。僕は思わないけど」

 血風刃はほとんど万月の言葉を聞いていない。ただ自分の話を聞いてほしかっただけだ。

 誰ともわかり合えない痛みを持った五人が一人の強者の下にただ導かれるように集結した。それが六煉桜という組織の正体。

「なにが極悪暗殺組織だ! 俺たちからしたらこの世界全てが俗悪だ! ぶっ壊してやればいいんだよ! 裏から見ればこっちが表だ!」

「半分は同感だよ。ただ壊してしまう前に、自分たちの犯した罪の後始末はすべきだ。それで許されるのかどうかは、神様が決めることだ」

「俺たちが神だ」

「ふざけるな。みんな人間だよ。良いところもあれば悪いところもある、ちっぽけな生き物だよ」

 お喋りはここまでだった。先手を取ったのは血風刃のほうだ。

「まずは小手調べだ!」

 蹴撃。武闘剣士の戦術は両手両足と刀のほとんど五刀流。一撃で止まる攻撃などない。全ては連撃。波状攻撃。

「あいにくこちらはブランクがあってね。体力が尽きる前に終わらせてもらうよ」

 ブン!

 ブン!

 ブン!

 ブン!

 ブン!

「小賢しい!」

 血風刃の連撃を万月は全て紙一重でかわす。かわしながら狙ってる。血風刃の急所。長引かせるつもりも苦しめるつもりもない。

「(そこ!)」

 ブシュー!

「ガッ!」

 下から払い上げる剣閃。血風刃の左胸から右肩口を抉ったが、浅い。

「面白ぇ! とことん楽しませてもらうぜ!」

 拳打。今度は小手調べじゃない。万月のみぞおちに三発叩き込んだ。

「グブッ!」

 万月の視界が揺れた。重い。ダメだ。考えるな。

「まだまだ行くぞ!」

「笑うなよ。真剣勝負だろ!」

 熱くなってきていた。これは武術の試合じゃない。楽しんでちゃいけないはずなのに。

 バッ!

 万月は後方に五メートルほど跳んだ。一旦、退避。

「一ラウンドで終わらせるつもりだったのに。やっぱり強いよ。プウさんは」

「強くなることだけが俺の全てだ。恐慌が終わってからも、俺は来る日も来る日も修行を続けた。雨の日も風の日も」

「晃に勝つために?」

「いや、それは諦めた」

 いつの間にか外が騒がしくなっていた。それなのに龍獄怨最上階はその一言で一瞬にして静まった。

「諦めた?」

「あいつは、強過ぎる。異常だ。この世のものじゃねぇ」

 血風刃は続けた。「そんなことよりもよ」と。

「外の様子が変だと思わねぇか? 妖怪たちが騒ぎ出してる」

「君たちの仲間がまた一人、死ぬ。影援魔導師だろう。だから、なんて言ったかな」

「孤兎市のことか? あいつの力も……」

「というより、任務を忘れてるようだよ。明後日の方向に行ってるもん」

「屍村のほうだな、あのガキ」

 血風刃は半分以上、血の混ざった唾を吐いた。

「ねぇ、プウさん。一旦、落ち着こうよ。刀をしまって。僕らも行こう。影浪って人のところへ。まだ、間に合うよ」

「この恐慌を収束させて影浪の野心を打ち砕いたところで、その先になにがある。平和なんて所詮、砂上の楼閣。また新しい争いが生まれる。その度に人は絶望し、神とやらはまた気休め程度の希望を与え、見せかけだけの解決を取りあえずは手に入れる。それを永遠に繰り返すだけさ。人間てのは。いや、ひょっとしたら他の動植物たちも、人間の常識では測れねぇ次元で、もっと醜い争いをしてるのかもしれないぜ」

 万月は目を伏せた。顔も下を向き床を見つめる。それどころか、頭をどんどん下げていく。ほとんど最敬礼に近い状態になった。驚いたのは血風刃のほうだった。

「お願いだから、そんな怖い顔をしないで」

 万月はついに両手をついた。そして、大粒の涙をこぼした。

「僕が、悪いことしたなら謝るから、怒らないで、笑って、みんな仲良くしようよ」

「ど、どうした? お前……」

 万月の中でなにかが音もなく切れた。血風刃は万月の言葉通り一旦、落ち着いた。だが、それは万月の意には反することだった。

「どういう心境なのか皆目見当もつかねぇが……試合は続けようぜ。俺は、もう今度こそ、全部どうでもいいんだよ。冥土の土産は伝説の剣士・万月からの勝ち星だ」

 頬を伝う涙を、万月は拭う必要はなかった。あっという間に乾いていたから。そして、果てしなく諦観仕切った眼差しで血風刃を睨む。

「もういい。もういいよ。それほどまで、戦うためだけに生まれて、勝つためだけに生きる人間には僕も容赦しない。勝ち星の代わりに引導と、安息を呉れてやる。死という安息を」

 第二ラウンドだ、と血風刃は心の中で呟いた。

 最終ラウンドだ、と万月は思っていた。


   8


灼瑛は立ち上がった。ほとんど意識はなかった。なぜだかもうわからなかった。ただ、このまま死にたくはなかった。

 自分はなんのために生まれてきたのか。

 父親を自らの手で殺めてから、灼瑛はただひたすらハイエナのように生きた。生きるために生きる。

 必要なものは食べ物と睡眠だけ。生きがいは、ない。

「腐った肉でもよく洗って焼けば食えるのか?」

「誰だ、オメエは。ここらじゃあ俺に話しかけるのは自殺志願者だけだぜ」

 その日も死肉を食らっていた灼瑛だったが精いっぱい強がった。これはライオンの肉だと説明した。

 小さな森の中で自分なりに修行した。野生の動物たちと戦うならまず必要なのは火。ただそれだけで灼瑛はあまりにも無知だった。

「火遁の術!」とかっこつけて言ったが、あっさり避けられて一撃で倒されたことは後になっても黒歴史として二人だけの秘密だった。

「大した男じゃなさそうだな。つまらん」

「てめえ、何者だ」

「ふん、いい目をしている。憎しみに満ちている」

「なにが言いてえんだ」

 ついて来いよ、俺が面白いことを教えてやる。そう言った男に、言われた通りについて行かなければ灼瑛の人生はそこで終わっていた。すでに近寄ってきた動物たちに食べられていたことは確実だからだ。

 晃との出会いだった。

 もうどうとでもなれと思っていた命。六煉桜という組織での課業は、本当に楽しかった。

それだけは本当だった。

 上を目指していると思っていたのに、自分はどうやら下に降りていて、自分の聖地である龍獄怨からも抜け出していて、それこそ本当に夢遊病者のようにいつまでもいつまでも徘徊し続けた。

 炎を司る孤狼、赤の桜・灼瑛がその後、どうなったのかは誰も知らない。

 誰もが言葉を失っていた。舞雪の目に大粒の涙が浮かんでいたのは悲しみや絶望からではないだろう。ただ、肉体的な痛みからだ。それで心の痛みは一時でも忘れられる。人間って不思議な生き物だ。

「いつまでも消えない傷と憎しみを抱えて生きていくくらいなら、もう楽になりな」

「晃様、それがあなたの望みですか?」

 それはドラマのワンシーンのように悲しくも美しい光景だった。それこそ、舞雪が人気女優だったころに見たような。

「最初からこうしてくれていれば、私はこんなに醜い女にならなくてすんだ」

「すまなかった」

 晃はそっと舞雪の涙を拭った。そして極悪組織の首領とはとても思えない穏やかな表情で最期の口づけを交わした。

「ずっと、戻りたかった。女優になんてなる前、仲良しの友達と、大好きな恋人が一人いれば、それだけで幸せだったころに」

 瀕死の重傷を負っている警察官たちでさえ、悲痛に顔を歪めた。これほどの悲劇を誰も今までに見たことがなかった。

 ガンッ!

 相楽が自分の眉間を殴った音だった。血が滴る。それでも同時に涙も零れるのは止められなかった。

「お金も、地位も、名誉も、名声も、なにもいりません。もし生まれ変わるなら、今度こそ、本当に平和な世界で、本当の愛を下さい……」

「……輪廻の環を何周してでも、もう一度、俺に会いに来い。今度こそ、俺が必ず……」

 もうお互いに想いは言葉にならなかった。

 薄幸の名花、影援魔導士の舞雪の瞳は閉ざされ、もう二度と開くことはなかった。


 同じころ、凍えるような寒さの中で、でもその男にとっては天国のような冷気の中で、もう一つ微かな命の灯りが消えた。

 心優しき狙撃手、青の桜・氷綱の脳裏に最期に浮かんだ言葉はー

 これでまた大好きだった二人に会える。


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