一番の宝物。
気づけば日は沈みかけて、辺りは夕日に照らされ長い影が落ちていた。
「先輩、懐かしいですね」
昔はよく彼女とこの場所を歩いていた。
道の脇には木が生えていたり、花や雑草なんかも所々に茂っていたり。
小さな公園があったり、駄菓子屋があったり。
何の変哲もない、ちょっと田舎なただの住宅街だ。
たくさんの思い出が詰まった場所で、とても色鮮やかな場所。
「先輩、覚えていますか? 私の、楽しそうにしてるところがいいって言ってくれたこと」
俺もそんな風に笑いたいと思った。何かに夢中になって、心から楽しいと思える毎日を過ごしたいと。
「あ、あぁ……。まぁ、言ったな、そんなこと」
なぜだか急に照れ臭くなって、つい視線を逸らす。
「出会ったばかりの時は全然笑ってくれませんでしたよね」
毎日が退屈で、特に何かやりたいことがあるわけでもなくて、夢とか目標とかもなくて、ただ何となく日々を過ごしていたから。
「だから初めて先輩の笑顔が見れたときはちょっと嬉しかったんです」
彼女と出会ってから俺は自分が少しずつ変わっていく実感があった。
楽しいや嬉しいという感覚がどういうものだったのか、少しずつ思い出しているような気がした。
彼女の嬉しそうな笑顔に惹かれて、つい笑みがこぼれていた。
楽しそうな彼女の姿を見ていると、なぜだかこっちまで楽しい気持ちになっていた。
「いきなり私の笑顔が好きだと言われたときは、正直すごくどきどきしたんですよ?」
頬を赤らめつつも、恥ずかしさを隠すように彼女は笑顔を作った。
「あー……、なんかつい言っちゃったんだよなぁ」
彼女の笑った顔、嬉しそうな顔、楽しそうな顔、どれも好きだった。
なによりいつもそんな表情を浮かべている彼女のことがとても好きだった。
俺の視界に移る灰色の世界が、彼女の笑顔から伝染するようにだんだんと色鮮やかに染め上げられていくようだった。
気づけばそんな彼女から目が離せなくなってしまっていた。
「それから先輩のこと急に意識しちゃって、うまく話せなくて大変だったんですから」
「いや、なんかまぁ……うん」
急に雰囲気が変わったと思ったけど、そういうことだったのか。なんか申し訳ない。
だけどまぁ、そういう彼女の一面も見れてなんだか新鮮だった。
若干戸惑いはしたけど、それでも一緒にいて心地良い雰囲気ではあった。
「なのに……」
それから少し顔を俯けた彼女は、何かを我慢するかのように肩を小さく震わせて、それから再びゆっくりと口を開いた。
「なのに先輩ったら、急に私の前からいなくなっちゃうんですよ。ひどいです……」
頑張って持ち上げたであろう顔には、瞳から雫が頬を伝い、そして顎先から地面に向かってぽろぽろと零れ落ちていた。
なんとか笑顔で取り繕おうとする彼女の顔はくしゃくしゃで、とても上手く笑えているとは言えない。
そんな彼女に俺は笑顔を向けてこう言ってやった。
「それはお互い様だろ?」
あの時は突然自分の中から何かが消えてしまったような感覚だった。
多分、あれが悲しいという感情なんだろう。久しく忘れていた気がする。
おそらく彼女と出会わなかったら、俺は今も灰色の視界の中で何の感情も芽生えることのない毎日を送っていたかもしれない。
彼女と出会えたから今があるんだ。例えこの先どんな分かれ道に立とうとも、それは決して変わらない。
「そう、ですね……」
流れ続ける涙を何度も手で拭い、そして崩れそうになった笑顔を何度も作り直す。
「だから、これで本当に最後です」
彼女が瞳を閉じて小さく深呼吸をする。それからまっすぐな視線で俺を見つめた。
瞳には雫を溜めたまま、彼女は優しく微笑んだ。
「私は、先輩のことが好きです――」
それは、突然の告白だった。
「優しいところが好きです。笑った顔が好きです。なんでも言葉にしてくれるところも好きです。いつも一緒にいてくれる先輩が、大好きですっ」
なんとなく予想はできていた。
そしてもちろん、返事も用意していた。
「ありがとう、嬉しいよ。多分、俺もお前が好き、なんだと思う……」
なんともはっきりしない返事だが、まだこれには続きがある。
「だけどごめん、俺はお前とは一緒にいられない。だから、ごめん」
俺には俺の、彼女には彼女の、それぞれ別々の道があって、それらは本来決して交わることはない。
しかし、だからこそ、この先に後悔を残さないために、今この場で気持ちに一旦けりをつけるんだ。胸を張って次の道を選択できるように。
「そっかぁ……。フラれちゃいましたね、私……っ」
誤魔化すように笑う彼女だが、瞳からは瞬く間に大粒の雫が零れ出していた。
まだ声も若干震えている。
それでも彼女は決して笑顔を崩すことはなく、またいつものように楽し気な表情でこう言うんだ。
「今までありがとうございました。楽しい時間を、幸せな日々を、大切な思い出を……。もう二度と会うことはできないでしょうが、先輩と過ごした日々は、私の一番の宝物ですっ――」
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