夫に顧みられない王妃は、人間をやめることにしました~もふもふ自由なセカンドライフを謳歌するつもりだったのに、何故かペットにされています!~
狭山ひびき
プロローグ
プロローグ
「本当にいいんだね?」
老婆のようなしゃがれた声がする。
何度聞いても違和感があるなと、コルティア国王妃フィリエルは、目の前の美女をまじまじと見つめた。
艶やかな黒髪に黒い瞳の、三十歳前後の外見をした、まるで高級娼婦のような妖艶な雰囲気を漂わせている美女は、魔女である。
城の裏手に建つ、長らく放置され廃墟となっていた塔の中にひっそりと住んでいた、実年齢不詳の魔女だ。
この魔女と知り合ったのはたまたまだった。
一人きりになりたくて、城を抜け出して散歩をしていたときに城の裏手の山で薬草を摘んでいた魔女に出会った。
以来、魔女はフィリエルの良き相談相手であり、愚痴を聞いてくれる唯一の友人になった。
魔女ヴェリアの前には、ぐつぐつと煮え立つ大鍋がある。
廃墟の塔を訪れるたびにヴェリアはこの大鍋で何かを煮ているが、いったい何を作っているのだろうか。
充満する青臭い薬草の匂いに、薬の類であろうと推測するが、それがいったい何の薬なのかは考えたくない。魔女の薬だ。きっと普通の薬ではあるまい。
「いいの。だって、もう人間でいることに疲れたのよ」
「あんたが疲れたのは人間でいることじゃなくて王妃でいることだろう?」
「同じことよ。わたしは人間でいる限り王妃でいなくてはいけないんだもの」
フィリエルは今から五年前の十七歳の時に隣国ロマリエからコルティア国に嫁いだ。
ロマリエ国の王女だったフィリエルは、生まれながらにして政治の道具として利用されることが決定していた立場で、政略結婚した今も自分の意思で王妃をやめることはできない。
自由になるためには「人生」を捨てるしかないのだ。
(もう、顧みられない人生はこりごりよ)
十七歳で嫁いだフィリエルは、夫の即位に伴って二十歳で王妃になった。
立場的には、離宮で暮らしている王太后を除いて、国で最上位の女性だろう。
でも、幸福度はきっと国の中でも最下位に入る。
何故ならフィリエルの夫である国王リオンは、結婚初夜からフィリエルの存在を無視していたからだ。一度もベッドを共にすることなく、会話らしい会話もほとんどした記憶もない。
五年間、ずっと夫に存在ごと否定され、白い結婚を続けてきたフィリエルはもう、限界だった。
夫が無視しているのに、子供ができないと周囲に責められるのも、もううんざり。
王妃の務めは子を産むことで、務めを果たしていないと宰相をはじめ大勢の貴族たちがフィリエルを責め立てるけれど、その言葉はそっくりそのままリオンに向けてほしかった。
母国ロマリエからも、再三、国のためにさっさと子を生めとせっつかれる。
こんなことなら妹の方を嫁がせればよかったと言われて、だったら今からでもそうしてよと、何度叫びそうになったことか。
きゅっと唇をかんだフィリエルに、ヴェリアが憐みの混じった苦笑を向ける。
「あんたも難儀な星のもとに生まれたもんだよ。せっかく、初恋の相手だったのにねえ」
「……今となっては、むしろそうじゃない方が割り切れて幸せだったかもしれないって思うわ」
リオンは、フィリエルの初恋だった。
フィリエルが十二歳の時に、リオンがロマリエ国に外交で訪れていて、そこでほんのわずかな時間を共にすごした。
時間にすれば一時間程度の邂逅だったろう。
けれども、フィリエルがリオンに恋をするには充分な時間だった。
そんな初恋の相手に嫁ぐことが決まって、フィリエルははじめて自分が王女に生まれたことに感謝した。
(でも、蓋を開ければこんな生活なんてね。……喜んだわたしはなんて滑稽だったのかしら)
フィリエル自身もリオンに関心がなければ、きっとこれほど苦しくない。
こんなものだと割り切ることもできただろう。
けれども、最低な夫だと思うのに、リオンを好きな気持ちが捨てられない。
だからこそ、もう、限界なのだ。苦しくて仕方がない。
「一生、元に戻れなくても後悔しないのかい?」
「しないわ。わたしはもう、何もかもを捨てて自由になりたいの」
王妃という立場の自分からすれば、これは非常に無責任な選択だろう。
国を背負って嫁いだのに、責任も使命もすべて捨てて、自分本位に生きたいと言っているのだから。
罪悪感はある。
でも、ヴェリアに言ったように、フィリエルはもう限界だった。
ヴェリアは苦笑して、壁に立てかけていた大きな樫の木の杖を手に取った。
くるんと丸まった先端をフィリエルに向ける。
「覚悟があるなら何も言わないさね。選ばせてあげるよ。あんたは何になりたい?」
フィリエルは束の間考えて、そして笑った。
「そうね。自由気ままな……猫がいいわ!」
――この日、「王妃フィリエル」はこの世界から消えた。
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