第38話 なによりも大切なもの

 どうしてここにいるのか。

 その女の顔を見上げて、ラウラは震えた。

 ベキュ伯爵夫人。今は爵位を剥奪されてはいるが、元夫の愛妾だった女。


「エカルトに何をした?」


 怒りで身体が震えた。

 ラウラを狙うのならまだわかる。ラウラの存在が、元夫や愛妾を凋落させるきっかけになったには違いないから。けれどエカルトにはなんの関係もない。なぜラウラではなく、エカルトを狙ったのか。

 初めてこの女を憎いと思った。


「落ち着かない国の、しかも人手不足の城に入り込むなんて簡単なことだわ」


 濃茶の髪は短く切りそろえられていた。大きくうねった巻き毛にくっきり際立つ派手な化粧をした顔の印象が強かったので、すぐには気づかなかったのだ。地味なメイド服に化粧っ気のない顔をした女は、確かにウラリー・ド・ベキュであったのに。


(どうして気がつかなかったの!)


 後悔してもしきれない。唇をぎりりと噛みしめた。


「採用担当の役人、ちょっといい顔をしてやったらすぐに通してくれたわ。どこの国でも男は同じね」


 ラウラの表情の変化を楽しむように、女は歪んだ笑顔で口にした。

 王宮の礼儀作法を心得た女となると、確かに今のヴァスキアにはあまりいない。亡国の民にはそんな作法など必要なかったし、仮に苦労して学んだとしても、それを活かす雇用はとても少なかったからだ。

 雇用担当の役人が、元のマラーク王の愛妾を知らないのも当然だ。だから見目が整っていて礼儀作法の心得もある平民だと言えば、簡単に雇い入れられたのだろう。

 さすがの度胸だ。零落した男爵家から国王の愛妾にまで成り上がった力は、伊達ではない。

 けれど今のラウラには、そんなことはどうでもよかった。

 

「医師はまだ? 急いで!」


 どうやって修道院を出てここへ入ったか。そんな詮議は後でいくらでもできる。

 それどころではない。

 苦し気に喉を鳴らすエカルトを救わなくては。それ以外、何も考えられなかった。


「牢につないでおきなさい」

 

 飛び込んできた騎士に命じると、ラウラはもう彼女を見ることもしない。


「助からないわ。じきに終わりよ。陛下の心をわたくしからかすめ取った女。お前だけ幸せになんて絶対にしてやらない」


 両脇を抱えられた女がヒステリックに叫ぶ。

 食堂の扉が閉まった後もしばらくその声は続いて、だんだん遠くなりやがて消えた。

 



「強力な毒ではございますが、幸い陛下はすぐに吐き出されております。摂取量はわずかなものかと」


 駆けつけた王宮医師はほっと息をついて、ラウラに希望をくれた。


「助けてください、お願いだから」


 縋りつくラウラに頷いた後、エカルトを寝室へ運べと騎士に指示を出した。

 

 白い担架が運び込まれる。

 エカルトが乗せられる。

 騎士が運び出してゆく。

 その様子をまるで夢の中のできごとのように、ラウラはぼんやりと見ていた。

 

「しっかりなさいませ、ラウラ様」


 ぎゅうと手を握られて、はっと我に返る。

 焦点の定まらぬ目が、ようやくオルガの姿を映した。

 

(どうしてここにオルガがいるの? 今夜は非番だったはず)


 今考えるべきではないことが頭に浮かぶ。

 ごちゃごちゃとまとまらない思考が、散らかった部屋のように頭の中でぐるぐるしていた。


「呆けている場合ではありません」


 人の目がなければ、背中をばしんと叩かれていたかもしれない。

 強い力がラウラの手をとって、立ち上がらせる。


「参りましょう。陛下のお側に」


 



 医師たちに少し遅れて寝室に入る。

 医師はエカルトの胃を洗っていた。

 大量の水分が強制的に流し込まれて、胃の内容物を吐き出させる。その繰り返しだ。

 エカルトは苦し気に顔を歪めて、赤黒い液体を桶の中に吐き出している。

 生理的なものか、エカルトの目や鼻から水気があふれていて、それがラウラの胸を痛ませる。

 

「背中を撫でても?」


 医師に許可をもらって側に寄り添い、苦し気にたわむ背を撫でてやる。

 びくびくと背中が動く。

 知らぬ間にラウラも泣いていた。


「大丈夫、大丈夫だから」


 吐き出した液体から色味がなくなって、やっと医師から安静の指示をもらう。

 疲れ果てて眠るエカルトの顔は青白かったが、規則的な息づかいが戻って来ていた。


「大丈夫、大丈夫だから」


 同じ言葉を繰り返して、ただただラウラは泣いていた。

 もう安心だと言われたような気がするが、幻聴かもしれない。助かってほしいと、その一念が強すぎて聞こえたような気がするだけかも。

 生まれて初めて、ラウラは自制心を失くした。涙を止められない。

 

「ラウラ様、少しお休みください」


 オルガの声は耳に入っていたが、身体が反応しない。

 エカルトが目を開けるまでは側を離れられない。もう一度黄金色の瞳がラウラを映すまで、何日でもここにいる。

 瞬きすることも忘れて、ラウラはエカルトの枕辺に付き添った。

 その手を握り、ただ待った。

 


 翌朝、ようやくエカルトが目を開けた。

 瞼がひくりと震えた後、黄金の瞳がぼんやりとラウラを映す。


「心配しましたか?」


 掠れた声。けれどエカルトの声だ。

 

「あ……たりまえ……よ」


 喉に熱い塊がこみあげて、うまく音になってくれない。


「嬉しいです」


 無理に吐かされたせいだろう。唇の端が切れている。

 つっと顔を顰めながら、それでもエカルトは笑った。

 ラウラの胸がきゅうっと締め上げられる。


「ばかね」


 横たわるエカルトを、上掛けごと抱きしめた。

 

(ありがとうございます)


 ヴァスキアの神ドライグとその妻ヴェーヴェルに、心から感謝した。

 ラウラのエカルトを助けてくれて。

 ラウラの元へ返してくれたことを。

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