猫、逃亡を試みる 4
そしてそのチャンスは、唐突にめぐって来た。
「陛下、宰相閣下から急ぎの確認が――」
休憩のためのティーセットを運んで来たメイドがワゴンを押して立ち去ろうとしたとき、一人の文官が書類の束を抱えて入室してきた。
文官はよほど急いでいたのだろう、メイドが押していたワゴンに足をぶつけて、その拍子に書類を数枚落としてしまう。
リオンも落ちた書類に気が取られて、「大丈夫か?」と言って立ち上がった。
目の前にあった書類の一枚を拾おうとリオンが上体をかがめた瞬間、フィリエルは駆けだした。
「あ!」
リオンが声を上げたが、全速力で開けっ放されている扉から飛び出ると、そのまま廊下をひたすら走り抜ける。
「リリ、待ちなさい! 捕まえろ‼」
リオンの叫び声が背後から響いて、はじかれたように扉の外にいた兵士たちがフィリエルを追って走り出した。
「待て!」
「陛下の猫が逃げたぞ‼」
「何が何でも捕まえろ‼」
兵士の声を訊いて、近くにいたメイドや兵士たち全員がフィリエルを追って走り出す。
「にゃあああああああ⁉」
ばたばたと追いかけてくる複数の足音に、フィリエルは目を剥いた。
(ちょっと待ってなんでみんな本気で追いかけてくるの――⁉)
特に、腰に剣をぶら下げた兵士たちに追いかけられるとものすごく怖い。
よくわからないが、捕まったら最後、腰の剣でぶった切られそうな恐怖を感じる。
「みゃあああああああ‼」
(怖い怖い怖い怖い怖い――‼)
猫になると、周りのものすべてが人間のときの何倍も大きく見える。
そして、よくわからないが追いかけられると、心臓が縮みあがりそうな恐怖を覚えるのだ。
おそらくこれは本能と呼ばれるものなのかもしれない。
とにかく逃げなければと、フィリエルは縦横無尽に廊下を駆け回った。
右に行って左に行って、直進すると見せかけてUターンして、階段を駆け上がり駆け下りて、もう、自分がどこを走り回っているのかもわからない。
ただ、背後から追いかけてきていた足音がしなくなったので、うまく撒けたのだろう。
とりあえず廊下の角に置かれていた大きな花瓶の陰にもぐりこんで、周囲の様子をうかがう。
まずは今自分がどこにいるのかを把握しなければ外には出られない。
(このあたり、来たことなさそう……)
王妃だったころ、フィリエルの行動範囲は自室は庭、それから城の裏手の塔の周りのみだった。城の中を歩き回ると嫌な顔をされるからだ。
メイドも兵士も、王にないがしろにされている王妃にはいい印象を持っておらず、そんな王妃が歩き回れば、何かを企んでいるのではないかと勘繰るのである。
特にリオンや文官たちが執務をしているあたりに出入りしようものなら見咎められるので、自然とフィリエルは城の中を歩き回らなくなった。
だから五年も暮らしていたのに、城のすべてを把握しているわけではないのだ。
式典や国外からの来賓など、王妃の仕事が求められる時以外は、ひっそりと息をひそめるようにして生きてきた。
数人の侍女はいたが、フィリエルが用事を頼まなければ常に控室にいたし、むしろ呼びつけないでほしいという雰囲気を出されていたから、よほどのことがない限り何かを頼むことはなかった。
部屋の中でぽつんと一人、日が上り暮れるのを待っているだけの生活。
まるで人形だ。
王妃が消えて四日。誰も心配しないと思っていたが当然だった。だってフィリエルは、この城にいないも同然だったのだから。
「……王妃が」
はあ、と息を吐き出したとき、どこかで自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、フィリエルはピンと耳を立てた。
猫になって聴力も格段によくなっているから、小さな話し声でもよく聞こえる。
(わたしの話?)
誰にも心配してもらえないと落ち込んでいたからだろうか。誰かが自分の話をしていると思うと落ち着かなくなって、フィリエルはそーっと花瓶の隙間から抜け出すと、声がした方へ駆けていく。
どうやら声は近くの部屋の中からしているようだった。
扉の前には兵士が立っていたので、誰か要人の部屋だろう。
兵士に気づかれるのは困るので、廊下の陰に隠れると、耳をそば立てた。猫の聴力ならここからでも聞こえるからだ。
「四日も戻って来ないんだ。王妃はもう帰ってこないだろう。それどころかどこかで死んでいるかもしれないな」
聞こえてきた嘲笑うような男の声に、フィリエルはすくみ上りそうになった。
どこの誰かは知らないが、どうでもいいと思われているどころか、笑いながら「死んでいるかもしれないな」などと言われて、フィリエルは目の前が真っ暗になりそうになる。
フィリエルが死んでも、悲しまれないどころか、笑われすらするのだ。
どれだけ自分は、この城の――この国の人間に、歓迎されていなかったのだろう。
茫然として、何も考えられなくなる。
「消えてくれて助かりましたね。こちらが消す手間が省けました」
もう一人、部屋の中には女もいたらしい。
フィリエルはその場に座り込んで、視線を下に落とした。
(そっか……、そっ、か……)
フィリエルは、死んで喜ばれる存在だったのだ。
国のために嫁いで、そして嫁いだ先でないがしろにされて、死んだと言われて喜ばれる。
(わたしの人生って、何だったのかしら……)
もう、人としての人生には終止符を打った。
フィリエルはもう猫だ。
しかし、だからもう関係ないのだと、完全に切り離して考えられない。
だってまだ、人を辞めて四日しか経っていないから。
(……逃げなきゃ)
きっと、この城にいたら、また同じようなことを聞く日が来るだろう。
せっかく人をやめて猫になったのに、彼らの言葉に、フィリエルが人間だったころの心の傷をえぐられる。
(逃げな、きゃ……)
いっそ、猫になったときに、人であった時の記憶もすべて失くしていれば、幸せだったろうか。
(どうしてヴェリアに、記憶もすべて消してって願わなかったのかしら……)
猫だからだろうか。涙は出ない。
でもその代わりに、見えない心の傷から血が流れているような、そんな気がする。
逃げなければいけないとわかっているのに、ショックが大きすぎて動けない。
全身が急速に冷えていくようで、フィリエルはその場にうずくまって目を閉じる。
「リリ‼」
どのくらいそうしていただろうか。
背後から焦ったような声がして、フィリエルはうっすらと目を開けた。
温かい手に抱き上げられて、ぎゅっと抱きしめられる。
「まったくお前は、どうしてこうお転婆なんだ!」
見上げると、安堵した顔のリオンがいた。
(……わたしが消えても、何とも思わなかったくせに)
それなのに、猫が少しいなくなっただけで、それほどまでに焦るのか。
何もかもが滑稽に思えて、フィリエルは再び目を閉じる。
リオンが何度も「リリ」という飼い猫の名を呼んだが、フィリエルは目を開けなかった。
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