第1章 腐り果てた世界

 1


 葎花はもう何度目になるか、冷房のリモコンに手を伸ばした。設定温度は28℃。だが、全然足りない。只今の室温は35℃。

「あぁ、いい加減にして異常気象!」 

 葎花はベッドの上で枕を抱えながらジタバタする。

「なにやってんの? 葎花」

「ひゃあ!」 

 葎花は握りしめていたリモコンを思わず放り投げていた。ガバッと起き上がると可愛くない顔で自分を見つめている弟の真を一旦無視して壁に叩きつけてしまったリモコンを擦る。

「よし、壊れてはいない」 

 正常に画面が表示されていることを確認するとあらためて弟を睨みつける。

「ちょっと! ノックぐらいしなさいよ! 着替え中だったらどうすんのよ!」 

 真はため息をつく。そして眉一つ動かさずに呟く。

「したよ。十三回。で、着替え中だったら? うーん、少しはドキッとするんじゃない? 一応は女だし」 

 敢えてストレートに馬鹿にせず、正直に答えながらさりげなく馬鹿にしてくる辺り、ぶん殴りたくなる。

「しょうがないでしょ! 暑すぎて何にもする気力が起きないの!」

「ちなみに今何時だと思ってる? 一時半、もうあれ、終わっちゃったよ」

「バッ! ふざけんな! 教えろよ!」

「だからノックはしたってば十三回を四セット」「だったらドア開けていい! 着替え見られてもいいわ!」

 葎花が何に憤慨しているかというと「あれ」こと葎花が毎週楽しみにしているアニメ「ドクター少女」を見逃してしまったということ。

「ビデオは撮っといたけど」

「言えよ! あぁ、よかったー。真、愛してるわ」      

 葎花はようやくベッドから起き上がった。来ているシャツはゆったりサイズのはずなのに大量にかいた汗のせいでぴったりと肌に張り付いているほどだ。

「ごめん、本当に着替えるから出てって」

「了解」 

 再び一人になった部屋で葎花は替えのTシャツを出す。びしょ濡れのほうはもう脱ぐのにも手間がかかるほどだった。

 しばらく上裸の状態でいたが少しも涼しくはない。おとなしくタオルで汗を拭くとさっさと着替えを済ませて部屋を出た。隣は真の部屋、二階はそれだけだ。

 父の名は相楽、母は弥生。四人家族。姓はない。葎花たちの暮らす村、凛府では普通のことだ。姓を持つのはもっと都会に住む上流階級のみだ。

 季節は、夏ではない。冬真っ只中の十二月のはずだ。それは間違いないのだ。

 だが、ここ一ヶ月ほど信じられないほどの暑さが続いている。それも凛府の中だけの話ではない。ニュースによれば世界中で、それも凛府よりもはるかに北のほうの地域でもそうなのだ。

 異常気象ー名前はまだない。いずれ通称が確立されると思う。気がかりなのはこれが未曾有の事態ではないということ。

 葎花は階段を降りていく。リビングのほうはあまり賑やかしくないようだ。

「おはよう」

「おはよう。もう早くないけどね」

 弥生が穏やかに笑いながら言う。日曜くらいは好きなだけ寝かせてやりたいと思っている。毎日、頑張り過ぎだから。

 リビングも猛烈な暑さ。それでも冷房は28度までと政府から要請が出ている。

「今日も暑いね」

「そうね」

「お父さんは?」

「今日もお仕事よ。この暑さがなんとかなるまでは忙しいでしょうね」

 いつも騒々しい相楽がもう二週間ほど家に帰っていないから家の中はすっかり静かだ。真はいつも本ばかり読んでいる。弥生はもともとおっとりした性格で口数も多くない。

「今日はこれからどうするの? 今からでも道場?」

「こればっかりは一日も欠かしたくないからね」「止めはしないけど。熱中症には気をつけてね。本当に十二月にこんなセリフを言うことになるとは思わなかったわ」

「本当、なんとかしてほしいよね」

 葎花はチラリと弥生のほうを見やる。それだけで言いたいことは伝わる。

「あぁ、ご飯? 私と真はおそば茹でたわよ。ちょっと待っててくれれば作るけど。本当にこれも十二月に冷たいおそば食べるとは思わなかったわ」

「あぁ、もっとすぐできるものでいいよ。トーストかなんかできる?」

「それで足りる?」

「暑くて食欲もないよ」

 弥生は少し心配そうに眉をひそめる。元気だけが取り柄みたいな娘がここしばらく目に見えてしょんぼりしてる。だが、その心配も言葉にしなくても伝わる。仲の良い親子だ。

「あぁ、大丈夫だよ。バテてるだけだから。気持ちはバッチリ元気」

 弥生は「それならいいけど」とだけ言ってトースターに食パンをセットする。真のほうはというとこの間なにも言わずに黙々と本を読んでいる。ブックカバーをつけているのでなんの本かはわからないがとりあえずそんなに厚くはない文庫本だ。

「葎花、ビデオなら入ったままだから。見るなら巻き戻してよ」

「うん、ありがとう。帰ったら見るわ」

 真は三つ上の姉を呼び捨てにする。いつからそうなったか、たぶん中等部に入って学聖とか呼ばれるようになってからだ。

 学聖ーどこの誰がつけたか真は学校でそう呼ばれている。優れた音楽家のことを「楽聖」と呼ぶのに倣ってつけられた称号。

 七歳の頃から剣術を習い今では町の剣術大会で三年連続優勝という成績を修めるほどに武に長けた葎花。本当に同じ親から生まれたのかと思うほどだ。IQ180とも噂されているがさすがにそれは言い過ぎだろうと葎花は思ってる。「お父さん、この暑さについてなにか言ってた?」

 弥生がトーストとミルクを運んでくれた。葎花は真の隣の席でパンをかじりながら問う。「余計な心配はかけたくない、とだけ言ってた。そんなこと言われたら心配するよね」

「ニュースでも言ってたけど、妖魔恐慌? あり得ないよね。二十年経ってやっと平和になったのに。バカバカしい」

 テレビのニュースは暗い気持ちになることしか言わない。それも本当にタメになる情報なのか甚だ疑わしい。

「父さんは現実的に考えてると思うよ。二十年前もこんなふうに真冬だってのにバカみたい暑かったって。それが前兆だったって」

「やめてよ。私は本当に怖いんだから」

「なるようにしかならないよ」

 真は十四才とも思えない大人びた口調で言う。それも強がりだと伝わる。少し生意気なとこもあるけど可愛い弟と思っているのは心底本音だ。

「ごちそうさま。じゃあ、お母さん。行ってきます」

「行ってらっしゃい。本当に無理はしないでね」

 葎花は剣術の道具一式を抱えて少し憂鬱な気持ちとともに意を決してドアを開けて外へ出た。途端に猛烈な暑さに襲われる。

 三十年前に始まり十年もの間、全人類を恐怖のドン底に突き落とした、通称「妖魔恐慌」。それがまた始まるなんて、考えたくもないのは誰だって同じだ。


 2


 万月様ーこの名前は葎花にとってなによりも大切な意味を持つ。

 三十年前、人間界(この呼び方を葎花は気に入ってない。この世界には人間以外にもたくさんの動植物がいる)と魔界との間に亀裂が生じた。

 最初はほんの些細な綻びのはずだった。だが、そこから少しずつ妖怪が人間界に浸出し始めた。

 最初は下等な妖怪だけだった。警察が出動すれば造作もなく退治できるような。

 だが、原因がわからないだけに事態は簡単には鎮静しなかった。下等妖怪と警察隊の戦いはズルズルと、二ヶ月近く続いた。

 今、世界になにが起きているか、学者たちが解明した。この宇宙に地球という星が誕生してから百万年に一度の周期で起こるという時空間の歪み、第一段階は異常なほどの気温の上昇(それが今の異常気象と同じ?)、第二段階は下等妖怪の浸出、多くの場合はここまでで収束している。

 だが、極稀に中等以上の強力な妖怪が出没し始めることがある。学者たちはそれをこう名付けた。 妖魔恐慌と。

 三十年前、当然、葎花は生まれてもいない。だが、歴史の教科書にも載るほどに語り継がれている大惨事だ。

 人々は恐れ慄いた。百万年周期で起きているとはいえ人類にとっては未曾有の事態だ。諸説あるとはいえ、恐竜を絶滅させたのも妖怪たちだとすら言われている。

 対抗か、和睦か、世論は真っ二つに分かれた。だが、すぐに対抗派が後者を大きく上回った。戦うしかないと。

 勝算はあった。確実に総力戦になり甚大な犠牲を出すことも覚悟の上で。

 十二億八千万人。正確にはわからないが、これが妖魔恐慌収束までに人類が被った人的被害だ。自然も大量に破壊され、多くの市街地は焼け野原と化した。

 それでも、一時は人類の滅亡さえも囁かれた事態は一人の剣客によって救われた。

 その男、万月。

 香伽という、葎花たちの暮らす凛府よりもさらに田舎といえる村に生まれ育った、当時弱冠十七歳の青年。今の葎花と同い年だ。

 剣術を愛し、動植物を愛し、なによりも人を愛した、心優しい青年だった。そして病的なほどに争いを好まなかった。

 牙崙ーそれが人類にとって最後の、そして最大の強敵だった。

 まだ若く純粋だった万月は苦悩していた。強大な戦力はいつの世も国家に利用される。既に万月は警察隊の、強制とも思える兵役を課せられていた。  

 万月はまだ血の味も痛みも知らなかった。

 だが、良心の呵責と罪悪感に潰れそうな万月も人類の存亡とを秤に掛けざるを得なかった。

 どちらに振れたか?牙崙の消滅がその答えだ。 

 それから先、万月青年がどうなったか。彼は剣を捨てた。相手は情けも正義も持たぬ畜生餓鬼の如き妖怪たちだと頭では理解している。それでも数え切れぬほどの命を奪ってしまったことに変わりはない。 万月は年老いた母親とともに残りの人生は剣をペンに変えて慎ましやかに暮らしている。

 ここまでは葎花が歴史の授業で学んだ話。なんだかあまりにも現実離れした話で葎花は正直、実感を持てなかった。

 でも、そんなことはどうでもよかった。大事なのは教科書に載せられた万月青年の写真。

 なんてお美しいお方!

 銀色の長髪に、右眼だけが炎のように紅く輝いている。真っ直ぐに通った鼻筋は高貴さと同時に硝子細工のような繊細さも感じさせた。薄い唇は写真の中で少しだけ開いていて、まるでなにかを伝えようとしているようにも見えた。

 お父さん!お母さん!私、剣術やりたい!

 家に帰るなりまだ初等部の二年生だった葎花は両親に抱きついた。あまり我がままを言わない少女の初めてのおねだりだった。

 初めて、憧れと夢を持った。

 初めての、恋だった。

 次の日には町の剣術道場に相楽を腕を引っ張りながら駆け込んでいた。

「一番小さい子でも十歳だよ。お嬢ちゃん、それでもついて行ける?」

「やります! 絶対続けます!」

 戸惑い気味な受付係だったが葎花の勢いに気圧されたらしい。すぐに入門を許可した。

「じゃあ、私も。いいですか?」

 すぐ隣りに立っていた少女。葎花と同い年くらいの背格好だが顔立ちやオーラは葎花より遥かに年上に見えた。

「あの……」

「ん?」 

 自分と同じ入門希望者だろう。すっごく綺麗な子。それが第一印象だった。

「あなたも剣術始めるの?」

「そのつもりだけど?」

「私、葎花っていうの! よかった! これから仲間だね! よろしくね!」

 いきなり馴れ馴れしく話しかける葎花に相楽が無理矢理、頭を下げさせる。お辞儀くらいしなさい、バカモン!と。

「私は夏芽。七歳、同い年みたいね」

 それだけ言って夏芽と名乗った少女はさっさと道場の中に入っていってしまった。

「クールな子だねぇ」

 呆気にとられる葎花と同じ感想を相楽も抱いていた。

「あの子はなんで剣術やりたいのかなぁ」

「さぁ……。でも、しっかりした子だねぇ。親御さんも連れてこないで一人で門を叩くなんて」

 あれから十年が経った。上背は夏芽のほうが五センチ高く成長した。でも剣術の腕前は葎花のほうが一回り上になった。

 凛刀術、それが葎花たちの励む剣術の名前。真剣と違い刃を持たないのが最大の特徴である凛刀。凛府で栄えている剣術だから凛刀術なのか凛刀術が盛んな町だから凛府なのかは定かではない。

 だが、護身用として剣術を学ばせている保護者の中にはそれでいざという時に身を守れるのかと危惧する声もある。

 それに対して、おいおい、正当防衛とはいえ殺傷能力のある刀で人と戦いたかないよと葎花は苦笑する。

 自分たちの剣は少なくとも敵を気絶させるくらいの力は持っている。それで十分だ。

「葎花は、高等部を卒業したらこの町を出てくの?」

「そのつもり。剣術を通して道を説く人になりたい」

「頑張ってね。私はこの町で咲斗とずっと一緒に生きていく」

「夏芽ちゃん……」

 咲斗とは葎花がもう三年も前から付き合ってる恋人の名前。まだ男の子と手を繋いだこともない葎花にはあまりにも大人びた話だった。

「咲斗君ならきっと大丈夫。幸せになってね」

「お互いにね」

 なにも言わずに右手の小指を差し出す。

「嘘ついたら針千本飲ーます! 指切った!」

 幸せになること。ただそれだけを約束した。それが全てだと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。人生はもっと複雑で、現実は余りにも険しくそれ故に深遠なものであると、葎花は学ぶことになる。 長く凄惨な戦いの果てに。


 3 


「また奴等からの斬奸状です」

「またか。いい加減してくれ」 

 それによると次のターゲットは炎上系ユーチューバーのミカエルという男。

「この前は政治家だったのに今度は随分と小者だな」

「あいつらからしたら社会悪であることに変わりはないんです。この世の中をダメにする腐ったミカンは容赦なく排除する。奴等のやり方です」

「なんにしてもこの異常気象が片付いてからにしてほしいな」

 禾南警察機構は今、猫の手も借りたいほど忙しい。その中でも総長の時春総悟はもう二週間も家に帰っていない。

「まぁ、ミカエルっていったらこの前もバカやらかして警察にこっぴどく叱られたのに懲りずにまた炎上やらかしたアホだろ? 正直、ほっといていいんじゃねぇか? 他のバカユーチューバーも大人しくなるだろ」

「時春さん、全く同意見だから聞き流しますが、どこで誰が聞いてるかもわからないから気をつけたほうがいいですよ」

 随分とまぁ、優秀な部下だよ。時春は嫌味でなく思う。

 波町栄、去年の夏、職務中に再起不能と言われるほどの大怪我をした部下の代わりに彼が入ってきた。それ以来、時春の仕事でのストレスは激減した。

「あいつらも一体いつまでこんなことを続けるんだ。もう捕まえる気力も失せる。強過ぎる上に頭が良過ぎる」

 六煉桜ー時春が「あいつら」という極悪暗殺組織。時春とはもう十年来の付き合い(?)になる。暗殺組織なのにわざわざ斬奸状を出す奴等はその存在をはっきりと匂わせているにも関わらず未だにその尻尾すら掴めていない。

「えーと、この前が拡大自殺を起こして本人は結局、最後の最後でビビって死に切れなかったって奴がターゲットでしたよね? 留置場に忍び込んでまでトドメ刺したっていう」

 ガイシャの名前は奈倉。大学受験生だったが四浪目が決定した時から気力を失い以降、十五年間引きこもり。挙句の果てに起きたのは無関係の人間に次々に斬りかかり重軽傷者七名、死者三名を出す悲劇だった。「まぁ、社会問題の一つではあるよな。悪いのは誰だって議論が紛糾するのも無理はない」「それに比べりゃ今回のターゲットは雑魚すぎませんか? たかがユーチューバーですよ。この前だって駐車場の車に何台バレずに落書きできるかって動画撮ろうとして結局二台目で即バレたアホですよ。ほっといたって人に危害は加えませんよ」

「いや、確かにそうなんだが、ある意味ではそういう美学も信念もない俗悪こそあいつらが一番忌み嫌う存在だからな。雑魚で下衆、そういう奴がヘラヘラしながら偉そうにしてるのが一番許せないんだよ。あいつら自身のプライドがな」

 それにしても酷い言われようだなぁ、ミカエル。そう思う波町である。

「なんにしても次のターゲットはミカエル。決行はご丁寧に明後日の夜と書かれてる。一応、警護の要請は出しておくぞ。ミカエルを守るためじゃねぇ。あいつらを今度こそ捕まえるためだ」

 今度こそーこの言葉を時春さんはもう何十回使っただろう。そう思う波町である。「

死にたくねぇよー! お巡りさん、助けて! お願いだから助けてくれよう!」

 時刻は午後五時、所はミカエルこと照日の住むアパート。さっきから手当り次第に警備員の膝にしがみつき、鬱陶しがられて振り払われている。感情の輪が憐れみと身勝手さへの怒りをグルグルと回りついには失笑が漏れる始末だ。「わかったから一旦落ち着いて椅子に座ってろ! 大丈夫、俺たちは絶対あいつらを捕まえる」

 波町は時春が「絶対お前を守る」とは言ってないことにしっかり気づいていた。むしろミカエルをおとりにして六煉の奴等を捕まえる気ではないかとすら思う。

 幸いミカエルの家は六畳一間、狭い。警備員が五人入ったらもう窮屈だ。そこに時春と当然、ミカエル自身。ー斬奸状。愚かなるミカエルがその身を再び天に召される時、静かに満月は欠け始めるー いつも通りと言えばいつも通りの六煉桜の斬奸状だ。だが、時春の長年の刑事としての勘からこれがいつもの暗殺とはなにかが違うことを感じ取っていた。 満月が欠け始める、とはどういうことだ?

「波町、お前はミカエルを守ることに集中してくれ。あくまでも警察のメンツのために」

「了解です。メンツのために頑張ります」

 普段、ユーチューブどころかスマホを弄ることすらほとんどしない時春だが、今回の暗殺に対抗するためミカエルこと照日という男について入念に調べた。 胸糞が悪くなるほどの下衆だった。

 人に迷惑を掛け、不快にさせ、時には人の名誉も侵害し、最悪の場合は人に大怪我を負わせたことも一度や二度ではない。

 それを面白がる人間がウン十万人という単位でいるらしい。だからそんな馬鹿げた行いが商売として成立してしまう。

 それが今の世の中の姿なのか。腐ってる。 波町にはあくまでも冗談としてああは言ったが本音は照日自身のためにもこの世の中のためにも死なせるわけにいかない。この男だけじゃない。この世界に蔓延る一人や二人じゃない劣悪なユーチューバーに自分の愚かさを骨の髄までわからせなければならない。

「それにしてもどんな手を使ってくるか。相手はそんじょそこらのコソ泥じゃねぇんだから戸締まりはしましたで済む話じゃねぇぞ」

「わかってます。戦う覚悟はできています」

 照日ことミカエル……じゃなくてミカエルこと照日、もはや時春にとってどうでもよくなっている男は余りにも五月蝿いので猿ぐつわをはめておいた。さすがに可哀想になる扱いだと波町は思う。

 異変に気づいたのは警備員の一人だった。

「なにか、匂いませんか?」

「ん、たしかに。なんか焦げたような……」

 時春はハッとした。「消化器! 急げ!」

 波町も気づいた。来た。想定の範囲内だが一同に一斉に緊張が走る。

「灼瑛だ! 奴が近くにいる!」

 ゴッ! 地の底からなにかが爆ぜるような音。大人しく椅子に座った(座らされた?)照日から見て右側の壁が一瞬にして燃え上がった。

「放火かよ! アパートだぞ! 他の住人だっているんだぞ!」

 六煉桜、赤の桜・炎術使いの灼瑛。

 ビー!ビー!ビー!

「うるせぇよ! 火災探知機! わかっとるわ!」 予め用意していた消化器で急いで鎮火する。ん、鎮火できた?時春はキョトンとしてしまう。

「なぶり殺しだ。第二弾の攻撃が来るぞ」

「んー! んー! んー!」

「お前は座ってなさい!」

 時春も波町も既に呼吸が荒くなっていた。「下手したら俺たちも死ぬぞ」「見くびっちゃいけませんよ。殺ると言った奴しか殺らないのが奴等のやりー」

 ゴッ! 今度は先程よりも強い音。次の瞬間には、照日は火だるまとなっていた。

「ぎゃー!」

「照日!」

 一瞬なにが起きたのかわからなかった。気づいたら照日はゴロゴロと床を転げ回っていた。

 だが、まるで炎が「そういう材質なんです!」と言っているかのように床にも壁にも燃え移らない。「熱い! 熱っ! あぁ……」

 警察隊の存在などまるで無視するかのような直接攻撃。情け容赦なき獄炎が照日を襲う。

 消化器が集中的にぶちまけられる。だが、とても抑えられるレベルじゃない。

「波町!」「わかってます!」

 波町の両手が青白く光った。冷却の魔法。だが、灼瑛の力に太刀打ちできるか。 シュゴーという音を立てて炎に対抗する。ほぼ南極の吹雪にも近い低温と水力、風力をかけている。それでも炎は弱まる気配すらない。逆に波町の顔からは大量の汗が吹き出していた。

「チキショー! 灼瑛の野郎! 兎狩りにも全力尽くすったって、限度があるだろ!」 

 波町は体力はある。しばらくは粘れるだろうと踏んで時春は自分のすべきことを考える。

「待ってろ。他の住人を避難させないと」

 時春は玄関口へ急いだ。この様子だと炎が隣室にまで広がることはなさそうに思える。それでも万が一に備えてだ。しかし、時春は絶望する。

 何度もノブを回してもドアが開かない。ただガチャガチャ鳴るだけだ。

「閉じ込められてんのか。くそ、そこまでするかよ」

 状況判断力。刑事に大切な資質。考えろ。今なにをすべきか。

 時春はドアを開けることを諦めて波町たちのもとに戻る。灼瑛による遠隔操作での人体発火から十五分ほどが経過していた。もう波町の体力も限界に近いだろう。

 照日の手足はまだ微かに動いている。生きてはいる。意識はあるだろうか。あるとしたらこれ以上、苦しめるよりは……。

 時春は冷却魔法を続ける波町の肩に手を置いた。「諦めよう。俺たちの負けだ」「イヤです。こんな奴でも同じ命です。死なせたくない」「お前までくたばるぞ」

 そう言うと時春は波町の首筋をトンと叩いた。「あっ」 波町はその場に倒れた。回りの警備員は呆気にとられる。「総長……」「ミカエルはもうすぐ死ぬよ。霊柩車を呼ぼう」

 その時、瀕死の照日がなにやら口を動かしているのを見た。

「言い残すことが、あるのか?」

「……なんで、俺が……」

 それが最期の言葉だった。

 こうして自称・大天使「ミカエル」は再び空に召された。半分、自業自得の死をもって。


  4


炎上系ユーチューバー、最期は自分が「炎上」

 翌日の新聞や各種ニュースではこんな言葉が踊った。予想通りの反応に晃は面白くもなさそうに笑う。

 悪どいやり方で儲けようとする卑劣な人間ではあったがなにも火だるまにされて殺されるほどの悪人だっただろうか。犯人探しの前に論点になったのはそこだった。

「なんの罪もない人間が虐殺されることもある世界で、なにを今さら大騒ぎしてる。バカめ」

 晃は椅子から立ち上がり窓を開けた。小高い丘の建てられた六煉桜のアジト、名付けて龍獄怨。今、他の五人のメンバーも集められている。

「こんな小者狩り、金輪際、勘弁してくれよ。晃サン」

 灼瑛は斜め読みしただけの新聞をさっさと破いた。白の桜・舞雪が「かえって散らかるから」と文句を言う。

「言われなくともあんなゴミを相手にするのはこれで最後だ。言っただろ。これは大事の前の小事だって」

 晃の声音がいっそう重々しさを増す。一同に緊張が走る。

「あいつが暴走してる。もう俺にも止められない」

「いつかこんなことになるとは思ってましたよ。僕らといつまでも大人しくつるんでるようなやつじゃないって」

 青の桜・氷綱もお手上げといった口調で言う。散々こき使ってきた自分たちにも非はあっただろうとは思ってる。

「俺たちが拾ってやらなきゃあいつ、今頃どうなってたと思ってたんだよ。今さら裏切りやがって」

「そう言うなよ、灼瑛。今となってはどうでもいいことだ。俺たちは面白いほうを選ぶだけだ」

 黒の桜・血風刃が実に愉快そうに言う。組織に非常事態が起きているというのにこの男はすこぶる楽しんでいる。

「舞雪、妖怪どもはいつ頃こっちまで浸出してくる? このぶんだとそう遠い話じゃないだろう」

「亀裂はここから北方に二百キロほどの所で広がり始めています。あと一週間もすれば」

「そんなにすぐ!」

 黄の桜・孤兎市が素っ頓狂な声を上げる。氷綱は失笑しながら諭す。

「驚くことじゃないよ。妖怪どもの大好きな負の感情さえあれば向こうからこじ開けられる。今ごろあいつはそこで禅でも組んでるさ」

 灼瑛は呆れてため息をつく。

「ストレス解消は十分させてやってたってのに空恐ろしいな。あいつの憎悪の念は。なぁ、氷綱よぉ」

「それだけ、今の世の中に絶望しているんだよ。あいつは」

 氷綱も立ち上がり、なにか物思いに沈みながら外を眺め続けている晃の隣りに立つ。目線は合わせない。自分も同じように外を見渡す。淀んだ空気が視覚からでも伝わってくる。

「それで? 次の一手はどう進めます? 僕らは従いますよ」

「俺はあいつの思い通りにさせるつもりはない。だが、やろうとしてることに反対はしない。むしろそれは俺たちがすべき事だ」

 首領、金の桜・晃は不敵に嗤う。

「全面戦争になりそうだなぁ、晃。いいぜ。ド派手に行こうぜ」

 血風刃は愛刀の手入れに両手を忙しなく動かしながら舌舐めずりする。今までに殺めてきた命は百や千の次元ではない。この男に恐れるものなどない。

 それはここにいる誰もが同じだ。

「基本的にやることは今まで通りだ。が、警察と世間の奴等に今までと違うってことは匂わせられた。最初の仕事は二人に任せる。舞雪、孤兎市」

 名指しされた二人は互いに目を合わせる。

「仰せのままに、晃様」

「任せてよ。大丈夫、大丈夫」

 翌日、世界は泰平の眠りから叩き起こされることになる。


   5


「新聞ばっか読んでるとバカになるよ、葎花」

「本当にそう思う。でも、今はどうしたって最新情報がほしいよ」

 新聞もニュースもここんとこずっと異常気象に関するものでいっぱいだった。日々、更新される事実と憶測。

「それにしてもなんなの? このミカエルって人。迷惑系ユーチューバーもついに殺されるほどの社会悪に成り下がったの?」

「ネットニュースのコメント欄なんて笑っちゃうよ。散々言われ放題。これが最後の炎上だね」

「悪趣味! よくそんなもん見れるね。あたしゃ、不愉快なだけだから絶対見ないよ」

 お互いに額の汗を拭きながら朝食を摂る我が子二人を、だが弥生は不安そうに見つめる。

「正直、被害者さんのことは私はよく知らないけど、殺ったのはあの人たちだって言うじゃない。これでまたお父さんももっと忙しくなるね」

「会いたいなぁ。帰ってこないかなぁ。お父さん」

「六煉の話になると人が変わっちゃうから、お父さん。僕はしばらく帰ってきてほしくないな」

 中心都市と言われる禾南は住宅地や会社、各種店舗が増え過ぎて資源と呼べる物はほとんど自給できない。よって近くの町が供給することとなっている。凛府もその一つ。主に米や野菜などの農作物が多い。

 そんな田舎と言っていい町でも当然、お巡りさんはいる。相楽はその中でも上官に当たる。巨大な組織である禾南警察とも太い繋がりがある。

「昨日、電話があったけど、どうも様子がおかしいって。時春さんってけっこう直感の鋭いとこあるでしょう。悪い予感しかしないって」

「なるようにしかならないよ」

「あんた、最近そればっかだね。じゃ、私はお先に学校行くからね」

 葎花は今日も朝練だ。それも最近は一人のことが多い。みんな無気力になってる。ずっと前からそうだ。中等部に入った辺りから周囲の子どもたちがみんなつまらなそうにしてるように感じる。シケた面してるか、ヘラヘラしてるかどちらか。世の中全体がそうなってると専門家も分析してる。部活動にも勉強にも精を出さない若者が増えていると。

 年長者は嘆いている。妖魔恐慌という災厄と二十年の平和を挟んで、この世界は変わってしまったと。

「う、あっつ」

 飽きもせず、家から一歩出ると第一声はこれ。だが、二言目はいつもと違った。

「はい?」

 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。まずは後方を、それからぐるりと辺りを見回したが誰もいない。

「気のせいかな」

「なにが?」

 ひょいと肩越しに顔を覗かせてきたのは夏芽。葎花は心臓が止まるほど驚く。

「わぁ! あぁ、なんだ、夏芽ちゃんの声かぁ」

「だからなにが?」

「なにがって……。今、私のこと呼んだでしょ?」

「呼んでないよ。驚かそうと思って黙って近づいたんだから」

 こっちにも悪趣味が、というツッコミはさておき葎花はいよいよ不気味に感じる。ただでさえこの暑さでナーヴァスになってるから尚更。でも夏芽には言わないでおこうと思う。楽天家の葎花に対して夏芽は意外とデリケート。気高そうな外見や言動とは裏腹に。

「どうかした?」

「ううん、なんでもない。それより今日はどうしたの? 夏芽ちゃんも朝練?」

「発表会も近いからね。まぁ、そんなに大規模じゃないらしいけど」

 七歳から一緒に剣術を始めた二人だが十年が経つ間に方向性ははっきり分かれた。あくまでも武道として一対一で戦うことを前提とした葎花に対して夏芽が選んだのは儀式としての剣術、一言で言えば剣舞。

 だから表現は当然、試合ではなく発表会とか披露会とかそんな感じになる。

「いいよねぇ。剣舞も。かっこいいし綺麗だし。私も観に行こうかなぁ」

「……葎花、なんか視線感じない?」

「え?」

 夏芽は後ろを振り返り、辺りを警戒する。葎花も、たしかに感じる。なんだか物凄く禍々しい。それでいて決して陰湿ではない、変な形容だけど、純粋な悪意。

 その時、唐突に雨が降ってきた。いわゆる狐の嫁入り。天気予報でも降るなんて言ってなかったのに。

「こんにちは」

 傘を持ってない、どうしようと思っていた二人に突然話しかけてきたのは自分たちより三つや四つは確実に歳下と思われる少年だった。

「はい?」

 タイミングがタイミングなだけに不審に感じざるを得なかったが、この少年自体にはなにも怪しい点はなかった。それなのに、なぜだかわからないが葎花は鞄の中に入っている凛刀の存在を意識していた。使わなければならない事態が脳裏に浮かんでいた。

 まだまだ未熟者とはいえ、それは剣士としての本能だったんだと思う。

「この辺りで一番、街中が見渡せる場所はどこかな?」

 葎花は夏芽と目を見合わせる。ただ道(もとい場所)を尋ねているだけ?感じていた視線の主はこの子ではない?

「えぇと、それだったら自然公園の展望台かな、夏芽ちゃん」

「そうだね。えっと、ここから真っ直ぐ行くと教会があるんでそこを右に曲がって、あぁ、でもけっこう遠いんでむしろ駅の方まで戻ってバス使ったほうがいいかも」

「ふうん。ありがとう。お礼にいいもの見せてあげる」

「え?」

 刹那、少年の背中からドス黒い影が吹き出てきた。この感じ、さっきから感じてる負の感情の塊のようなただならぬ気配。

「僕の友達のシューイっていうんだ。まだ子どもだけど、強いよ」

 黒い影は徐々に動物の形を帯びてくる。よくて狼、最悪ならケルベロスと言っても過言ではないほど恐ろしい魔物となって、今にも飛びかかってきそうだ。

「葎花、なんかこいつやばい」

 手を掴まれた葎花は夏芽の顔を見てギョッとする。先ほどまでとは比較にならないくらい、滝のような汗をかいている。

「逃げるよ!」

 なんなの。一体なんなの。

 葎花はわけもわからぬまま走る。

「あいつの左目、見た? あいつ六煉桜だよ!」

「ひぇっ? なんでわかるの?」

「バカ葎花、現社の授業で習ったでしょ! 黒目が消えて真っ白になって気を解放するとピンクに染まる。しばらくするともとに戻るんだけど、絶対に三秒以上睨まれたらダメだって!」

 呼吸を乱しつつも夏芽は説明する。剣術の鍛錬のためでもこれほど全力で走ることはないってくらい、二人は必死で逃げている。

 深く考えての選択ではなかったが、二人は結局、学校に駆け込んだ。まだ朝も早い。校庭には誰もいなかった。職員室、目指すべきは職員室だと、二人は確認するまでもなくアイコンタクトだけで頷き合った。

 校舎に入るとそこで初めて後ろを確認する。あの少年は追いかけてきてはいない。少なくとも見える範囲まで追いつかれてはいない。

 二人はそこで一つ深呼吸してからとりあえず靴を履き替える。本当に怖かった。だが、どうやら緊急の事態は去ったようだ。

「さっきの子、いったいなんなの? 六煉の奴等だって本当? なにが目的なのよ」

「私だってわかんないよ。でも葎花だってニュース見たでしょ。ミカエルとかいう奴が殺られたって。あいつら、なにか今までとは明らかに違うことを考えてるよ」

「この異常気象と関係あるの?」

「だから私にもわかんないよ。とにかく職員室に行こう。警察にも言わないと」

 なんだか大変なことに巻き込まれてしまっている。葎花はそう感じた。

「お父さんからいろいろ聞いてはいるけど、六煉桜ってあんなに子供もいるの? だとしたら怖すぎるよ」

「大人でも子供でも怖いよ。わかってる? あいつら言ってみりゃ殺し屋だよ。そんな奴等に私たち、目ぇつけられたかもしれないんだよ」

「道聞かれただけ、だよ。たぶん」

 そんな会話を交わしているうちに職員室についた。剣術部顧問の紫門先生がいたのが幸いだった。一番信頼できる。

 まだ気持ちが落ち着いていない葎花に代わって夏芽が今、自分たちに起きたことを説明した。紫門先生は半信半疑な感じだった。二人のことを疑っているわけではなく、二人の考えたことが現実的でないと思うという意味でだ。

「六煉桜、あいつらがどれだけ極悪人揃いかわかってるのか? そんな奴等が凛府みたいな平和の代名詞みたいなとこに現れると思うか?」

「思わないです。でも時々、全く理解できないようなこともやってきた奴等ですよ」

 父親である相楽から何度も聞かされてきた。二十年前の妖魔恐慌の時、六煉桜はまだ存在していなかった。いまだ未確認の部分も多い組織だが、頭である晃という男はあの時、ちょうどそう、あの万月と同じくらいの年代だった。

 たしかに味方だったんだ。あの頃は。万月と並び称される剣豪として悪と戦った。

 恐慌の終焉から数年、万月と晃、奇しくも対照的な意味合いの名前を持つ二人の英雄は、互いに全く違う道を選んだ。

「警察には俺から電話しておくよ。一応な。でもな、あまり気にし過ぎるなよ。特に夏芽、お前は気持ちの乱れがモロに剣に出るからな。発表会はもちろん年明けからは練習はもっと厳しくなるからな。それは葎花、お前もだぞ」

「はい」

 紫門先生はいい先生だ。二人のことを本当に愛弟子と思ってくれてる。でもそれだけに、他の部員があまりにも怠け切ってることにイラ立っていて八つ当たりのように二人に厳しくなり過ぎる時がある。

 いくら剣術家としても指導者としても一流であるとはいえ先生も人の子である以上、仕方ないことだとは思う。それでもまだ十七歳の二人には辛過ぎる時もある。

「失礼します」とだけ言って二人は職員室から退室した。まだホームルームが始まるまでにはかなり時間があったが、すぐに気持ちを切り替えて朝練に向かうのは不可能だった。

 ガラッ!

 これからどうしようと話していた二人は乱暴に開かれるドアの音に驚いた。視線を上げると身長百八十五以上の紫門先生が怖い顔をして二人を見ていた。

「葎花、今すぐ病院に行け。禾南の総合病院だ。そうだな、俺も一緒に行ったほうがいいな」

「あの、なにかあったんですか?」

 葎花はなぜだか恐ろしくて紫門先生の目を見られなかった。居たたまれなくなって夏芽のほうを見たが、こちらも同じ気持ちで二人は見つめ合うことになった。

「街に妖怪が出始めたらしい。特に禾南のほうに一匹、群を抜いて手強い奴が。相楽さんが退治したらしいが、軽傷とは言えない状態らしい」


   6


「お父さん!」

 廊下は走らないでと三人の看護師から注意されながら駆け込んだ病室で今度は「静かに!」と注意された。

「お父さん」

 言われた通り今度は静かに言ったがあまり意味はなかった。久しぶりに会う相楽は冷えた目をして窓の外を見ていた。各地で少なくともこの世のものではないと人目でわかる生物が確認され始めたという禾南の街並みを。

「孤兎市め。ガキだと思ってたのに随分と力をつけやがった。正確に言えば舞雪が力を増幅させているんだろうが」

「コトイチ? マユキ? ねぇ、お父さん、なにがあったのさ。説明してよ」

 相楽はベッドから上半身を起こした。「イテっ!」と言うので葎花は駆け寄ったが手で制した。大丈夫だ、と。

「まだ内密の情報だがもう二、三日もすれば隠せなくなる。いや、隠しておくわけにはいかなくなる。恐慌がまた始まる」

「恐慌?」

 もちろん、知らないわけじゃない。でも、現実の問題としてピンとこない。二十年も前に終わったはずでしょう?

「問題なのは妖怪たちの様子がおかしい。何者かが明らかに意図して操っている。と、思ってたら案の定これだ」

 相楽はA4程度の大きさで、三つ折りされた跡のある紙切れを見せてきた。

 六煉桜からの、宣戦布告と言っていい内容だった。妖怪たちの操縦桿は我々が握らせていただいた。これから全人類に地獄を見せてやる、と言った内容だった。要約すれば。実際に全文を一字一句熟読することは葎花には無理だった。あまりにも辛辣な言葉の羅列で、心臓を引きちぎられそうなほどの悪意と狂気に満ちた文面だったから。

「ほとんどの妖怪はまだなにもしてない。紫門先生から聞いたろ? 明らかに一番強い奴だけが動いた。それが不自然なんだよ。孤兎市が操っている」

 黄の桜・妖魔使いの孤兎市。

 相楽はその男の容姿や特徴を説明した。鈍い葎花でもイヤでもピンとくる。

「そいつ、私、会ったよ。夏芽ちゃんの話ともしっくりくる。間違いないよ」

「会った? どこでだ?」

葎花はここでようやく自分がバカみたいに突っ立ってることに気づいた。近くにあった椅子を引いてきて腰掛ける。そして今朝からの自分たちの身に起きたことを説明する。

「あいつら、マジでキレてるぞ。その一番強い妖怪が誰を襲ったと思う? 総理大臣だ」

 葎花はギョッとした。

「今までもそこそこの大物は狙ってたよ。でも妖怪が現れた途端にいきなり国のトップの首、穫りにきやがった。この世界を腐らしてる奴等に対してマジで容赦しねぇつもりだ」

「腐らしてるって……」

 葎花が口を噤んでしまったところで病室のドアがノックされた。相良が「どうぞ」と言うのとほぼ同時にドアが開けられて、葎花も何度か面識のある人物が現れた。

「時春さん、見事にやられちまいましたよ」

「いや、それでも思ってたよりは軽傷だ。首相官邸を襲った妖怪の死体の解剖結果が出た。どうやら二十年前にも多発していた狼型の中等妖怪だ。学者たちは白尾って名付けてるらしいが、正直、名前なんてどうでもいい」

 とにかく獰猛さが最大の特徴。実際、今回も大量に動員されたガードマンを次々に蹴散らしながらド派手に大暴れしてくれた。

 時の総理大臣、残馬康生。こいつも中々の悪人物だ。

「残馬総理もたしかに六煉が大っ嫌いなタイプだよな。国民のご機嫌取りばっかして支持率は上がってるけど、実際には私腹肥やすことしか考えてねぇ」

「完全週休三日制、これが史上最低の悪政だと自分も思ってます。無計画に一律に。一体あいつはこの国のなにを知ってるんでしょう」

「皆さん、もっとのんびり生きましょうだと? 世の中の歯車が全部ぶっ壊れるぞ。乱心か? あいつは」

 相楽も時春もかなりイラ立ってる。特に相楽のほうは普段はいたって温厚なお父さんだから葎花にとっては、怖い。

「あのさ、お父さん。時春さんも。さっきからどっちの味方なの? 残馬さんは被害者でしょ? あの人だって大怪我したんでしょ?」

「葎花、大人の話だ。聞きたくなければもう帰りなさい。お父さんは大丈夫だから」

 相楽はともかく、時春は葎花をまだお子様だと思ってる。事実、いくら剣術に長けているとはいえ、これから始まるであろう戦いに於いては、市井の人にすぎない。

「帰らないよ。私だって、なにがなんだかわからないまま死ぬなんて絶対にイヤだ」

「死ぬなんて言うな。まだ悲観的になるには早い」

「葎花ちゃん、悪いけど俺たちはこのまま話を続けさせてもらうよ。俺はな、六煉の奴等の考え方にはむしろ賛成なんだ。もちろんやり方には反対だから絶対に止めてみせるけどな」

「葎花、やっぱりお前もう帰れ」

 子供に聞かせたくない話だと相楽は判断した。だが、久しぶりに会えた大好きな父にはっきり「邪魔」と言われたようで、葎花は泣きたくなった。

「無理をし過ぎるのはダメって風潮が一周回って人は一切努力しなくなった。そんな状態でどうやって夢や目標が持てる。結局、どいつもこいつもスマホに取り憑かれたまま家と職場を往復するだけ。休みの日は一日中、動画を見てそのコメント欄だけが居場所だ。七十億総引きこもり時代、そう遠くないうちにやってくるかもしれねぇぜ」

「ちょっと待って下さいよ! 考え方が極端過ぎます! 私の友達はそんな人たちばっかじゃない! みんな明るくげん、き、で優し……」

 思い浮かんだのは夏芽だけだった。「みんな」なんて言いながら、葎花が大好きなのは、ちょっとクールで取っつきにくいけど、いつも自分を支えてくれる大人びた、夏芽の笑顔だけだった。

「葎花、たしかにまだ絶望するには早い。でもこの世界はもう腐り果ててるって考える人間はたくさんいるのが事実だ」

「裏返せば、そんなんじゃダメだって、変えようとしてる人だってたくさんいるってことでしょ」

「この世界はもう全部みかんの箱なんだよ。腐敗を止めるのは簡単なことじゃない」

 限界だった。葎花は立ち上がって、まだ言いたいことはあったけど、なにも言えずに逃げ出した。

「二人とも、どうかしてるよ。バカ」

 病室を出てすぐの階段の踊り場にうずくまり葎花はひとしきり泣いた。

 家に帰った時には既に国中、つまりは禾南とその周辺の市町村が大混乱だとテレビのニュースが伝えていた。

「本当になるようになっちゃったよ。ヤバいね、これ」

 真はなんでそんなに落ち着いていられるの、と葎花はまた悲しくなってきた。

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