開かない扉

四宮 式

本文

 優菜が海外に転校するという話が僕の耳に届いたのは二年の初夏のことだった。


 初夏といってもその年は5月頃から気温がぐんぐん上がり、6月に入ると気温が真夏日になることが当たり前のようになってきた。毎年恒例の熱中症による緊急搬送や死者も前倒しになり、こうなってくるとクラスメイト達もさすがに「今年の地球はどこかネジが外れてしまったんじゃないだろうか」という話をし出す。


 しかも梅雨時ということもあって湿度が加わるからタチが悪い。80%を悠々と超える湿度は人々の体感温度を容赦なく上げる。だからなのか駅から学校に向かう制服の列の中にも濡れたタオルを首に巻いている奴がいたり、小型の扇風機を手に持っていたりする奴もいる。もちろん、気休めにすらもならない。


 特に運動部の連中にとってこの事態は深刻だ。席が隣でそこそこ話が合う田中は野球部に所属しているのだが、この湿度と暑さで練習もままならないという。野球はスライディングやダイビングキャッチといった全身を地面に擦り付けるような場面が多くあるため薄着になることができず、はっきりいって耐えているだけで精一杯でとても新しい技術の習得など考えられないとのことである。


 他の運動部も同じようなものらしく、サッカー部や陸上部、バスケ部の面々はもちろん、文系の吹奏楽部までもが楽器が湿気で良く鳴らないと口々に話していた。日本は良い国かもしれないが、この熱波と湿度に関しては諸外国が本当にうらやましくなる。それにしても今年はそれが特に顕著だ。


 その日も、気温は33度を計測していた。湿度も80%を超えていた。俺はいつものように家を出て、電車に乗り込みスマホのゲームを開いて毎日の任務を消化し、高校の最寄り駅につき炎天下の中を足取り重く高校へと向かう。朝8時20分頃とはいえこのころになるととにかく暑い。


 学校につくとそのまま朝礼だ。何か特別な予定などが入った場合それを共有できるように設定されているのだが、大体の場合は担任が出欠と一日の時間割を確認しただけで終わる。そんなものだ。


 しかし今日は少しだけ違ったらしい。俺が所属する2年C組担任の保科が少しだけ緊張した面持ちで入室すると、教卓の前で何か言いたくないものをいうように絞り出した。


「今日はみんなに知らせがある。」


「中井についてだが、ご家庭の事情により、転校することになった」


 と言った。保科は騒めきを隠せない教室を制すると、淡々と今日の時間割の確認や連絡事項を話すと、足早に教室を去って行ってしまった。


 中井優菜とは中学の頃からの付き合いだ。地元のどこにでもある公立中学校に入った俺たちは、たまたま席が近かったというだけで良く話すようになった。向こうは陸上部でこっちは帰宅部というなんとも対照的な存在ではあったが、不思議と他愛のない日常会話をしていて不快になったり、喧嘩になったりということも少なかった。


 唯一似たようなものがあるとすれば、成績だった。優菜と俺はいつも平均より少し上くらいのテスト結果が常で。お互いに文系だった。テストの結果を見せ合って順位が上のほうがコンビニでジュースを奢る遊びをしていた。


 そんな優菜には、中学二年のクリスマスに告白された。悪い気はしなかったのでそのまま付き合うことにした。優菜はそれからしばらくの間終始ご機嫌で、ことあるごとに電話をかけてきたり手作りのお菓子をくれたりした。


 そして、そのまま中学生活が終わり、高校へ進学した。お互いのために別々の高校になった時は仕方がないと話し合っていたが、成績が同じくらいの場所におり、なおかつ互いに公立高校を受験したこともあって、同じ高校に行くこととなった。


 高校に行った後、俺たちの恋愛は日常になっていった。段々一緒にいるのが当たり前になってくるから、俺たち二人を外から見てもまったく付き合っているようには見えないほど普通の会話しかしなくなる。


 ただ、たまに家に帰ると無性に優菜に電話したくなることが増えてきた。高校は公立とはいえ勉強は大変だったから、ストレスが溜まっていたのかもしれない。夜11時頃になるとただただ寂しくなって優菜に電話をかけた。優菜は快く電話に出てくれた。そこでちょうど流行っていたドラマの話をしたり、部活であった面白い出来事があったという話をしたりした。


 勉強が忙しいのでなかなか日を設けることができなかったが、たまに二人で遊びに行くこともあった。俺たちが住んでいる町は電車にのって20分ほど経つと県庁所在地がある都会に出ることができる。東京の人間からすればそれでも田舎とのことだったが、ベッドタウンに住んでいてまとまった買い物をしようと思えば来るまでショッピングモールに向かわざるを得ない俺たちにとって、そこは夢のような場所だった。

とはいえ大人のように散財して町を楽しむことはできず、精々駅前のマックに入って食事をし、その足で映画を学割で見、最後にこれまた学割でカラオケボックスに入って歌を歌う程度のことしかできない。それも数か月に一度くらいのものだ。それでも俺と優菜はその時間を楽しみにしていたし、一緒に過ごそうと思った。


 そんな優菜が、海外に行くという。

 

 優菜は保科が去ったあとに真っ先に俺のところに駆け寄ってきて、どうしても言い出せなかった、申し訳ないと話した。何故先に話さなかったという憤りは出てこず、代わりに必死に謝る優菜が申し訳ないと思って必死になだめていた。


「ごめん、ごめんね」


 そうひたすら繰り返す優菜に対して、ただなだめて落ち着かせることしかできなかった。その日の授業は全く集中することができなかった。


 放課後、優菜は部活にはいかず真っ直ぐ帰った。俺は休むわけにもいかない囲碁将棋部の部室へと向かった。部室といっても、エアコンがある家庭科室を間借りしているだけである。


「おい、お前の彼女引っ越すんだって?大丈夫かよこんなところに来て」


 ドアを開けるなりいきなり同級生の吉岡にそう言われた。


「いや、無理だろ。大会が近いんだから来ないわけにはいかないって」


 部員総数30人、その内15人が幽霊部員ではあるものの、少ない人数ながら俺は放課後に将棋を指せる日々を楽しみにしていた。そしてこの夏には学校対抗の将棋大会がある。地区大会を勝ち抜けば県大会、そしてそれも勝ち抜けば次……と、半ば甲子園のような勝ち抜けの大会が開かれるのだ。それに向けて将棋部員は練習を重ねていた。俺も大会に出ることが確定している一人として、練習を怠るわけにはいかないのである。


「ま、一局指そうぜ」


 そう言い放つと俺は吉岡の前に座った。お互い棋力がアマ三段程度と五分五分なので、俺はよく吉岡と指すことが多かった。

 

この日は二局指して、二局負けた。

 

結局人間ができていないのだと感じた。


 夏休みに入り、俺は大会へ向けての練習、優菜は配信に向けての各種手続きをするのでそれぞれ忙しくなってしまった。大会は一回戦でプロ入りも噂されている有望株を数人抱えた優勝候補と当たってしまい、なすすべもなく敗れた。そして事が済むと大学受験へ向けての日々が始まる。公立高校が出す少ない課題などでは満足しない家族の意向により俺は予備校へ通い苦手な数学と化学の鍛錬を行った。


 優菜の出立は8月の24日とのことだった。別れも近くなってきたのでたくさん色々な場所へ行っておこうと思ったが、優菜は引っ越しで忙しくなってしまったし、俺も予備校の夏期講習があったりしてなかなか時間を設けることができなかった。


 何とか時間を作って設けたのが8月の20日、お盆が終わった直後だった。この日は予備校もないし、引っ越しの準備も終わっている頃だったのである。


 二人で話し合って、海に行くことにした。今まで二人でいろいろなところに行ってきたが、海だけにはいったことがなかった。主として俺が外を嫌がっていたというのがその理由なのだが、最後だし行ってみようということになった。


 地元の駅から一時間ほど電車を乗り継ぐと、この地方でも有名な海水浴場につく。遊び道具をもって海水浴場にたどり着いてみると、そこはびっくりするほど人でごった返していた。イモ洗いというほどでもないが、気を付けなければ人にぶつかってしまうような距離で人が泳いでいる。


 それでも優菜は大喜びだった。


「ねえねえ!あそこにかき氷があるよ!あっちは焼きそば!何を食べよっかな?」


 まるで初めて海に来たかのように、ショートの髪を海風に受けながら喜んでいる。かぶっている麦わら帽子が良く似合っていた。


「落ち着け。いいから行くぞ」


 そういいつつ、俺は俺で何か高揚感のようなものを感じていた。初めて見る優菜の水着に少し動揺していないかと言われれば嘘になる。普段陸上部として活動しているから、彼女の肌は両肩のあたりできれいな日焼け跡ができていた。思った以上に白いその内側の肌色には少々参ってしまった。


 はしゃいでいると時間が経つのはあっという間に過ぎるもので、俺は段々文系部の恥ずかしい身体を晒していることもどうでも良くなっていった。そして日が暮れ水温が下がり、そろそろ帰らなければならない頃になった。

優菜の後ろでゆっくりと夕日が沈みつつある。


 「ね、楽しかったね」


 彼女はもうこうやって遊ぶのは多分最後になるのだろうと思い、少しだけ返答に窮した。 おそらく俺が優菜に楽しかったといわれるのはおそらく今回が最後なのだ。優菜の行く場所がどのようなところなのか、俺は全く分からない。しかし、そこが優菜にとって今まで過ごしてきた場所とは全く異なる環境であることは容易に想像がつく。


 彼女は強い。おそらく、その変化にも立派に対応して楽しく過ごせることは想像がつく。しかし新たな場所で過ごしている優菜の世界に俺は間違いなくいないのだ。それは少々寂しくも、悔しくも感じられるものだった。


「ああ、楽しかったな」


 こうオウム返しをするくらいしかできなかった。彼女はショートの髪を揺らしながらこちらを向いている。20cm身長が下の彼女はとても小さくすぐそばにいるが、なぜか遠くのほうに感じられるものだった。


「忙しいのに、わざわざ私のために時間作ってくれてありがとね」


「別にいいよ。最後なんだし」


 そうだ。もう最後なのだ。俺と優菜がこうして過ごす時間はない。


「最後か」


 優菜はそう呟いて海のほうを見た。遠くの地平線では太陽が半分ほど沈んでいる。赤い空が少しずつ黒くなって、夜が近づいていた。


 しばらく言葉も交わすことなく、優菜は夕日が沈むのを見ながらじっとしていた。太陽がほとんど沈み、光も地平線から漏れるばかりとなったその時、優菜は


「ねえ」


 と呼んだ。そして、どうした、とつぶやいて優菜のほうを向こうとした俺の手を取って、


「これで、終わりにしよう」


 と言った。


 その数日後、8月24日が訪れた。優菜は駅のホームで、自分の両親がいるにもかかわらず俺に抱き着いてわんわん泣いた。今のうちに優菜を感じておこうと思ってこちらも抱き返した。残暑がひどかったので俺と優菜の汗が皮膚の間で滑るのを感じたが、悪い気はしなかった。そして不思議と、俺は涙腺が緩むことはなかった。


 いよいよ電車が出発する時刻になった時、優菜は俺に手紙を渡してきた。半年後でも一年後でもいいから、何かあった時に開けてみてくれという。かえってすぐに見る手紙ではないと理解した俺は分かったといって、その手紙をポケットに入れた。優菜が去り、家に帰ったのちポケットから出した手紙をそのまま自室の机の引き出しの下に入れた。手紙はポケットに染み出た俺の汗で少し曲がってしまっていた。あれから数年経ち俺は大学生も半ばとなった。結局貰った手紙は一度も開けられずに机の中にしまわれたままになっている。

 

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開かない扉 四宮 式 @YotsumiyaS

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