第10話 発散

 その日は、本当になんにもない、ありふれた日常の中の1日だった。

 ただ、毎日、家事と読書ばかりの変わらない日々で。変わらなすぎる日々で。

 なんのためにここに来たのか、わからなくなってきてしまった。

 今日もまた、昼食の片付けを済ませ、掃除に取りかかる。

 ほうきとちりとりを両手に持ち、もう何度目かわからないため息をつく。

「師匠、足どけてください」

「はーい」

 ひょいっと上げられた足の下を、素早くほうきで掃いていく。

「あ、リツキ、私も手伝うよ」

「ストップ。何をどうしようとしていますか?」

「え、掃除といえば雑巾でしょ。棚の上を拭こうかなーって」

「この前も、そう言って家をびしょびしょにしたこと覚えてますか?」

「こ、今度は気をつけるよ!」

「…なら、いいですけど…」

 嫌な予感がしつつも、任せることとする。

 師匠が雑巾を取り出し、水で濡らしているのを見届ける。

 よし、大丈夫そうだな。

 ほっとして、ほうきに向き直ったつかの間。

 ドン!ガッシャーーン!ジャー!

「うぎゃあ!」

「~~っ、今行きます!」

 急いで水場に向かうと、びしょびしょの床、壁、そして師匠。

「…どうしてそうなる」

「ごめんよー」

「…はー、とりあえず、タオルで拭いたら向こうで大人しくしててください」

 とぼとぼとリビングへ歩く後ろ姿を見送る。

 …本当に、僕は何をしているんだろうか。

 孤児院を出て、知らない土地に来て、やっていることは師匠の世話。

 鬱々とした気持ちが胸に広がる。

 文句を言っても始まりはしない、か。

 奥歯をグッと噛み、床を拭こうとかがんだ。

 と、師匠がぴょこりとこちらに顔を覗かせる。

「ごめんね、リツキ」

「いえ別に」

「んーん、いつもありがとう」

 師匠はそう言うと、二カリと笑った。

「ほんと、リツキが来てくれて助かったよ~」

 その言葉にプチンと、僕の中で何かが切れた。

「…師匠にとって、僕は都合のいい駒か何かですか…?」

「へ」

「師匠は!僕を弟子にすつもりなんてなかったんでしょう!?」

「え?ちょ、待って、リツキ何言って」

 言葉が止まらない。頭の隅でこれは違うと分かっていても、言葉を紡ぐことをやめられない。

「誤魔化さないでください!まだ一度も魔法を教えてくれたことないじゃないですか!僕を!ただの従者か何かだと思っているんでしょう!?」

 パチパチと自分の中で何かが弾けるのを感じた。

 感情の昂りに応じるように、腹の奥底からじわりと青い、青い魔力が滲み出る。

 それを見た師匠は、ハッと顔色を変え、僕に一歩近づいた。

「リツキ!落ち着いて…それ以上は…!」

「うるさい!!」

 僕の耳にはもう、何も聞こえなくなっていた。

 気持ちが赴くままに、頭を振り、全てを発散する。

 そう、全てを。

「師匠も、あなたも、同じだった…。あなたも、僕のことなんて、見ていないんだ!!」

 刹那。僕の青い魔力が溢れ出し、四方に亀裂を入れた。

 肺が押し潰されそうなほどの圧力が、一気に辺りを押し寄せる。

 視界は、自身の青い魔力と土煙により遮られた。

「ハッ、ハッ」

 僕は身体中から魔力がごっそり抜けていくと同時に、頭に上った血も下がっていく感覚を覚えた。

 目の前で広がる光景が、自分により引き起こされたことであることを理解する。

 だんだんと視界が晴れていく中で、目に飛び込んできたのは、赤。

「あ…」

 顔を顰める師匠。パックリと割れた手の甲。

 ポタリポタリと滴る赤が、鮮烈に脳裏に焼き付いた記憶を呼び起こす。

「あ…あ…」

 青 悲鳴 あの子 瓦礫 怒号 教会 僕が 魔力

 僕が あの子 赤い あの子 赤 赤 赤

「ああ…っ、あああ……っ」

 僕は、僕は、またやってしまったのか、また…っ。

 クシャリと髪を乱雑に握る。

 足は無意識に後退を始めていた。

「リツキ、リツキ。落ち着いて。大丈夫だから、ね」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 口の中でつぶやくように繰り返し謝罪する。

 師匠が僕に腕を伸ばしている。しかし、僕には血の赤しか見えていなかった。

 もう、たまらなかった。これ以上、この場にいることなど出来やしない。

 くるりと身体を翻し、衝動のまま外に飛び出す。

「…っ、リツキ、待って!!」

 遠くへ、遠くへ。師匠の声を背に、僕はただ、前も見ずにがむしゃらに走った。


「ヒック、ヒック」

 走って、走って、走ってたどり着いた先は、森の奥地だった。辺りは闇に沈み、まともに足元も見えない。

 僕は一本の老木に背をつけ、膝を抱えていた。

 心を満たすのは、後悔と嫌悪。

 僕は、全く変わっていない。

 僕は、僕は、僕が嫌いだ。

 自分を制御できない僕が嫌いだ。

 1人で考え込んで、暴走してしまう僕が嫌いだ。

 僕に笑顔を向けてくれる人を、信じられない僕が嫌いだ。

 もう、消えてしまいたい。

 一層深く、膝の間に顔を沈める。

 こうして縮こまっていれば、そのうちに“僕”という大嫌いな存在が消えてくれそうな気がした。

『リツキ』

 師匠は、僕を探しているだろうか。いや、探しているわけない。

 だって僕は、優しいあの人を傷つけた。

『リツキ』

 ああ、嫌だな。空耳が聞こえる。

 僕の名前が呼ばれるなんて、ありえないのに。

『リツキ』

 うるさいな。お願いだからやめてくれ。

『リツキ』

 だから、もう……っ!

『リツキ!私だってば!』

「し、しょう……?」

 驚いて勢いよく辺りを見回すが、もちろん師匠の姿などない。

 空耳…?いや、でも

『聞こえてる?聞こえてるよね?おーい』

 聞こえる。ハッキリと聞こえている。

 どういうことだ。相変わらず人の気配など1ミリもない。

 半ば呆然として呼びかける。

「え、師匠なんですか?」

『だからそうだって。何度もはなしかけてるのに、反応してくれないから魔法失敗したかと思ったじゃん』

 もう、とこぼす師匠に僕はあんぐりと口を開ける。

 魔法?魔法でこんなことができるのか?

『風魔法の応用だよ。声だけそっちに届けてるの』

「いや、理屈はわかりますけど」

 そう、理屈はわかる。理屈は。

 けど、風を利用して音を届けるなんて繊細な魔法、並の魔法使いにできることではない。

「師匠って、ほんとにすごい魔法使いだったんですね」

『え、今?』

「なんかすみません」

『いや、別に…情けないところしか見せてなかったわけだし…』

 なんとなく気まずい空気が流れる。

 師匠がその空気を断ち切るように咳払いをした。

『気を取り直して…ねえ、リツキ。少し話そうか』

「…はい」

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