蟻の王

ちょす氏

序章

黒鬼の貞子

 この日も、夜の港は静かだった。

 波のさざなみが、遠く街の喧騒とは別世界を作り出していた。黒い海面には赤や白の灯りがゆらゆらと揺れていた。


 そんな中、夜の冷たい風が一人の頬を撫でる。


 「危なかった。マジで死ぬかと思ったぜ」

 

 声はまだ若い。そしていかにもらしいヤクザが着ていそうな黒スーツに身を包んでいたが、まだ新品である。


 そして、そんな彼が両手で抱える重そうなアタッシュケースを隠しながら倉庫の方へ走り出す。


 「ハッ、ハッ」


 走る男の荒くなっていく吐息。


 チラチラ後ろ見ながら走っていると気付けば倉庫の端っこへと場所は移り変わり、息を潜め丸まって朝日が昇るのを待っているように見えた。


 「ううっ、寒ッ」


 ブルッと体を震わせる。息を潜めてはいるものの、微かに漏れでる吐息は、冬に出るあれだ。


 丸まって数分。突如、倉庫内に足音が響いた。


 ──硬い足音だ。


 さっきまで抗争があったのだが、彼はなんとか生き残り、このアタッシュケースを兄貴分から預かり、こうして迎えが来るまで息を潜めているのだ。


 だが、ほとんどの連中は気絶しており、少人数の連中も、こんな歩行スピードで歩ける状態ではないことを彼は知っている。


 ──だからおかしいのだ。別の勢力が来ている可能性が頭によぎる。


 彼は冷静に息を潜めて見つかるものかと更に丸まる。


 硬い足音は、ドンドン自分に向かって迫ってくる。我慢はしているものの、心臓の鼓動はウソをつけない。見つかったらまず間違いなく殺される。


 彼は迫る自分の死期を悟りながらも殺されてたまるかと必死に膨れ上がる鼓動を抑えながら我慢、我慢。


 だが──その希望は打ち消される。


 端っこで丸まる彼の頭上に、手が迫る。

 上から見下ろしていたのは、胸まで伸びている髪の長い大男。身長は巨人かと思うほどで、顔はその長さで全く分からない。


 しかし、彼はこの風貌に見覚えがあった。


 「黒鬼⋯⋯の貞子!?」


 思わず発してしまった。

 彼の言う黒鬼の貞子という通り名は、ある人物を指している。


 これは裏世界⋯⋯特に、ほとんど衰退しつつあるヤクザ界隈では有名な話だ。

 金を積めば、ある程度の依頼を引き受ける男がいると。


 その男の特徴は分かりやすい。

 192cmもある大男で、常人離れしている体格。そして何より、貞子のような髪の長さで顔すらはっきり分からないような男であり、基本無言。


 だが、実力は確かで、依頼はほとんど確実に遂行される。彼はすぐに察してその通り名を言ってしまった。


 たらりと頭上の隙間から入ってくる長い髪。

 彼には映ってしまう。


 その髪の隙間から見える鋭い獣のような眼光を。


 「すっ、すみません!! 何でもしますから!命だけは!!」


 彼は必死に命乞いを始めた。

 人間、プライドなど立ち位置で全て決まる。

 余裕があるものにはプライドが生まれ、下であればあるほど⋯⋯プライドなど生まれない。


 (殺される⋯⋯!)


 そう思った彼だが、返ってきたのは予想外の言葉であった。


 「アタッシュケース」

 「⋯⋯はい?」

 「アタッシュケース、ちょうだい」


 大男から発せられたのは、低いものの、何処か若さを感じる口調だった。


 「だ、で、でもっ⋯⋯」

 「アタッシュケース、ちょうだい」


 それでも返ってくるのは、アタッシュケースを寄越せという言葉だけ。彼はプライドを捨て去り、すぐにアタッシュケースを渡した。


 「ありがとう」


 返ってきたのは感謝の言葉。

 大男はそう言うと、スタスタこの場から去っていく。


 「終わったな⋯⋯」


 消えていく大男の影を見ながら彼はそう吐き捨て、懐にあった持っていたナイフを取り出す。


 ──それを最後に、それから彼の消息は誰も知らない。




***




 深夜2時半。


 普通の人間が出歩くような時間ではない中、一人の大男は駅に必ずあるコインロッカーの前でアッシュケースを片手に持ちながら通話をしていた。


 その姿はビジネスマンのようなピシッとした立ち方だが、時間帯的にはかなり恐怖を抱きそうになる立ち姿だった。



 ーーお疲れさん、白狼。


 「お疲れ様です。ロッカーでいいですか?」


 ーーあぁ、どうせ人を向かわせても待つの嫌だろう?


 「残念ながら」


 ーーこんな夜更けに悪いな。そりゃ早く寝ないと遅刻しちまうもんな。


 「はい。もうすぐ高校2年になるので」


 ーーお前さんを高校2年なんて信じるやつはいるのか?


 「⋯⋯そうなんですよね。誰もいないんです」

 

 ーーハハッ、そりゃそうだよなぁ? 


 「髪も長いですし」


 ーー春休みはもう終わりか、したらしばらく依頼は厳しそうか?


 「まぁ、程々にしてもらえると助かりますが」


 ーー謙虚な姿勢は嫌いじゃないよ。ひとまず、学業が落ち着くまではこっちも邪魔しないようにするさ。


 「助かります」


 ーー言ってた貯金は、もう溜まりそうかい?


 「ええ、もうすぐで一億にはなるかと」


 ーー子供には過ぎた額だが、まぁ能力を考えれば少ないとも言えるな。どうだ?今度顔を出してたまには食事でも。


 「機会があればいつでも」


 ーーあはは、本気にしちゃうぞ?


 「よろしくお願いします」


 ーーではな


 通話終了ボタンを押し、白狼はポケットにスマホをしまうと片手でアタッシュケースを持ち上げ、ロッカーに入れて丁寧な手つきでロックを掛ける。


 (番号と場所を送信⋯⋯っと。これで家に帰れる)


 駅を背に、白狼はそのまま一時間以上掛けて家の近くにあるコンビニに入る。


 『いらっしゃいませ〜』


 入ってすぐ、白狼の目はフライヤーの方へと向かう。

 

 (あ、チキン買えないのか。なら、仕方ない)


 『ありがとうございました〜』


 白狼は結局牛丼とコーヒー牛乳が入ったレジ袋を手にして、ここから5分程で到着する彼の家のアパート⋯⋯『夢見荘』に着いた。


 「はぁ⋯⋯」


 季節はもう春になるというのに、温暖化かなんだか知らないが、まだ白い息が出るほど寒い。


 ブロック塀沿いに歩いていると、夢見荘前におばあちゃんが新聞紙の上に座っている。


 (あ、いつものおばあちゃんだ)


 あのおばあちゃん、俺がここに越して来た3年前からここに居るんだよな。


 特になんにも得られそうにもないここで、なぜ3年も居るんだろうか。


 「おはようございます」

 「あらおはよう、寒いわねぇ」

 「ええ、もう凍えそうですよ」


 こういうやり取りを1日一回は必ずする。

 俺が夜中に帰宅する為か、向こうも数少ないお喋り相手になっていそうだ。


 そんでたまに気まぐれで食べ物や飲み物をあげている。


 「今日も仕事かい?」

 「⋯⋯まぁそうっすね」

 「まだ高校生だろうに。大変だねぇ」

 「まぁ、仕方ないっすから!」


 そんな明るい会話をして、103号室の自分の部屋へと入る。


 手洗いうがいをして、布団を敷く。いつでも寝れるように、と。


 だがその今日の自分は⋯⋯少し違った。



 「おばあちゃん」


 白狼の中で今日がその気まぐれの日らしい。

 自分のマグカップに、ココアを注いでおばあちゃんに手渡した。

 

 (申し訳ねぇおばあちゃん。俺は牛丼とコーヒー牛乳を飲ませてもらうけど)

 

 おばあちゃんの隣で牛丼を食べる。  

 出来たてだからかなり美味い。シンプルな味付けだが、他のやつみたいに変なのがないからこれが一番だ。

 

 白狼が隣をみると、やはりおばあちゃんはやせ細っている。ボロボロに汚れた精一杯のコートにマフラー、ニット帽だけがあるだけまだマシか。


 「おばあちゃん、野菜食べる?多分3日前くらい前に買った野菜が残ってたはずだから」


 「いいよ大丈夫。それよりも、こうしてわざわざこんな残り少ない老人の話し相手になってくれることがどれだけ嬉しいことか」


 「そういうもんですか?」

 「うん、そういうものだよ」


 おばあちゃんがココアを飲む。少し熱そうにしているが、すぐにズズズッと美味しそうに飲み始めた。


 「結構そのメーカーのココア好きなんですよ」

 「確かに⋯⋯こりゃ美味いねぇ!」


 嬉しそうにおばあちゃんはその後もココアを飲む。


 白狼が牛丼を9割程を食べた後、おばあちゃんに渡す。


 「これ、一応ここだけキレイに分けたから」

 

 そう言ってまだ暖かい牛丼をおばあちゃんに突き出すと、最初は遠慮していたものの、「しつこく言ったら悪いねぇ」と言って口にした。


 「最近のコンビニはこんな物も買えるのかい」

 「おばあちゃんの時代は⋯⋯コンビニも種類が無かったりしたんですか?」


 (こんな会話を30分はしたかな)


 俺もさすがに4時前では眠い。おばあちゃんはそれに気付いたのか、手で子供は寝なさいと追いやる。


 「寒いからって凍死しないでよ?」

 「老人舐めんじゃないよ!」


 高笑いしながら白狼に手を振っているおばあちゃんを背に、戻ってから暫く天井を見上げ、10分もしない内に寝床についた白狼だった。

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