猫になった王妃と冷淡だった夫

人間をやめた王妃 1

 初恋に胸を躍らせてコルティア国に嫁いだフィリエルは、結婚式当日の夜、一人で泣きながら朝を迎えた。


 結婚式のときに、頬を染めるフィリエルの横で、淡々と誓いを口にした夫は結局、朝まで夫婦の寝室には訪れなかった。


 あの時に心に入ったヒビは、五年の歳月で大きくなり続け、もう、フィリエルの心は壊れる寸前まで来ていた。


 けれども、傷だらけの壊れる寸前のフィリエルの心に、夫リオンは、淡々ととどめを刺したのである。


 ――結婚式の誓いを口にしたのと、同じトーンで。同じ声で。



     ☆



「あなたとの間の子はいりません。ですので、この先俺があなたを抱くことはないでしょう。生活は保障しますから、どうぞご自由におすごしください。ただ、愛人を抱えるのは認めますが、子は作らないようにお願いします。俺の子だと思われると困るので」


 冷ややかな緑色の瞳が、フィリエルを見下ろしている。


 淡い茶色の髪に、氷のように冷たいエメラルド色の瞳。

 すらりと高い身長に、鍛えられて引き締まった体に長い手足。

 名だたる彫刻家が粋を結集して作り上げた完璧な彫像に勝るとも劣らない美貌の夫は、結婚当初から、本当の彫刻のように表情をあまり動かさない。

 何の感情もない、あまりにも淡々とした声が、まるで刃のようだと思った。


 リオンは、別にフィリエルを憎んでいるわけではないのだろう。

 ただ、関心がないのだ。

 お前のことはどうでもいいけど、俺に迷惑だけはかけるなと、そう言われたのだとわかった。


「で……も……」


 フィリエルは震える喉を叱咤して、声を絞り出す。


「周囲からは、世継ぎを、と……」

「世継ぎは弟か、弟の子にするので問題ありません」


 リオンには今年十歳になる年の離れたエミルという名の弟がいる。コルティア国の第二王子だ。

 その弟は現在、王太后とともに城の敷地内にある離宮で暮らしているが、フィリエルも何度か会ったことがあった。くるくると表情の変わる、とても愛らしい少年だ。

 エミルを世継ぎにするか、その子を世継ぎにするなら……、なぜ、フィリエルは嫁ぐ必要があったのだろうかと、頭の隅で考えた。

 言葉も紡げないフィリエルの前で、リオンはくるりと踵を返した。


「重要な話があると言われたので来ましたが、さして重要でもありませんでしたね。忙しいので、本当に重要な話があるとき以外は呼びつけないでくれますか?」


 リオンの部屋や執務室は訪れるなと言われていたから、フィリエルが彼に会おうと思えば、彼の方から出向いてもらうしかない。

 だからお願いしてきてもらったのに、その言い方では、まるで国王を呼びつける傲慢な女のように聞こえた。


(わかっていたけど……)


 この人は、本当にフィリエルがどうでもいいのだと再認識させられた。

 一人で眠る夜よりも、一人で食べる食事よりも、今の言葉が一番痛い。


(わたしは死ぬまで、一度も顧みられることなく、人形のように暮らすしかないのね……)


 ずきずきと痛む心を抱えて。

 自分の心が壊れていく音を聞きながら。

 リオンは、フィリエルの初恋を、心を、嘲笑うかのように踏みにじる。


 いつか。

 もしかしたら。

 きっと――


 そんな小さな小さな期待は、抱くだけ無駄なのだと思い知らされた。

 フィリエルはゆっくりと天井を仰ぐ。


(……泣くものですか)


 もう、傷つけられることには慣れた。

 だから泣かない。

 泣くだけみじめになるから。

 侍女の、メイドの、使用人たちの憐憫も、嘲笑も、もうたくさん。

 人払いをして私室に一人きりになったフィリエルは、ライティングデスクに向かって、便箋を一枚取り出した。


 ――さようなら。


 一言だけそう書き記して、誰に宛てるとも書かずに、紙を裏返してその上にペーパーフェイトを置く。

 いてもいなくても同じなら、いなくなった方がいい。

 ここにいればいるだけ傷つくことがわかっているのならば、壊れかけて砕け散りそうな自分の心を守るために逃げ出したい。

 フィリエルは窓の外に舞っている雪に目を向けて、窓にあたって解ける雪のように消えてしまおうと思った。


 コートを羽織り、部屋の外へ出る。

 部屋の扉を守っていた兵士が、どこに行くのかと訊ねてきたので、散歩に行くと伝えた。

 ついて行くという彼らに首を横に振る。

 リオンとの会話が聞こえていたのだろう、兵士が憐れむような顔を向けて、わかりましたと頷いた。


 国王に顧みられない王妃の扱いは、意外と軽いものだ。

 本来ならば護衛ががっちり守る立場であるにもかかわらず、望めば敷地内であれば一人でふらふらと出かけられる。

 つまりは、フィリエルに万が一があってもさほど問題ではないと考えられているのだろう。

 彼らが仕えるのは王で、王妃ではないのだから仕方があるまい。


(さようなら)


 この城の中に、愛着があるものなんて何一つない。

 城を出たフィリエルは、すべてを拒絶するように背を向けて、魔女が暮らす廃墟の塔へ向かった。




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