第3章 贖罪
1
時春と相楽と、それから来るな来るなと言われながらも駄々をこねてついてきた葎花。行く先は凛府からからはかなり離れた山村、名前はさほど重要でないので葎花は知らされていなかった。
伝説の剣士・万月の現住地。それだけで十分だった。
憧れの万月様に会える。葎花は状況もわきまえずに胸を高鳴らせている。
別に、今までだって会おうと思えば会えたかもしれない。ただ勇気がなかった。門前払いを食らうのがオチだと思ったのだ。
最恐最悪の敵・牙崙から世界を守った英雄。だが彼は当然受けられるべき褒美を全て拒否しただけでなくこの小さな村に隠居することに決めた。
もう血を見たくない。剣を棄てて、違うやり方で罪を償う道を探そうと思う。
それが彼の意志ならばと人々はそれ以上なにも言わなかった。
そんな彼のもとへ向かう一行の思いは、彼の思いに反するものであることは百も承知だった。だが人類史に再び刻まれつつある災厄。食い止めるためにはどうしても強者の存在が必要だった。
「葎花、疲れてないか? 帰ってもいいんだぞ」
「そんなに帰ってほしいの?」
「危険なことに巻き込みたくないのは親として当然だろう」
「巻き込まれずにいるなんてできるわけないじゃない。もう既に地球人全員巻き込まれてるよ」
「そりゃそうなんだけどな」
結局、禾南を壊滅させるほどの「花火大会」を起こしたのは誰かわからない。だが、六煉桜以外に、六煉桜以上に厄介な敵がいるかもしれない。加えて世界中に蔓延る魔物たち。
勝てない。絶対に勝てない。
時春はそう確信していた。地球は終わる。人類は滅びる。考えれば考えるほど最悪な結論は真実味を増すばかりだ。
「万月さんは、動いてくれるでしょうか?」
「わからない。だが動いてもらわなけりゃどうしようもない。一騎当千の強者が、本当なら五十人くらいは必要な状況だからな」
そんなことを話し合っているうちに人家の群れが見えてきた。この中に万月の住む家がある。
勇退後、間もなく幼馴染の娘と結婚した。子供はいない。今は剣よりも強いとはとても思えないペンを手に日々を小説を、物語を紡いでいる。葎花は全て読んでいる。
どの作品も優しさや愛情に満ちた穏やかな筆致と世界観。これらの本を読んで、どうか優しい人間がこの世界に一人でも多く増えていってほしい。そうすればこの世界は変わる、かもしれない。それが剣士を辞めたあとの万月の願いであり、生き様。
万月ーそれがお前さんの終の棲家なのか。もう一度、立ち上がって、戦ってはくれないか。
時春はさほど迷うこともなく目的地を見つけた。事前に連絡は取ってある。電話越しでは彼の心中を全て読み取ることは到底できなかった。ただ乗り気でないことは察せた。戦いたくないわけではないという。自信がないというのだ。
自信ーそれがどういう意味なのか時春にも相楽にも察せなかった。
だが、葎花はわかる気がしていた。が、口には出さなかった。差し出がましすぎる。
ピンポーン。
インターホン一回ですぐに足音が聞こえた。出迎えたのは、控え目な美人、といった雰囲気の女性だった。万月の奥さんだと一目でわかる。女性はぺこりとお辞儀して「お待ちしておりました」とだけ言った。
実は初対面ではない。恐慌の終息後、何度か顔を合わせたことはある。ただ、それ以来ずいぶんひさしぶりであることに変わりはない。今現在の万月が一体どんな風貌になってるかなど、わからないことだらけだ。
警察手帳は出す必要もないだろうと思った。名前を名乗るだけで「百合流」という名の夫人は家に上げてくれた。
「あの、主人は今は少し、なんというか情緒が安定していない状態で。まずは私がお話を伺います。それを私が主人に伝えて、その後どうするかは、私たちに考えさせてもらいます。構いませんか?」
わからない話ではなかった。時春は素直に首を縦に振った。
「それで、そちらのお嬢さんは?」
百合流の興味と疑問は当然、後ろでモジモジしている少女のほうに向かった。葎花はドキッとしたが声が詰まってしまい、なにも言えない。が、相楽は助け舟を出さない。無理を言ってついてきたんだから自己紹介くらい自分でしろという圧力だ。
「えと、お父さんの娘です」
馬鹿だ。
「葎花と申します。あの、どうしても万月様にお会いしたくて」
「様?」
百合流は全く警戒心はないようだが、それでも頭の中は疑問符だらけだ。
「あぁ、なんと言いますか。娘は万月さんの大ファンでして」
「はぁ、そうですか」
四人がけのテーブルが置かれた居間に通された。下座に百合流、その正面に時春、その隣に相楽、葎花は百合流の隣ではなく少し離れた場所に置かれた椅子に座らされた。
「どこから話し始めればいいかもわからないくらいややこしい事態になってますので、まずは世間話から始めませんか?」
「構いませんよ。私もあまり難しい話は苦手ですから」
万月、百合流夫妻はあまり裕福でないようだ。さすがに水道水をそのままではないが、煮沸し、よく冷やした水程度のもてなしだけだった。
「万月さんの作品は全て拝読してます。正直、あれほどの強者が書いたとは思えない。力弱くとも清らかに生きる者たちへの愛に満ちている」
「それが今の主人の全てですから」
「あなたとしても、万月さんが再び剣を持つことには、反対ですか?」
「個人的に言えば。でも、彼の性格を考えれば、あなた達に強く求められれば、必ず応じる」
「無理強いはしたくないんです。というより闘志のない者はどんなに強くとも戦陣で力を発揮できない」
「それではなぜここに来たんです? 無理強いでもしなければ彼はもう動きませんよ」
万月という男の人となりは警察側は十分に知ってる。常人離れした剣腕にあまりにも似つかない壊れやすい心。
「あの人は、昔から罪の意識の強過ぎる人でした。学校で花瓶をうっかり割ってしまっただけでも、誰に言われずとも一ヶ月間トイレ掃除を自分に課しました。女の子を泣かせてしまったら、その子以上に大泣きしてただ謝り続けた。親御さんたちも巻き込んで一番困り果てたのは、自分が普段食べている肉や野菜は動物や植物の亡骸だと知った時。生き物を殺して食べるなんて絶対にイヤだって泣き喚いて、何日も部屋に閉じこもってなにも食べようとしませんでした。私がなんとか説得しました。五時間以上ドアの前で粘って粘って」
葎花は息を呑んだ。万月という男の異常性と、この百合流という女性との関係性。
「子供の頃のことですよね? その頃からあなたはー」
「親友でした。正直、私のほうは恋心を抱いていましたが」
少しも恥じらう風を見せずに百合流は言う。
「十歳の時に剣術を始めました。こんなに優しい人はあんまり人と直接、戦うような競技は向いてないと私は思ったんですが、お母さんはお父さんのような軟弱な男になってほしくないと言って。彼は渋々だったようです」
「それが結果的に世界を救うことになった」
「本当に結果論です」
百合流は飲み干したグラスをあまり音を立てずテーブルに置いた。左手薬指の指輪がキラリと光る。葎花は複雑な思いでそれを確かめた。子供はいないという二人。まだ老後と呼ぶには早過ぎる夫婦は今どんな思いでこの世界を見ているのだろう。
「お母さん、お父さん、についてですがー」
「彼の両親は彼が幼い頃に離婚しています。妹がいたそうですが、父親のほうが引き取ることになり、彼はその顔も覚えていません」
「それで……そうですね。結局、自然な流れは作れなかったので単刀直入に本題を言います」
「どうぞ、覚悟は出来ています」
「我々に協力してほしい。もう地球を救えるのは万月しかいない」
「もう、と言うには早いのでは? まだ総力を尽くしてはいないでしょう、あなた方は」
「結果は見えています。死体の山を増やすだけです」
万月の存在さえも一縷の望みにすぎない。それくらい時春は最悪の事態を覚悟していた。
「主人は、もう月虹石を持っていませんよ」
葎花はピクッとした。そして自分の胸に手を当てた。
「主人はもともと優れた剣士だったことは私も存じてます。でも、あの石がなければそれ以上でも以下でもないこともよくご存知でしょう?」
相楽が立ち上がった。葎花は何事かと思ったが彼はつかつかと自分のほうへ近づいてくる。
「すまん、来るな来るなと言っておいて悪いが、お前がいたほうが話は早かった」
「どういうこと?」
「奥さん、僕の娘の葎花ですが、どうやら月虹石を持っているらしいのです」
これには今まで終始ポーカーフェイスだった百合流も驚きを隠せなかった。
「あの、私、月虹石とかよくわかんないんですけど、万月様のお力になれるならなんでもします」
四人の視線が互いに交錯する。ここで全てが決まる。百合流は意を決した。
「わかりました。主人と話し合いますので、そうですね、三十分ほど待っていてもらえますか?」
四十分ほどは待つことになった。だが、なんの前触れもなく奥間のドアが開かれ、呆気ないほど普通に、その男は現れた。
葎花は右手を口元に当て、感情を抑えた。
「万月様……」
銀色の髪は写真で知るよりも遥かに短くなっていた。髭は綺麗に剃られ、決して高価ではないであろう衣服は、それでも決して見すぼらしい印象は全く与えなかった。
伝説の剣士にはとても見えない。が、どこか只者でないと思わせるオーラは健在だった。
「ひさしぶりだな、万月」
「こちらこそ、ずいぶんご無沙汰してすいません、時春さん」
「謝ることじゃない」
数年ぶりの再会と思えないほど、時春も相楽も自然な笑顔を見せた。
「大変なことになりましたね」
「その通りだ。事態は一刻を争う。昔語りをしている余裕はない」
達観しているような顔ーとはよくある表現だが、その解釈、印象はだいたい間違っている。迷いがないかのように見える人間ほど、常に迷い探し続けている。人間とはそういうものだ。
「まだ、答えは見つからないか?」
時春の静かな問いかけに、万月はしばらく応えない。葎花が固唾を呑んで見つめる中で、こちらもまた静かに首を振った。
否定形による質問に対する「ノー」の返事。どちらとも受け取れる。
答えーそれは万月が剣を置く時に、警察一同に告げた言葉。答えが見つかるまで自分は、もう何もしたくないと。
「小説を書くことが、お前の答えか?」
「それだけでは足りないということに気づかされました」
そこで万月は葎花のほうを見た。葎花は思わず椅子から落っこちそうなほどどぎまぎしてしまう。
「ひと目見てわかりました。あなたは葎花さんですね」
「は、はい!」
万月は一枚の便箋を懐から取り出した。葎花は慌てて立ち上がる。頭が考える前に体が動いてしまう。万月のほうへ駆け寄ってそれを引ったくろうとするが、ひょいとかわされる。
「それ、それはー」
「写真まで同封されてたのでよく覚えてました」
葎花が一夜漬けで書いた傑作(?)ファンレターだ。
相楽は笑いをこらえている。葎花の慌てぶりから、相当に恥ずかしい内容だろうと察せる。
「落ち着いて下さいよ」
万月に頭をなでなでされながらとりあえず葎花は
再び着席する。
「正直に言ってかなり落ち込みました。作品に対する評価はほとんど書かれずに僕への恋慕ばかり書かれていたので」
「あ、ごめんなさい」
葎花は焦った。確かに失礼だった。葎花自身、彼の小説も十分に好きだった。それでも恋する乙女の心は強く優しい万月様への憧れのほうが勝った。
「作家として生きた時間も無駄だったとは思いません。ただ、どうやら世界はなにも変わっていない」
今の妖怪まみれの世界のことを言っているわけではない。彼が言っているのは恐慌終息以降の人心の乱れ切った世界。
「この世界を変えたい。やはりそれがお前の贖罪か?」
救世ースケールが大きすぎて葎花には想像もつかない。
贖罪ーこれも万月が詠い続けている言葉。
「あれから、僕なりに考えました。気が狂いそうなほど考えた。人間は本当に生き延びるべきだったのか、いっそ滅んでしまうべきだったのではないか。でも、僕はもう一つの可能性に懸けてみたい」
「それが答えか?」
「今こそ人間は償うべきなんです。生きるか死ぬかはそれから……」
万月はまぶたを閉じた。その心の奥には葎花とは次元が違うほど深い、思考の海がある。
「結論を急いでくれ。はいかいいえで答えられるように聞こう。戦ってくれるのか?」
万月はまぶたを開けた。四十分の間、夫人となにを語らっていたのかはわからない。それでも、最初から返事は決まっていたのだろう。
「オフコース」
2
今はまだ静かな空だった。だが、椋鳥のソポが孤兎市の肩でそわそわしてる様から直に嵐が来ることは察せる。
「警察はどう動くと思う? 氷綱」
晃が煙草をくゆらせながら問う。特になにをするでもなくお得意の「物思いに耽る」をやっていた氷綱は意見を求められ、すっと身体をボスのほうへ向けた。
「我々を退治しに来るでしょう。今度こそ殲滅も覚悟の総力戦になる。きっと背水の陣を強いて死にもの狂いで向かってくる」
「他にどうしようもないからな」
警察隊は六煉桜は今度こそ人類の滅亡を企てていると考えている、と晃は考えている。それがそもそもの誤解であることを知っている忠臣たちは揃って苦い顔をする。まず声を上げたのは灼瑛だった。
「影狼の野郎。うぜぇ。先にぶっ殺しときましょうよ。これ以上は俺たちの威信に関わりますぜ」
歴戦の傷跡として火傷の跡だらけの両腕。普段は包帯で隠しているが、組織の中ではさらけ出している。彼なりの仲間への信頼と晃への忠誠の証だった。
「うずく、誰でもいいから闘いてぇ」
「落ち着きなよ、灼瑛」
組織の中でも狂犬扱いの灼瑛に対して常に冷静沈着の氷綱。中堅層として一番メインに戦闘を担当しているのはこの二人だ。
ぴーぴーぴー。
ソポが不安気に鳴くのを孤兎市が慰める。大丈夫だよ、と。
「舞雪はどうしてる?」
「相変わらずですよ。僕らには近寄れません。晃さんでないと」
「氷綱、正直に言ってな。俺はもう終わりにしていいと思ってる」
「と、言うと?」
「舞雪と同じさ。影狼ともな。人間の歴史を、もう終わりにしていいんじゃないかとな」
「舞雪サンはー」
「わかってるさ。いつものように情緒不安定なだけだろ。それにしたっていつまでも蛇の生殺しじゃ、可哀想じゃねぇか」
「同じことの繰り返し……」
「虚しいだけじゃねぇか」
氷綱は自分の過去に思いを馳せた。あの二人の魂は今どこを彷徨っているだろう。
人間は死んでしまえば、もう苦しまなくていい。ならばなんのために、苦しんでまで生きる?
「どうでもいいけど、お喋りしてる時間じゃないぜ。招かれざる客だ」
「バカ言えよ、血風刃。大歓迎じゃねぇか」
灼瑛と血風刃が乱暴に窓の柵に足をかけて言った。
警察隊のお出ましだ。
「氷綱、あいつら、どうやってここがわかったんだと思う?」
「舞雪サンの結界が緩んだからですよ。あいつら、ずっと神経を張り巡らせて、こっちの妖気を探っていたようですね」
「舞雪も、もう長くはもたないな」
晃は豪奢な椅子から立ち上がった。
「いいぜ、派手にやってやるよ。孤兎市、龍獄怨の周囲を大量の廃蛮鬼で固めろ」
「うん、わかった」
「完全に楽しんでるじゃねぇか、晃。どうでもいいけどよぉ」
煙草を窓の外に捨てた。
「お手並み拝見といこうか」
同じ頃、崩壊した禾南から二十キロほど西へ行った山地。
「灯台下暗しというほど近くもないが、意外と遠くはない場所にあったんだなぁ、敵のアジトが」
「結界を張っていたのは十中八九、舞雪ですよ、時春さん。恐ろしくキレる上に恐ろしく脆い」
「波町君、一体全体、あいつらになにがあったんだと思う?」
先頭を歩くのは総長、時春崇悟。その後ろに波町、相楽の二人。あとは後ろに生き残った警察官が総勢で三十ほどいる。
葎花は、そのたくさんの警察官たちに護られるように、内心ビビりまくりながらついてきている。
万月は、葎花の隣にいる。
今から一時間ほど前に「儀式」は済んでいた。万月が葎花の左胸を入念に擦っているだけで月虹石の「移行」は済んでしまったわけだ。これで二人の心臓には互いに半分ずつの月虹石が形もなく光っている。
ただ、その間、憧れの人に要するに「おっぱいを揉まれまくっていた」葎花は今でも恥ずかしくて気絶してしまいそうだった。
「そう言えば乱君はどうしたんです?」
「あいつは別行動だ。いざという時の奇襲部隊。そっちのほうがあいつの性に合ってる」
時春に説明されて相楽はあぁ、なるほどと頷いた。
「二人とも、ここら辺からお喋りは控えましょう。どんな罠が仕掛けられてるかもわからない。妖魔たちにも、なるべく気づかれないほうがいい」
「いや、どうやら無駄のようだ」
時春が指差した先、そこにはまるでテレビゲームにでも出てきそうな塔がそびえ立っていた。
そして、その周囲にはおびただしい数の妖魔たちが既に待ち構えていた。
我らがアジト・龍獄怨へようこそ
空耳でも、気のせいでもない。かと言って実際の肉声とも思えない。晃が彼らの脳波に直接語りかけている。
「あの薄気味悪い化け物ども、廃蛮鬼です。鬼の中でも特に魂の腐った、要するに頭が悪くて性格も悪いやつらです!」
波町が説明する。葎花は思った。絶対嫌い!
「要するに雑魚だろ! 一匹残らず片付けるぞ!」
それが時春の鬨の声になった。
開戦!
3
ひゅるるるるぅ、パシ!
葎花は目を丸くした。おそらくは相楽が放ってきた棒状のブツをキャッチしたわけだが、なにがなんだか。
「これ、真剣?」
「戦うんだろう! その覚悟で来たんだろう! お前もやるんだよ! 殺し合いを!」
ドクンッ!
覚悟はしてきたはずだった。今、目の前で行く手を阻むキモい奴等は「対戦相手」ではなく「敵」。
「わかってるよ! やるしかないんでしょう!」
「やる」という言葉は葎花の頭の中で「殺る」という表記ではなかった。当然だ。まだ、十と七の女の子が刀で、自分の手で、斬り殺すなんて躊躇うに決まってる。それは優しさや情けなんかじゃない。恐怖と罪悪感だ。
「迷ってる時間がなくて助かるだろう。来るぞ」
ただ、突っ立ってるだけだった廃蛮鬼の群れが一斉にこちらに気づき、同時に向かってきた。
「ウキャキケケケェー!」
知性は猿以下だが、感性と欲望は人間と同程度に持ってる。その大部分は享楽主義を根幹とした肉欲と食欲の塊だが。
「目測で数は約百二十。一人頭四人です。ここで手こずってたらあいつらに笑われますよ」
「波町、お前だけで六十片付けろ。剣客隊! A組だけ残してあとの者は隙間を縫って突破しろ! 先制攻撃するのは俺たちのほうだ!」
男たちは全員、駆け出した。葎花も置いてかれぬよう全力で走る。
「葎花! 後ろ!」
相楽の声の前に気づいていた。
ズバッ!
それが一匹目の死者だった。周りの大人たちも驚いた。葎花が、容赦なく、躊躇なく、敵を斬った。
「毎日、牛も豚も鳥も魚も殺して生きてる分際で、いい子ぶるわけにもいかないでしょう? ナメないでよね」
頬に返り血を浴びて、それでも自分は戦えることを証明してみせた少女。一番、驚いていたのは万月だった。
「素晴らしい……」
両手がわなないてきた。何十年ぶりの戦士としての矜恃が動いているのか。
あとは一面、地獄絵図だ。廃蛮鬼たちの屍を無視するように、時春の指示通り波町とA組以外の人間は既に龍獄怨の入口まで辿り着いていた。
「お前が門番てわけか」
「少し違うよ。僕は戦うつもりはない。ただのチュートリアル係」
不必要なほどデカい門。周りには龍や虎の装飾がド派手に施されており、結界を張って隠していなければ「どうぞ、見つけて下さい」と言っているようなものだ。ますます六煉のやることはわからないと感じる。
その門の前にいたのが孤兎市だ。
「チュートリアルだと? ふざけるなよ」
「説明が必要でしょ? みんな、わけもわからず戦って何も知らずに死ぬなんてイヤでしょ? 説明が済んだら通してあげるから」
後ろではまだ廃蛮鬼たちが半数近くは残ってる。前後から挟撃されればさすがに厄介だから波町たちが皆殺しにしてくれるのを期待するが、そもそもこの門自体、素直に開くかどうかはわかっていなかった。時春はぶっ壊してでも通るつもりだったが、穏便に開けてくれるならそのほうがいい。
なにより、たしかにわからないことだらけの戦いは好むところではない。
「いいだろう。話せ。手短にな」
「まず、禾南を滅茶苦茶にしたのは僕らじゃない」
「……じゃあ、誰だ」
「僕らと今までずっと戦い続けてきて、なにか違和感のようなものを感じたことはなかった?」
「どれのことを言ってるのかわからないくらいたくさんあるさ」
「計算が合わない、時間的に無理だ……六煉桜は本当に六人なのかな?」
「なにが言いたい? 手短にと言っただろ」
「裏切り者がいるんだよ。僕らの中に。それで僕らも困ってる」
一同に、これまで以上の緊張が走る。背後から聞こえる廃蛮鬼たちの断末魔の叫びが滑稽なBGMとして響く。
「最後まで話してみろ。聞きたいことはその後でまとめて聞く」
「その男の名前は影狼。もうさほど若くないよ。僕が言うのもなんだけどね。僕はもう年を取れない体だから」
葎花は袴をギュッとつかんだ。今までずっと気づいてなかった。そう言えば、この子はなんでこんなに若いの?
「無口で付き合いにくい人だよ。だからいろんな仕事を転々としてたんだけど、晃さんが素質を見抜いて仲間に入れたんだ。でも、いつまでも打ち解けられないからいっそのこと影武者として使うことにしたんだ」
そこで孤兎市は一呼吸置いてニヤリと笑う。また時春はいらつく。
「続けろ、と何回言わせる」
「彼も満足してると思ってたんだけど、実際には欲求不満だったみたい。急に暴れ出したんだ。もう僕らには止められない。彼は人類全てに復讐するために動き出した」
「そいつはー」
「まだ話は終わってないよ。質問は最後にでしょ? とにかく僕らもたくさん話し合った。それで出した結論は……」
時春が刀に手をかけた。
「僕らも彼に乗る。うんざりするような世界でしょ? もう我慢する必要もないと思ったんだ。氷綱君辺りは最後まで反対してたけどね。でも、僕は賛成。人間さえいなくなれば動物も植物も海も空もみんな大喜びだからね」
時春は抜刀した。
「質問はないってことだね。でも約束は守るよ。門は開けるよ」
それだけ言って孤兎市は煙のように消えた。
「くそ! 舞雪の仕業か」
ガガ!ゴゴゴゴゴゴ!
説明係が消えた途端に門がやかましい音を立てて開く。
「六煉桜にはやっぱりもう一人いたんですね。薄々気づいてはいましたが」
「万月、あいつの言ったこと、全て真実なのか?」
「考えてもわからないことは後で考えることにして、次が来ましたよ」
門の奥から出てきたのは本来なら先陣を切るはずのない男ーいや、この猛々しい場にはおよそふさわしくないほどに美しく静謐な、女。
影援魔導師の舞雪。
「ようこそ、と言いたいところですが、邪魔な方々にはここでお待ちいただきます」
4
舞雪、実年齢四十二歳。
魂の年齢は十九歳。容姿もそれくらいで変化を止めてしまった。
全てはあの日、寒い寒い雪の夜に始まった。いや、終わってしまった。
物心ついた頃から歌が好きだった。歌手になることが夢だった。十五歳の時に大手の事務所にスカウトされあっという間にデビューが決まった。舞雪の希望に反して女優として、芝居の仕事が多かったが特に不満はなかった。単純に楽しかったし、人気も右肩上がりだった。
有頂天だった。それだけに舞雪はあの地獄を今でも夢に見てうなされる。
三人組の暴漢に襲われた。自分も不注意だったとは思ってる。それどころか事件のあと数年間は自分を責める気持ちでいっぱいだった。
人通りの少ない夜の路地裏で突然に後ろから羽交い締めにされ車に押し込まれた。わけもわからぬままただ声にならない悲鳴を上げ続けた。
辿り着いたのは光も音も消え果てた雑木林だった。ビリビリと服を破かれた。呼吸を荒くした男たちはなにやら意味のわからない言葉を吐き出し続けていたけど、とても舞雪の頭には入っていなかった。
一般的に輪姦というものはどれくらいの長さをかけて行われるものなのか、そんなことは知らない。だが、いつ果てるともわからない地獄は夜明けまで続いた。
事件はマスコミによって「大々的に」報じられた。イメージが全ての芸能の世界。一夜にして人生というのは簡単に壊れることを知った。
ごめんね、もうあなたのことを「可哀想」っていう目でしか見れない。
仕事を全て失ったことなどもうどうでもよかった。世間からの中傷もどこ吹く風だった。それでも親友から言われたその言葉が舞雪の魂を粉々にした。もう私を救える人はこの世界に一人もいない。
自殺という選択肢を考えなかったのはなぜか。
復讐するまでは死ねないと思ったからだ。
晃と出会ったのは事件からまだ一年も経たない頃だった。
グラリ!
「なんだ! 地震か!」
地面が尋常でないほどに揺れている。葎花などは真っ先に立っていられなくなってその場に倒れた。
「うおっ! なんだこりゃぁぁぁ!」
時春と、相楽、万月、葎花の四人が真っ黒なモヤに包まれた。
「勝負はフェアに行かないと。ここから先は我々と同じ四人しか通しません」
「きゃあ!」
ビュオン、ビュオンと音を立ててモヤが塔の中へ吹き飛んで行く。
「総長!」
あっという間の出来事だった。残された警察隊は不敵に嗤う舞雪に対し、ただ戸惑うだけだった。
「さぁ、どうする? 頼もしい上官はこの塔の中。あなた達はどうする? 指を咥えて待ってる? 尻尾を巻いて逃げる? それとも……」
舞雪は右足をユラリと前に出した。あまりにも艶かしい脚線が露わになる。
「私と遊ぶ?」
男たちは一人残らずゴクリと息を呑んだ。だが、バカバカしい。敵相手に色仕掛けで狂わされる警察など死んだほうがいい。
「ふざけるな!」
警察隊の中でも特に負けん気の強い連中は轟々と文句を言った。その中でも一番屈強な男はずいと前に進み出た。
「影援魔導師如きが図に乗るなよ! こんだけの数で勝てるとでも思ってるのか! お前こそさっさとそこをどけ! 白の桜だと? 女が戦いの場に図々しくー」
ひゅっ!
「ガッ!」
舞雪の白く細い指が最短距離で、男の左目を突いた。それだけではない。確実に差し込まれた。
「ぎゃあああ!」
グチュッ!グヂュグヂュュッ!
攻撃は終わらなかった。
ぼぐっ!
とても今にも折れてしまいそうなほどの細腕から繰り出されたとは思えない重いボディブロー。
「うげっ。ごっ」
ゲロゲロゲロゲロー!
真っ赤な血と潰れた眼球でどろどろの顔の上半分と、口からは大量の吐瀉物。その顔面に舞雪は容赦なく蹴りを入れる!
「ぐわっ!」
あまりにも非情な連続攻撃に男は為す術もなく倒れた。が、それで終わらない。
首根っこを掴んでひょいと巨漢を持ち上げた舞雪は男の口に左手を突っ込み、「とりあえずこれくらい」とでも言うように軽く前歯を二つつまんだ。
男は心の底から恐怖した。
「ら、らめ、て……」
ブシュ!
引っこ抜いた。男がもう声を上げることもできなかったのは激痛のあまりではない。舞雪が同時に右手で「喉を潰していた」。
ぐったりと倒れることしかできなくなった男にそれ以外の男はもう絶句することしかできなかった。
「あぁ、男の子をいじめるのって本当に楽しいわ。どう? これが私のア・ソ・ビ。あなた達も付き合ってくれるかしら?」
狂ってる。イカれてる。その場にいた誰もが思った。
「あんた、なんなんだよ。なんで、あんたみたいに強いやつが組織のサポート役なんてやってんだ?」
「私以外の五人のほうがもっと強いからよ。あぁ、コトちゃんは弱いから正確に言うと四人ね。それに、影援魔導師は晃様が私に与えて下さった名誉ある役目。それ以外に身に着けた武力は全部、趣味よ」
「いい加減にせぇよ」
茂みの奥から一人の男が姿を現した。「別行動」を取る予定だった男。
「こっそり着いてこい、隙を見て奇襲を仕掛けるように。タイミングはお前に任せる。時春さんからはそれしか指示されてへんけど、まさかお前みたいなキチガイ女に邪魔されるとは思わんかった。塔に入ることもでけへんやんけ」
乱は舞雪の「遊び」を見ても怯む様子がない。
「誰だか知らないけど、ただの雑魚じゃないってことは目を見ればわかるわ」
「なら話は早いやろ。そこどきな。いくら強いったって今の手合い見れば高が知れとるってわかるわ」
「どいてもいいけど。ここで引いてくれるって言うなら私とイイことさせてあげてもいいわよ」
目の前にいる変な言葉遣いの男がそんな取り引きに応じるはずもないし、安い挑発に乗るほど馬鹿でもないことはわかっていた。
「お前、この戦い、楽しんどるだけか? 聞いとったで。これ、人間の存亡賭けた戦いやろ? わかっとるんか?」
「あなたのほうでしょ? 楽しんでるのは。私はわかってるわよ」
ドカッ!
乱の拳が舞雪の美しい顔を歪めた。その一撃で事足りた。舞雪は堕ちた。
「ひでっ」
「あっさり……」
乱は気絶した舞雪を跨いで塔の中に入っていく。目的のためなら邪魔になるだけの甘さは全て捨てる。
くるりと振り返ると警察隊の面々にこう言った。
「こいつ見てたらわかったやろ? 半端な覚悟のヤツは邪魔なだけや。ここでせいぜいこれ以上の追手が入ってこんように見張っとるくらいがお前らにできることや」
こうして図らずも六煉桜の望み通り、少数精鋭同士の戦いの布陣が決まった。
5
ゴー……ビューン!
「うわっ!」
「なんだ! 今のは!」
「すげー! ドラゴンだ!」
大人たちは明らかに不穏な気配を感じ取っていたが子供はみなはしゃいでいた。上空を今まで見てきた不気味な妖怪とは明らかに毛色が違う「カッコいい」竜が上空を飛び交ってる。
「いいよー。ギルドン。試しにこの辺りを焼け野原にしちゃおう」
孤兎市は慣れた手つきで手綱を切る。
「なるべく一思いに焼き殺さないでよ。たっぷり楽しもう」
ブフォー!
孤兎市の操る翼竜、ギルドンが燃え盛る巨大な火炎を吐き出す。一瞬の出来事だった。次から次へ建物から建物へ燃え移り、孤兎市の言う通り、辺りは炎の海に包まれた。
晃の指示だった。戦闘要員の四人が万月たちを迎え撃つ。その間に孤兎市は今まで大人しくさせていた妖怪たちを一気に「解放」する。
罪悪感がないわけではなかった。なんの躊躇もないはずはなかった。
孤兎市は孤児だった。生まれつき体つきが小さく筋肉が上手く育たない病気も持っていた。
同じように身寄りのない子供を引き取って育てる優しい老婆がいた。孤兎市もその人に育てられた。
他の孤児たちは自然に学校にも世間にも受け入れられていた。自分だけが違った。
よくいじめられた。毎日毎日、暴力と暴言と、嫌がらせと嘲笑に苦しめられた。それは一向に収まることもなく逆にエスカレートし続けた。
「僕のなにが悪かったんだと思う? ギルドン」
動物たちだけが友達だった。だからこそ、人間を憎む気持ちが昔からあった。あの出来事がある前から、晃と出会う前から。
自分たちの欲望のままに自然を破壊し、動物たちの棲み処を奪うだけでは飽き足らず、奪う必要のない命まで奪ってしまう人類という生き物が大嫌いだった。
大好きだった「おばあちゃん」が死んで、孤兎市の中のなにかが弾けた。
死ぬことにした。見渡す限り大嫌いなものに囲まれて、苦しみしかない毎日を送ることに、孤兎市は明るい未来を見出だせなかった。
でも、死ねなかった。死んでからも誰にも発見されないまま土に還りたかったから、誰も立ち入らない樹海を選んで首を吊った。でも、大切に想っていた動物たちに命まで救われることになってしまった。
脳に重い障害が残り、孤兎市はほとんど物言わぬ肉の塊となって生きることになった。この社会のほんのスミッコの福祉施設で。
「晃さんの恩を仇で返すわけにいかないものね」
今度こそ、本当に寄る辺のなくなった孤兎市を仲間に入れようと言い出したのは、氷綱だった。その時の気持ちを彼は後々になっても話そうとしなかったが、ほとんど廃人と化した孤兎市をここまで再生させてくれた晃に「お前はなにも知らなくていい」と言われれば追及する気にはならなかった。
「ん、あれは? 凛府か。ちょっと寄ってこうか。ギルドン」
「ゴー!」
わーわー、きゃーきゃー言って逃げ惑う人々。蜘蛛の子が完全に散った後の原っぱに一人と一匹は降り立った。
「葎花ちゃん、だっけ? あの子は今頃は龍獄怨にいるのか。もう死んじゃった頃かな?」
「そう簡単に死ぬやつじゃないよ」
孤兎市は驚いて振り返る。そこには自分と同じくらいの背格好の少年と少し年上に見える少女が立っていた。
「女の子のほうは覚えてる。たしか葎花ちゃんのお友達でー」
「夏芽よ」
「僕は葎花の弟の真だよ」
「どうしてここにいるの?」
孤兎市はいくつかの解釈のできる質問をした。二人は目配せしたが、先に答えたのは真のほうだった。
「偶然だよ。どこもかしこも大火事で、建物の中にいたほうが危ないから。こういう広い場所にいるのが一番いいと思っただけ」
「実際、降り立つのにも都合がよかったみたいね。あなたのほうこそ、ここになにしに来たの?」
孤兎市はギルドンの背中から降りた。怯む気配のない二人を不思議に思う。
「前に来た時に、いい村だと思ったから。少しギルドンの羽も休ませたかったし、僕も一息つこうと思った。それだけだよ」
「そう、悪いけど一息なんてつかせないわよ。あんたたちの悪行、見過ごすなんてできない」
孤兎市は両手を広げた。臨戦態勢に入っていく。
「私だって、こんなクソみたいな世界ウンザリよ! どいつもこいつも心の中では不満だらけなクセに、ヘラヘラ笑ってごまかして、薄っぺらい快楽に満足したつもりになってる! 上辺だけの平和よ! 本当は、助けを求める声さえ届かない人たちがいるのに知らん振りか、知りもしないか、どっちか! みんな他人事と思ってたって社会問題なんて山積みでいづれ雪崩を起こすわよ! そうなったらすっかり軟弱になった人間なんてみんな地獄を見るわよ! わかってるわよ! そんなことは!」
夏芽はまくし立てる。とても十七歳とは思えないほどに、この世界の未来を憂いてる。
「だからね、影狼は言うんだ。もう一度、地獄を見せてやるって。そして人類は絶望と後悔に塗れてー」
「滅びるんだっての?」
真は一歩前に進んだ。一触即発の空気が既に出来上がってる。翼竜が自分を見ていることには気づいていたが、その目は、本当は邪悪なものではないことにも気づいていた。
「君は知ってる? このままじゃいけないって気づき始めた人がたくさんいること。今はまだ非力だとしても必ずこの世界にもう一度、希望の明かりを灯そうって立ち上がった人たちもいることを」
「知ってるよ。でも、無駄だよ。ほんのひとときの希望はまた消えて時代は同じことを繰り返す。だからもう終わりにしよう」
「なんのために?」
「僕の大好きな動物たちのために……」
お喋りの時間は終わった。孤兎市は右手を振り上げる。辺りには、どこに潜んでいたのか大量の、トカゲ?いや、これも竜の一種なのか?見たこともない生物が取り囲んでいた。
「好き勝手なこと言ってくれたね。土下座して命乞いするなら今なら見逃してあげるよ」
「好き勝手はあんたでしょうが!」
夏芽は凛刀を取り出した。迷ってはいられない。どの道もう逃げ場はない。
「人類の悲惨な最期を見ることもなくあの世へ行けることに感謝しなよ。死ね!」
トカゲもどきたちが二人に襲いかかる。
6
「ここが龍獄怨……」
「想像以上に薄気味悪いところですね」
モヤから抜けた四人は薄暗い大広間のような場所の中央にいた。外から見たらいったい何階建てなのかもわからないほど高い塔だったが、ここはそもそも一階なのか?
「わかってるだろうが、気を引き締めて行けよ」
「当然です」
時春と相楽がそうしていないと落ち着かないのかとりあえず言葉を交わしている間、葎花は全身の震えを抑えるのに必死だった。
どんな人間でも、ある日突然、例えば交通事故に遭って死ぬ確率は0ではない。でも、そんなことを常に考えながら生きている人間はいない。
今、自分は一分、それどころか一秒後には死んでいるかもしれない状況にいる。怖くないはずがない。
「大丈夫ですよ、お嬢さん」
「万月様……」
「その『様』っていうのはやめようよ。僕はもう神格化されるほど強い人間じゃないよ」
「強さの話だけじゃないんです。私があなたを、敬愛するのは」
それ以上、万月はなにも語ろうとはしなかった。
「時春さん、あいつは、灼瑛……」
相楽が前方にたしかに捉えた影。何度となく対峙してきた六煉桜一の荒くれ者にして切り込み隊長と言っていい存在。
「ここ一番でも一番手はあいつか」
直線距離にして十メートル。灼瑛なら一足飛びで襲ってくる上に火炎による遠距離攻撃もある。
「躊躇してちゃダメだ! 行くぞ!」
せぇのの合図もいらなかった。時春、相楽、葎花は一斉に走り出した。
「え、え、え!」
もちろん実戦経験のない葎花にはそんな度胸はない。オロオロしているところに、背後から殺気。
「動かないで。あなたの相手は僕だよ」
「あ、え、え?」
冷たい何かが後頭部に当てられている。葎花は恐怖という概念すら空白と化すほどの悪寒に襲われた。
「氷綱!」
「相楽! 今はこっち!」
ブーン!
ハエが飛ぶような、だがそんなのん気なはずのない音がする。次の瞬間には先程と同じモヤが時春を包んでいた。
「時春さん!」
「またかよ! 今度はどこに飛ばす気だ!」
ヒュン!
「よく来たな! 俺たちの縄張り龍獄怨へ! まずは万月! てめえからだ!」
「俺は無視かよ!」
相楽は再びどっかに飛んでいってしまった上官のことも気がかりだが、今は目の前にいるこいつと戦うしかないとわかっていた。万月と共に二対一なら勝ち目はある。がー
「ぐわぁ!」
相楽の先手必勝を狙った一振りを造作もなくかわすと灼瑛は右手で相楽の額を鷲掴みにした。そこから物凄い力とスピードで、窓ガラスのほうへ叩きつける!
「無視?」
ガッシャッーン!
「眼中にないの間違いだろ!」
相楽は悲鳴すら聞こえないほどの奈落へ落ちたかのようだった。一瞬の出来事だった。
「お父さん!」
葎花は既に大粒の涙を溢していた。考えが甘かったとは言わない。でも、この男たち、私の想像なんて遥かに凌駕するくらい、本当にやばい!
不気味なほどの静寂が広がった。緊張感が極限まで張り詰める。
「どうした? 一歩も動かねぇで」
「随分と腕を上げたな。そう思っていたんだよ」
「光栄だな」
「それでも、これくらいなら勝てると考えていたんだよ。相楽君もそう簡単に死ぬようなタマじゃないしね」
灼瑛は顔をひくつかせる。自分の常軌を逸するほどのプライドを知りながら、こいつは俺をおちょくっている。
「最期に、聞かせてくれないか? 君たちはそもそも何者なんだい? 僕にはどうしても君たちが根っからの悪者だとは思えない。昔からね」
「どっちの最期か知らねぇが、そうだな。冥土の土産に昔話をしようか」
灼瑛は右手に一気に魔力を集中した。二つ目の太陽ができたかのような炎熱がほとばしる。
「お前を半殺しにしてからな!」
小手調べとも思えないほどの巨大な火球が万月に向けて放出された。受ける手はない。避けるしかない。同時に灼瑛のほうへ間合いを詰める。
二十年ぶりの抜刀。灼瑛は両手に嵌めた手甲で防ぐ。そしてへし折ってやるくらいの剣幕で万月の刀を握り締める。両者、睨み合う。気迫で負けたら、一瞬で勝負はつく。
「万月『さん』! 死なないで! 私も頑張るから!」
葎花は父から渡された真剣の柄を全力で握り、一気に背後の「敵」に一刀を御見舞しようとした。がー
ドン!
「あっ……」
ライフル?葎花はたしかに敵の獲物をその眼に認めた。同時に自分が右脇腹を撃たれたことにも。
「あなたが月虹石の後継者、葎花さん。自己紹介しておくよ。凍術使いと言ってもその獲物は銃器。もっとも弾丸は氷だけどね」
「くっ、痛っ、うぅ」
かすっただけ、と楽観はできない。こいつ、わざと急所を外した。嬲り殺しにするために。それくらいはわかってる。
葎花はなんとか立ち上がった。月虹石の後継者なんてまだ全然ピンときてないけど、それでも自分には今、自分でもコントロールできないほどの力が芽生えている、はず。
「活きのいい小娘だな。だが、何かを守りながらの戦いじゃ俺には勝てねぇぜ」
「それ以上にいざとなったら、君たちはあの子を人質にするっていう手がある」
結論はー
「「河岸を変えるぞ」」
二人はおよそ人間と思えない跳躍力で壁を忍者のように跳び上がっていった。
残されたのは自分だけ。葎花はもう覚悟を決めていた。
真、お母さん、夏芽ちゃん、バカ。走馬灯には早いでしょ。
「いつも私は絶対勝つぞっていう気持ちで対戦相手と向き合ってる。でも、あなたは対戦相手じゃない。『敵』だから、勝つだけじゃダメ。殺さなきゃいけないってわかってる」
葎花は真剣の切っ先を真っ直ぐに氷綱に向けた。極悪暗殺組織の一人とは思えないほどに優しげで端正な顔立ちのこの男に。
「君が甘っちょろいお子様でなくてよかった。僕も安心して、非情になれる」
7
万月が時春の頼みを快諾した時、一同はそこでお開きにするつもりだった。
でも、葎花は「ついて行く」と駄々を捏ねていた時から決めていた言葉を口にした。人生で一番、恥ずかしくて、でもそれは気持ちのいいドキドキだった。年頃の女の子として当たり前の感情として、恋する乙女の可愛いワガママとして、周りの大人たちも認めてあげるべきことだった。
「あの、万月様と二人きりにしていただけませんか!?」
一瞬、誰もがキョトンとした。最初に吹き出したのは相楽で、そこから伝染するように部屋中を爆笑が包んだ。
「僕は構いませんが?」
万月はにっこり笑って答えた。相楽にも時春にも止める理由はない。ただ、この有事に不謹慎というかのん気というか、な気はしていた。
「いいよな? 百合流」
「ええ、優しくしてあげてね」
まさか十七の小娘に対して嫉妬心なんてない。婦人である百合流も承諾した。意味深な言葉を添えて。
葎花がどれくらい長話したいつもりなのか相楽にも
検討はつかなかったが、とりあえず別室への移動を皆に促した。
かくして葎花は憧れの人と二人きりになった。十年間、恋焦がれ憧れ続けた伝説の剣士と。
声が、出ない。
優しくしてーってどういうこと?私はそんなやましい気持ちは。あくまでも健全に、そんなエッチな気持ちじゃ……
葎花のアホな妄想を見抜いているように、まるで心が読めるかのように万月は再びにっこり笑った。それで葎花もリラックスしたとは言い難いが、少なくとも安心した。
「あの、私、あなたのことがずっと前から大好きで、あなたに憧れて剣術始めたくらいで。だから今日、こうしてお会いできて、もう生きててよかったってくらいで……」
万月は両手に顎を乗せてただ微笑むだけのスタンスを崩そうとしない。
今更だが、葎花はけっこう可愛い女の子である。美人系の夏芽といつも一緒にいるし、性格が快活すぎてそこそこ女性らしい身体つきになってくる年代の女子としては色気が無さすぎるせい、プラス生意気な弟にいつも馬鹿にされているせいで男からチヤホヤされる対象になりにくいだけ。実際にはけっこう美少女である。
「光栄ですよ。君みたいな素敵な女性に慕われて」
顔が茹でダコになる。それでも落ち着きたかった。今、地球は大変なことになっている。こうして万月と二人きりになりたかったのは、あくまでも真面目な話がしたかった。
「さっき、あなたはおっしゃりましたよね。人間は償うべきなんだって」
「そうだよ。僕は残りの人生を全て犯した咎の贖罪に捧げる」
「私は、恩返しに捧げたいと思っています」
「ほう」
万月は右手だけ顎から話してとっくに空いてるグラスの縁をいじる。
「聞きましょう」
葎花はこの日のために「万月様に話したいこと」をリストアップして入念にイメージトレーニングをしてきていた。
「あなたが、罪人だなんて誰も思っていません。これだけは本当だと思います」
「いろんな人から言われたよ。でも、僕自身の心の問題なんだ」
「それをあなたは人類全てに求めようとしている」
万月の眉間に一瞬だがしわが寄った。だが、それも本当に一瞬のことですぐにまた笑顔に戻った。
「君は賢い子だよ。世の中を憂いているのが手紙から伝わってきた。どうして僕をそんなにも慕うのか、理由が伝わってきた」
「この世界がどんどん卑に堕して、愚に墜ちてることくらいお父さんたちに言われるまでもなくわかってます」
「もう一度、清く正しい心を取り戻してほしい」
「同感です」
既に悪い意味での緊張は消えていた。自分とは次元が違うほどに深い信念と哲学を持った人を前にしてまるで自分が自分でなくなったようだった。
「それで、恩返しという言葉の真意は?」
「こんなこと言ったら笑われそうですけどー」
「そういう前置きはいいよ。どっちにしても僕は君の話を真剣に聞いて、正直に応えるだけだからね」
敵わない。この人には手を伸ばしても飛び上がっても、逆に逆立ちしてみても到底、人として及ばない。だからこそ素直になれる。
「私はあの異常気象からこの妖魔恐慌に至るまで、私なりにたくさん考えました。それで思ったんです。私はこの世界で、自分の人生の中で、いったいなにをどうすればいいんだろう。ずっとそう考えていました。出した結論は、どうもしなくていいんじゃないかって」
「うん」
「何十年も前から地球はもうそう長くは保たないとたくさんの学者が悟ってます。でも、どうせいつかなくなるなら、世界が終わるその日まで精一杯生きたい」
「素晴らしいと思うよ。若者らしい」
「ただ、温かいお布団で寝て、お母さんの美味しいご飯を食べるの。大好きな友達と夢中で好きなことをするの。ただそれだけで私は、ありがとうの気持ちでいっぱいになる」
「君は本当にいい子だね」
「だから、どんなにクズだらけの世界でも私は嫌いになりたくない。私を包んでくれるこの世界を、感謝の気持ちでいっぱいにしたい。それが、私が十年間の修練の果てに導き出した理です。信じたい。人が人を大切に想う気持ちを」
葎花は「言ってやった」と思った。恥ずかしくなるくらい青臭い理想論だとは思う。でも、万月様なら笑わずに聞いてくれる。そう信じて語り切った。
だが、万月の表情は決して明るくなかった。
「君は僕と同じだ。少なくとも二十年前までの僕とは」
「万月様……」
優しくしてくれて、いない。声色からわかる。
「人間は悪い意味で変わる。悪い意味で変わらない。君は知ってる? 例えば魔女狩り。ホロコーストに代表される大虐殺。今も消えない貧富の差。君の言う温かいお布団と美味しいご飯すら一生手に入らない人たちがいくらでもいることを」
「それは……」
「人類の歴史は憎しみと復讐の歴史。幸せに生きられる人間は誰でも自分の頑張りのおかげだと思うだろう。頑張る気力すら理不尽に奪われる人間が同じ惑星に何億人といるという事実には目を伏せてね」
「でも……」
「僕は思う。天使として生きるか? 悪魔として生きるか? どちらにしても目指すのは君と同じ。皆がたくさんの幸せと汗と涙を分け合って生きる世界さ。そのために必要なのは人間の悪いところを正すことさ。そのために僕は悪魔として生きることも厭わない。君が人間の良いところを褒める天使として生きるならそうすればいい。君の目に映る平和な世界でね。どちらにしてもこの窮地を無事に乗り越えてからの話だけどね」
万月としても「言ってやった」という気持ちだっただろう。十七のうら若い少女に語るには辛辣過ぎた。もちろんそこいらの普通の女の子なら受け入れられないのもわかってる。万月は「町の剣術大会で三年連続優勝」という肩書きを軽く捉えてはいない。
「万月様、私はあなたと共に戦えることを光栄に思います。心から敬愛します。でも、正直に言うと今のあなたは少し怖い」
「無理もないと思う」
どちらともしばらく黙ってしまった。やがて頃合いを見て相楽たちも「もう済んだか?」と声をかけてきたので葎花は「ありがとう」とだけ答えた。
それがあの日、二人にあった出来事。
葎花は思う。
私に、なにができる。
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