第2話 天空の鳥籠 1−8
でも……。
弱りきっているところに優しい言葉をかけられたからだとは認めたくないけれど、離婚の相談、もしかしたら調停から裁判まで一緒に戦ってくれる人、それは倉智さんであってほしいと考えている。
果たしてそれができるのかどうか。なぜならわたしには、法律事務所を通すだけの当面のお金がない。会社社長の妻の体(てい)でないことはもとより、同世代の主婦と比べても、普通の人が想像だにできないほど自由になるお金がないのだ。
家計の管理は万里が全てしている。
夫が家計管理をしている家庭も多いだろう。けれどうちはそんなレベルではない。光熱費、通信費、子供たちの教育費に小遣い、日常の食費さえ万里が家政婦さんに直接支払うわけで、家に関わる全てのお金に、わたしは何もタッチできていない。
手にできるのは、月に一万円という与えられた小遣いだけだ。五万円をもらっている怜和の方がずっと多い。
万里名義のわたし専用のカードがあって、それを都度受け取り、バーゲン時期に洋服は購入している。ブランドも、金額の上限下限も決められていて、何をいくらで買ったかは筒抜けだ。
万里の機嫌を損ねない、わたしにすれば好きでもなんでもない、ただ上品なだけの面白みのない、物凄く無難な、中途半端なブランド品。一緒に化粧品や、時には下着まで買う。
バッグや財布、時計、と人にはっきり価値のわかるものは、わたしにもそれなりのブランド品を持たせる万里だ。
けれど内実は〝ド〟のつく吝嗇家だから、一見しただけでは値段のわからないわたしの洋服にそこまでのお金をかけたりしない。言ってみればわたし自身が万里の持ち物だ。
そんなシステムの中でも、必要があればもらえないわけじゃない。けれど全部が万里のカード経由だから、離婚の弁護士費用なんてもってのほかだ。
どうしよう。弁護士を倉智さんにお願いしようにも、着手金さえない。倉智さんいわく、着手金があれば弁護を正式に引き受けることができる。そうすれば離婚時、法的に相応の額を受け取れるようにしてみせる、と断言してくれている。残りの費用はそこから払ってくれればいいそうだ。
マンションのロックを解除しエレベーターで最上階まで上がり、我が家の玄関扉を開ける。
と同時に階段を転げるような勢いで降りてくる足音がする。上がり框で靴を脱ぐわたしの前に姿を現したのは若葉だ。
「ママどこ行ってたのっ? いないからびっくりしちゃったよ。何度も電話したのにー」
若葉が両手を広げながら、安心半分怒り半分の形相で駆け寄ってきて、体当たりの体(てい)で抱きつく。勢いが強すぎて倒れそうになり、後ろ手に飾り棚に手のひらを当て二人分の体重を支える。
「ごめん。もう五時か」
「ほんとに心配したんだからね? 電話も出ないし、LINEは全然既読にならないしー」
「ごめんごめん」
「もー! マジで怒った!」
若葉の網膜に涙が浮かんでいるのを目にし、胸に痛みが走る。と、同時に自分の不在に涙まで浮かべる存在がいることに、どうしようもないほどの喜びが込み上げる。
出掛けていても、怜和や若葉が小学校から戻る時間には必ず家にいるようにしていた。今日はアクシデントがあったとはいえ、ここまで遅くなる予定ではなかったのだ。
若葉が、家に母親がいないことにまるで慣れていない子供に育っていることを、あらためて突きつけられたような気がした。気が弱い子供ではないのに。
子供が帰る時間に家にいて「おかえり」と笑顔で迎えてあげること。今まで良かれと疑いもせずにやってきた事の多くには、裏側が存在したのかもしれない。いや、存在したのだ。表があれば必ず裏はある。
若葉はわたしが帰ってきたらそれで満足したのか、どこに行っていた、とか誰といた、とかそんなことは詮索しなかった。
「若葉、お腹すいた?」
若葉の背を押してリビングに向かいながら聞く。
「おやつ出してもらった。今日、橋本さん来る日だったから。もう帰ったけど」
橋本さんというのは食事を作るのがとてもうまい我が家のシェフだ。家政婦事務所を通している人だけれど、契約で料理とそのための買い物以外は何もしない。昔、中規模ホテルの厨房で働いていたらしい。
「じゃあ夕ご飯、もうちょっと待とうか? もしかしたら怜和が戻るかも」
「うん。じゃ、それまで上行って勉強してくる。塾の宿題おわんない」
「宿題多いもんね。五年とは言ってもだんだん臨戦態勢だね。ママも自分の部屋にいるわ」
「りょうかーい」
若葉はスケルトン階段を上っていった。
わたしは洗面所に向かい、手洗いをしてから、同じように階段を上る。
扉を開き自室に戻ると、珍しく扉を閉めた。そしてベッドの下から白い布製のボックスを引き出してくる。三百円均一ショップで買ったものだ。
「あった……けど」
これだけか。開いた通帳を手にさっそくため息だ。
通帳の表書きには〝篠口(しのぐち)寿実〟と印刷してある。十九年前のわたしの通帳だ。高校大学時代に稼いだバイト代が、確か二十万以上あった気がした。でも通帳に並ぶ数字は記憶にあるものよりも小さくて、十八万二千五十円しかない。
そう、親へのプレゼントや若葉や怜和に、万里に隠れて欲しがるものを買った時にちょこちょこと引き出してしまっていた。
佐伯法律事務所に着手金の二十万円を納めなければならないのに、今月の小遣いはまだ先だ。わたしはお財布を確認する。残金は九千三百二十五円。
一万円の小遣いで、半年に一度の美容院代と、高校の友だちとのランチ、進学塾の保護者会後のカフェ代、若葉の突発的な学用品までやりくりしなくてはならない。
高校の友だちとのランチは数ヶ月に一度のものだけれど、その後のカフェ代含めて時には五千円を超える。気を遣わせたくなくて、彼女たちにはわたしの状況を話していない。働いている子もいるから土日のどちらかになる集まりは、万里のいない時に合わせてもらっている。
心を開放できる貴重な時間だからこそ、このランチ会にわたしのネガティブな日常を持ち込みたくないのだ。メンタルを正常に保つために、今やなくてはならない集まりになっている。
今月のランチ会のために数ヶ月も前から小遣いをセーブしてきた。ランチが五千円だと言われても、この集まりに行きたかった。
今月のランチ代は、安くてラッキーだと思っていた千八百円。プラスでその後のお茶に六百八十円というところだっただろうか。
ドタキャンで申し訳ないけど、この費用は倉智さんの法律事務所の着手金にまわすしかない。それでいくらになるだろう。十八万二千五十円プラス今、お財布の中にある九千三百二十五円。
わたしはスマホを取り出し、計算機を起動させる。十九万千三百七十五円。足りない。あと、八千六百二十五円足りない。
何か理由をつければ万里はカードを貸してくれる。でもカードじゃ履歴が残ってしまう。それじゃだめだ。
いっそ親に借りる? それもだめ。心配をかける。いずれはわかってしまうことだけど、悩ませる時間は短ければ短いに越したことはない。
わたしは布のボックスの中から、手のひらサイズの小さな箱を取り出した。
「これしかない」
もういらないものだ。それに着手金だけでいいと言ってくれていても、この先どんな費用が乗ってくるかわからない。
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