心に触れた日 2
何故か、フィリエルには自分のことを話したくなった。
これまで向き合おうとしてこなかった妻は、リオンの話など興味はないかもしれない。
リオンも自分自身の話をするのは苦手だし、過去を語るのはまるで心を丸裸にされるようでちょっと怖い。
だが、彼女には聞いてほしいと思った。
彼女はフィリエルだが、同時に今は猫だ。
王妃だけど、王妃ではなく、彼女には自由がある。
フィリエルと離れたくなかったけれど、五年の過去を思い出す限り、リオンには彼女を縛り付ける権利はないように思えた。
だから――、リオンのことを知って、その上で彼女に留まるのか去るのかを判断してほしかった。
本音はもちろん、このままずっとそばにいてほしい。
リオンという人間を知って、これ以上付き合っていられないと思われるかもしれないけれど、一縷の望みに縋りたかった。
同情でも憐みでもいい。
なんでもいいから、彼女をここにつなぎとめたかったのだ。
自分の話をするのは苦しいけれど、何も言わずに去られるよりは、すべてをさらけ出してしまった方がよほどいい。
「まず謝らせてくれ。この五年、俺は全然いい夫ではなかった。というより、夫婦以前の問題だっただろう。嫁いで来た君を放置し続けたこと、それからその……、国の将来のことを気にしてくれた君に対して、君との子はいらないなどと言い放ったことを、謝罪したい。すまなかった」
フィリエルは紫色の瞳をじっとこちらに向けて、「にゃあ」と鳴いた。
フィリエルの言葉はリオンにはわからないので、彼女が謝罪を受け入れてくれたのかそうでないのかはわからない。
五年間を振り返ると、受け入れてくれない可能性の方が高いだろうか。
彼女の五年を無駄にしたリオンを、「すまなかった」の一言で許せはしないだろう。
でも、フィリエルはリオンの話に耳を傾けている。傾けてくれている。
彼女からの許しが得られるのかどうかは、今は考えない。許すも許さないも、彼女の自由意思だ。今はただ、話しが聞いてもらえれば、それでいい。
「フィリエル、俺は……俺はどうも、人の心が信用できないんだ」
長年仕えてくれている側近や臣下たちの行動や結果を見て、国王として、この男は信用に足る人間かどうかの判断はできる。だが、信じられるのは自分が分析し判断したその人物に対する情報のみで、その人物そのものは、どうしても信用することができない。
リオンが側近や臣下を信用するとき、それは「王」を裏切らないという一点のみだ。それは「リオン」ではない。同じようで、リオンにとってそれは大きく違う点だった。彼らはリオンを裏切らないとは、限らない。
側近たちは「王」と「リオン」は同じだというかもしれない。でもリオンはどうしても無理だった。「王」であるときは彼らの行動をある程度信頼できる。でも「リオン」の心は、彼らを信用していない。
ある意味それは、大きな矛盾かもしれない。
しかしリオンの中では、それは矛盾ではなく存在している感情だった。
逆を言えば「王」として割り切らなければ、人とまともに関わることができない。
リオンの心は、すべてを疑ってしまうから。
「先王……俺の父は、君主としては優れていたかもしれないが、人間としては最低な男だった。自分本位で、妻や息子にはこれっぽっちも興味のない、そんな男だった。父は母を妃に迎えたが、俺ができればすぐに興味を失くした。いや、もともと興味はなかったのかもしれない。ただ、とりあえず世継ぎを作っておこうと、正妃以外の女との間に先に子ができると、のちのち面倒くさいから、世継ぎができるまではおとなしくしておこうと、その程度だった気もする。父はそんな人だ」
リオンが子供のころは、それでも母は優しかった気がする。
しかし、いつも癇癪を起し、そうでなければ泣いていた。
メイドや侍女に当たり散らすのは日常茶飯事で、リオンを痛いくらいに抱きしめて、「わたくしにはあなただけ」と呪いのような言葉を吐き続けた。
けれどもリオンが成長し、日に日にその顔が父親そっくりになっていくと、母の態度は変わっていった。
リオンをひどく憎むようになり、夫のかわりにリオンに当たり散らした。
その頃父は、母の元にはまったくと言っていいほど通わなくなっていた。山のような愛人を抱えていたからだ。
リオンには目を血走らせてリオンに罵声を浴びせ、殴る母を、まるで悪鬼のように感じた。同時に、母親に憎悪を向けられてとても傷ついた。さらに母を悪鬼に変えたのは自分のこの顔なのだと、自分の容姿をひどく憎んだ。
「そしてある日、見たくもないものを見てしまった」
リオンはぐっと眉を寄せて、大きく息を吐き出す。
「フィリエル、父にはたくさんの愛人がいたが、父の子が俺と、それからエミルだけなのは知っているだろう?」
「にゃー」
フィリエルが頷く。
手を伸ばせば、フィリエルがとん、とテーブルを蹴って膝の上に乗ってくれた。
彼女の柔らかい毛並みを撫でながら、心を落ち着かせてリオンは続ける。
「母は、たくさんいた父の愛人のうち、妊娠の兆候が見られた女性に、毒を盛らせていたんだ。子が流れるだけならまだいい。時にはその女性も命を落とした。父も母の行動に気づいていただろう。けれども父は放置した。きっとどうでもよかったんだ。愛人が死のうと、その腹にいた子が流れようと、父は関心を示さなかった。たくさんの愛人を抱えていても、父はその誰にも心を傾けてはいなかったのだろう。そして世継ぎはいるから、子を生ませる必要もなかった。むしろ王妃が父の愛人を殺害したと騒ぎになる方が、父にとっては面倒くさかったんだ」
父も母も、どこまでも自分本位な人間だった。
そんな父や母を見ていると、自分の心がどんどん壊れていくような気がして、リオンは必死に目を背けた。
そんなある日のことだった。
確か、リオンが十三歳のころだったと思う。
「父は、跡継ぎに俺がいるから子を作る必要性を感じていなかったと言っただろう? でもエミルが生まれた。何故だと思う?」
「……みゃぁ?」
フィリエルが首をひねる。紫の瞳が不安そうに揺れているように見えた。気のせいだろうか。
「十三のとき、俺は死にかけたんだ。母に毒を盛られた」
フィリエルが目を見開き、前足をリオンの手の上にそっと重ねた。その様子は「大丈夫?」と言っているようで、リオンはフィリエルを抱き上げて、ぎゅっと抱きしめる。
「あの頃になると、俺は本当に父に瓜二つな顔をしていて……、母は、そんな俺の顔を見るのが限界だったのだろう。毒を盛られて生死の境をさまよった。母が毒を持ったのは確信していた。母にもらった菓子を口にして倒れたからね。意識を失う直前に見た母は、笑っていた」
あの顔は、一生忘れないと思う。
嫣然と、恍惚と。そんな言葉が似合うほど、うっとりとした幸せそうな笑顔だった。
ああ、母はもう壊れているのだと、その顔を見てリオンは思った。
三日生死の境をさまよい、そしてかろうじて一命をとりとめたものの、しばらくはベッドの上から起き上がることもできなかった。
「父は俺のその様子を見て、俺に何かあった時のかわりを作らなければならないと思ったらしい。そしてエミルが生まれた。俺はエミルが生まれるころには体調も戻って元気になっていたけれど、あのまま母から死ねばよかったのにと言われたよ」
父は母がリオンに毒を持ったことに気が付いていただろう。
それでも母を罰するのではなく、次の子を生ませることを選んだ。
たぶんそれも、面倒くさかったからだろう。
愛人に産ませようとしてもどうせ母が毒殺するのなら、本人に産ませればいい。
父の考えはリオンには到底理解できないが、なんとなく、あの父ならそういう選択をするだろうという妙な確信があった。あの男もまた、壊れていたのだろう。
幸か不幸か、エミルが生まれたことで、母がすこし「まとも」になったことだろうか。
エミルは母に似ていて、父の面影はほとんどなかった。
それが母の心に多少なりとも平穏をもたらし、当面の間は、エミルを育てることに夢中になっていた。
回復したリオンは、父によって母から遠ざけられた。
母がまたリオンに毒を盛れば「面倒くさい」からだろう。
母と離れ、リオンにもまた平穏が訪れたが、けれども、心にぽっかりと開いた大きな穴は塞がることはなかった。
自分の心を守るために殻にこもり、誰にも心を開かなくなった。
開けなくなったという方が正しいか。
笑顔を向けてくる人間も、きっと心の中では違うことを思っているのだろうと考えるようになった。
そして、母のようにリオンが邪魔になったら殺そうとしてくるのだろう。
心を許すな。心を開くな。
自身に言い聞かせているうちに、その言葉は太い鎖となってリオンの心を縛った。
信用できるのは自分だけ。
誰の心も、信じてはならない。
「十九のときに君との縁談が持ち上がって、俺が二十歳の時に君が嫁いで来た。世継ぎの問題もあるし、最初は、なんとか表面上だけでも夫婦であれるようにと思った。でも……」
リオンは抱きしめたフィリエルの背中に顔をうずめる。
これ以上は、話さない方がいいのだろうか。
リオンは迷ったが、「リリ」としてずっとそばにいてくれたフィリエルを思い出して決心した。
ここにも何か食い違いがある気がしたからだ。
「宰相から、君には国に想い人がいるのだと聞かされた。国のために嫁ぐことになり、すごく傷ついて、俺を憎んでいると。寝首を書かれないように気をつけろと宰相に言われて……、君と夫婦になるのが怖くなった」
無理に夫婦になったら、フィリエルはリオンを憎悪するだろうか。
母に向けられた憎悪を思い出して、リオンはフィリエルには関わるべきではないと判断した。
国に想い人がいるのならば、リオンと夫婦になることはフィリエルにとっても苦痛だろう。
フィリエルが可哀想だ。
そう言い訳して、フィリエルから顔をそむけた。
「にゃあ‼」
腕の中で、フィリエルが大きな声を出した。
びっくりして視線を向けると、ぶんぶんと首を横に振っている。
それは必死に「違う‼」と叫んでいるように見えた。
「……違うの?」
「にゃあ‼」
こくこくと、フィリエルは今度は首を縦に振る。
「…………そっか。違うのか…………」
リオンは細く息を吐き出して、それから小さく笑った。胸の中に広がるこの安堵感は、いったいなんだろうか。フィリエルがリオンを拒絶していたわけではないと、憎んでいたわけではないとわかって、自分でも信じられないくらいに安心した。
「宰相に踊らされていたのかな。……人を信じないくせに、宰相の言葉を鵜呑みにするとかどうかしていたな」
「にゃあ!」
そうだそうだと、言いたそうな声だった。
「フィリエルは宰相が嫌いみたいだね」
「にゃあ!」
「うん、俺も嫌い」
宰相が、自分の娘をリオンにあてがおうとしていることには、ずっと前から気づいていた。
フィリエルとの縁談が決まった時に悔しそうだったし、父が死んだ後から、これ幸いとばかりにリオンに成人したての娘を打診してくるようになった。
フィリエルに子ができないのだから、側妃を娶るべきだ。
もっともらしいことを言ってブリエットを勧めてきたボルデ公爵の顔を思い出すと苛立ちがこみ上げる。
フィリエルが城から消えてからは、後妻にとまで言ってきた。
リオンがフィリエルのもとに通わないように仕向けておいて、図々しいにもほどがある。
「まあいいさ、もうすぐボルデ公爵は処罰される。たぶん今回の母の件に、ボルデ公爵が関わっているだろうからね」
「にゃ⁉」
「俺がブリエット・ボルデを拒否したから、方向性を変えたんだろう。俺を始末してエミルを王にし、その妃にブリエットを据えるつもりだったのではないかと思う。エミルはまだ十歳なんだが、まあ、関係ないのかもね」
宰相が母の暮らす離宮に足を運んでいるという情報はすでに掴んでいたのだ。
何かあるかもしれないとは、思っていた。
ただ、城の中にどれだけボルデ公爵とつながっているものがいるかわからず、表立って対策が取れなかったのだ。
(さすがに今日仕掛けてくるとは思わなかったけどね)
誰かを陥れるには入念は準備期間が必要だろう。そう思っていたのだが、母か宰相か、その両方かは知らないが、気が逸ったのかもしれない。
(まあ実際、あの時フィリエルがかばってくれなければ、危なかったかもしれないんだが)
リオンに向けて放たれた吹き矢には、毒が仕込んであったはずだ。どの程度の毒かはわからないが、王太后のあの余裕そうな笑みを見るに、それなりのものだったはずである。
リオンさえ始末できれば、王太后という立場ですべてもみ消せると思ったのかもしれない。何ともお粗末だが、宰相がバックについているのだ、不可能な計画ではなかっただろう。
(宰相が、本当に母上の味方だったらの話だが)
あの宰相のことだ、無事にリオンの命を奪えたあとは、リオン殺害の罪をすべて王太后の計画にして、王太后を始末するくらいはしてもおかしくない。
エミルを傀儡にしようにも、王太后が口出しすればボルデ公爵の思い通りにはいかないだろう。
邪魔者は消されてもおかしくない。
(そういえば、フィリエルが人間に戻った時の、あの光は何だったんだろうか?)
あの光が、飛んでくる矢を阻んだように見えた。
フィリエルが猫になっていることといい、彼女に何があったのだろうか。
「俺の話は以上だよ。……どう? 幻滅した?」
いや、幻滅という言葉はおかしいかもしれない。
フィリエルはもとより、最低な夫に何の感情も抱いていないだろう。幻滅するものすらないのだと思うと、ずんと心が重くなった。
フィリエルはじーっとリオンを見上げた。
それから、放して、というようにリオンの腕をぱしぱしと叩く。
(……許しては、くれないか)
絶望しながら、リオンがそっとフィリエルを床の上に下ろすと、彼女は「みゃー」と鳴いて、リオンのズボンのすそを引っ張った。
「にゃー! にゃあああ‼」
「……ついて来いって、言ってるの?」
「にゃあ!」
フィリエルがこくりと頷いて歩き出す。
数歩歩いて振り返るから、ついて来いと言っているのは間違いないようだ。
かりかりと扉をひっかかれたので開けてやると、てってってっと廊下に出たフィリエルが、やはり数メートル進んだところで振り返る。
「にゃあ!」
早く、と言われた気がした。
(どこに行くんだろう?)
リオンは首をひねりながらも、彼女がリオンの側を去ろうとしたのではないとわかってホッとする。
走っては振り返るを繰り返すフィリエルのあとを、リオンは慌てて追いかけた。
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