悲劇の英雄義経……不死鳥黄泉がえり見聞録

tamaちゃん

第1話 民話の世界


 


 🎵こきりこの竹は七寸五分(しちすんごぶ)じゃ


 長いは袖(そで)のかなかいじゃ


 窓のサンサはデデレコデン🎶


 ハレのサンサもデデレコデン🎶


 これは有名な五箇山民謡こきりこ節の一節である。

 この、こきりこ節は日本最古の民謡と言われていて、麦屋節と共に国の無形文化財に指定されている哀愁漂う民謡である。

 


      🌳🛖🌲


 

 長いトンネルを抜けると、時代に取り残された懐かしい日本の原風景五箇山が、ひっそりと現れて来る。


 この秘境に降り立った者は誰しもが、時代の垣根を超えて大昔にタイムスリップしてしまった、そんな錯覚に捕われる。山あいにぽつりぽつりと、かやぶき屋根の合掌集落が点在しておとぎ話の爺さんと婆さんが、ふっと現れそうな……そんな場所。


 

 そもそもこの五箇山とは、源平合戦で敗れた平家の残党が移り住んだとされる地である。平家の落武者たちは遥か都を思い描いて、落ちぶれ果てた自分たちに重ね合わせ栄華を誇った都を思い芸事に勤しんだ。


 こうして…今日まで歌い継がれる有名な、こきりこ節や麦屋節が継承された。


 こきりこの歌は都に思いを馳せる落武者たちが、けわしい山道を逃げかくれしながらつれづれに、歌ったものなのだろうか・・・


 こきりこの歌は人里はなれたこの山村に流された人の、悲しいため息のしらべなのか・・・


 

 一方の「麦や節」の歌詞には、「烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)脱ぎうちすてて」「心淋しや落ち行く道は」などと、戦に負けて都から逃げていく平家一門のようすが歌われている。

 ※烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ):武家衣装

     


     🌳🛖🌲


 

 五箇山は例年恒例行事として9月25日26日夜に、こきりこ祭りが夜7時から開催されている。


 風情ある白山宮境内に響く楽器には、こきりこ、棒ささら、鍬(くわ)がね、太鼓、鼓、篠笛の音があり、哀調ある旋律にのせ、こきりこ館前の特設ステージで獅子舞や民謡舞踏の優雅な舞が奉納されている。

 

 こきりこ祭りでは女性によるおごそかな奉納舞がある。女性は「しで」というこきりこの竹の両端に和紙をつけたものを持ち、場を清めながら踊る。


 男性は手にはささら(竹や細い木などを束ねて作製される楽器)を持ち、頭に山鳥の羽をつけた綾藺笠〈あやいがさ〉とは(やぶさめ:疾走する馬に乗りながら、的を目がけて矢を放つ)際に着用した笠を被って、豪華な黄金色のひたたれ姿(鎌倉時代に入り武家の常服となった上流武士が着用する服装)の男性が”キリリ””キリリ”と「ささら」を鳴らし勇ましく舞う「ささら踊り」は見る人々を惹きつけて離さない。


          🔥     🔥     🔥

 

 こきりこ総踊りと呼ばれるイベントでは、町の人たちが輪になり、会場全体でこきりこを踊り、見物に来た人々も輪に入り、ささらを鳴らしながら一緒に踊るのが例年の習わしだ。


 だが、今年のこきりこ総踊りはどういう訳か、例年通りのちょうちんの明かりだけでなく、なんと!暗闇に幻想的な「迎え火」らしき火が恨めしそうに揺れているではないか?


 そして…その周りを町の人たちや見物に来た人々が踊っている。


「迎え火」は8月「7月」13日に先祖の霊を迎え入れる為に焚く儀式だが、この日は9月25日。お盆でもないのに何故?


 このこきりこ祭りの参加者は霊界から帰って来た死者なのだろうか?


 何者かが、こきりこ祭りという舞台を借りて目的を果たすために、この舞台をセッティングしたのだろうか?

 

 ※迎え火:お盆に自宅へ帰ってくるといわれる先祖の霊を迎える目印として、玄関先や庭などで焚かれる火のこと。盆提灯を灯すこともある。8月「7月」13日の夕方に行われる。

     

 それも……何かしら……怪しげな……火の玉が、こきりこ祭りの夜空に恨めしそうに彷徨ているではないか?


 これは何故なのか?


 誰もが一度は耳にした事のあるメロディ-を奏でながら、踊っていると不思議な現象が起こった。



     🌳🛖🌲


 気が付くと五箇山のこきりこ祭りではなく、平安時代にタイムスリップしていた。それも……なんとタイムスリップしたのは、こきりこ祭りにやって来ていた東京都在住の父昭夫と母麻理そして息子悠人の3人だけだった。

 

 そして…丁度源平合戦の最中だった。


 更にとんでもない事に、父昭夫が源頼朝42歳で息子悠人が源義経30歳となっていた。確かに異母兄弟だった頼朝と義経は12歳差だから間違いではないが、何故親子だった父昭夫と息子悠人が、兄弟頼朝と義経となって平安時代に蘇ったのか?また、母麻理は義経の生母で、源義朝の側室だった常盤御前となっていた。


 不思議な事態が起こってしまった。一体これはどういう事?


 今も語り継がれる悲劇の主人公源義経。あんなに兄頼朝に尽くしたのに、結局は兄頼朝に追い詰められ、最後に頼った場所平泉は、義経にとってまさに第二の故郷だった筈なのに、館を平泉の兵に囲まれた義経は思い出の平泉の「持仏堂」に入り、妻と娘を刺し、自らも切腹し、無念の最期を遂げた。

 享年30歳。


     🌳🛖🌲



 それでは源平合戦の原因は何だったのか?


 以仁王(もちひとおう)から源頼朝、木曽(源)義仲に平家追討の命令を公に伝えるための文書が届いた。


 こうして…一連の「源平合戦」が1180年4月に始まった。

 1180年8月 頼朝挙兵 / 石橋山の合戦に始まり、1180年10月 富士川の戦い。1183年5月 倶利伽羅(くりから)峠の戦い。1183年10月 水島の戦い。1184年2月 一の谷の戦い。1185年2月 屋島の戦い。1185年3月壇ノ浦の戦いまでの6年間の内乱を指す。


 源平合戦によって、栄華を極めた平家の一族は壇之浦で滅びた。こうして…源頼朝を中心とする坂東(関東)の武士による鎌倉幕府が樹立された。 


 ※五箇山と落人:源平合戦の一つ。1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦ったが、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。こうして…残党が五箇山へ逃れた。物証は少ないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされる。




 

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