第26話 怖かったから

 黒の騎士服は、くるぶしまでの丈で袖口と肩から胸にかけて金糸の縫い取りが施されていた。

 内側に着こんだ白いシャツと細身のパンツを隠すように、腰の低い位置に蒼いサシュが結ばれている。

 黒のブーツのかかとを鳴らして、エカルトがラウラとの距離を詰めてくる。

 金色の瞳がてろりと艶を帯びて、その奥にのぞいた熱を今はもう隠す気もないのがわかる。


「驚きましたか?」


 それは驚く。まるで別人だ。

 髪や目の色、衣装が違うだけではない。纏う空気まで違っている。

 覇気に満ちた王者のオーラだ。


「明日の夜、異変が起こります。あなたはけして王妃宮から出ないでください」


 ついに来た。いつ起きても不思議ではなかった。よく三年も我慢したものだ。


「今日は? 今日ならいいの?」

「え?」

「外出よ。そういうことなら今日中に済ませてしまいたい用があるの」


 神殿に行って婚姻無効の証明書を出してもらわなくては。

 アングラード侯爵が国王シメオンに退位を迫ることはわかっている。危害は加えないだろう。おそらくは幽閉というところ。

 その時、ラウラが王妃であれば巻き添えになるかもしれない。

 アングラード侯爵がラウラを幽閉するとは思わないが、名ばかりとはいえ王妃だ。一時的にせよ、シメオンと共に幽閉などという憂き目にあいかねない。

 

 はぁ……と、ラウラの頭上でため息がこぼされた。

 

「今の状況をわかっていますか?」

「わかってるわ。だから急いで神殿に……」


 言いかけた言葉ごと、抱き寄せられた。

 ふわりと香るのは、桜の香り。涼しくほのかな木々の香りが、ラウラを包み込む。


「俺はあなたに伝えたはずです。愛していると。まさか忘れていませんよね?」


 忘れられるわけがない。

 あれはラウラにとって生まれて初めての衝撃だった。自分が誰かに愛を告げられる日が来るとは思ってもみなかった。

 名のみの夫からの言葉とは明らかに違う。

 それは恋愛経験のないラウラにでもわかった。思いつめた表情と声。きっと心からの言葉だったのだと思う。

 

「忘れてないわ」


 けれどあれは現実ではなかったのかもしれないと、時々思う。

 愛していると告げられたのは一度きり。

 あれ以降ルトは護衛として側にある時も、危険が迫ればすぐにかばえる距離を守っていた。それ以上に踏み込んでくることはない。

 だからできるだけ思い出さないようにしていた。

 ものの本によれば、少年期の恋は熱病のようなもので、誰でも一度はかかるのだそうだ。テオ以外の家族を失ったルトが、五歳上のラウラを母や姉のように見立てたとしても不思議ではない。

 勘違いによる初恋かもしれない。それならばできるだけ触れないでいるのが思いやりというものだ。言った本人が、後になって一番恥ずかしくなるのだろうからと。

 ルトがエカルトであるのならなおさらだ。家族は八年前に皆いなくなっている。

 

 では今ここで、ラウラを抱きしめている腕はどうしたことだろう。

 苦しいほどぎゅうぎゅう抱きしめる腕の熱は。

 

「まったくあなたは……。どれだけ薄情なんですか。俺といるのに他のことを考えてる」


 ますます腕の力が強くなって、背中と腰が痛い。


「でも忘れてないんですね? よかった。忘れられてなかった」


 急に口調が幼くなる。

 本当に幼かった頃は無口だったから、こんな口調は初めて聞いた。


「本当は会わないで行くつもりでした。全部すませてあなたをさらいにいこう。ずっとそう思ってましたから」


 さらう?

 その言葉に不覚にもどきんとした。

 あれから三年経って、まだあの言葉は有効なのか。愛していると告げてくれた、あの言葉は。

 ただ決まったことだから王族の義務だからと、仕方なく生きてきたラウラだ。形ばかりとはいえ夫までいる。それなのになぜ愛してくれるのか。三年もの間変わらずに。


「どうして?」


 しなければならないことから、できる限り逃げないできた。唯一の例外は、夫シメオンを受け容れることだ。

 嫁いだ当初はそれも義務だと思っていたし、初夜を迎える予定もあった。が、結局のところ受け容れられなかった。

 もしばば様がラウラなら、どんなに気持ち悪くとも吐きながらでも初夜を済ませたのだろうと思う。

 さっさと修道院行きを決めたことを、後悔してはいないが恥じてはいる。王族としては失格だ。


「そんなことを言ってもらえる価値、わたくしにはな……」

「それを決めるのはあなたじゃない!」


 ラウラの言葉にかぶせたエカルトは、ラウラの両肩を抱いて真正面から見下ろしてくる。

 金色の瞳に苛立ちと怒りがある。


「あなたは俺の唯一、最愛の姫だ」


 唯一、最愛。

 それは銀の分銅ソルヴェキタの姫の伴侶のつかう言葉だ。


「今、俺はあなたに触れている。嫌ですか?」


 答えを知っている問い方だった。

 嫌ではない。むしろ胸がどきんと弾む。エカルトはそれを知っている。

 それなのに金色の瞳が答えを求めて、じっとラウラを覗き込む。


「いやではないわ」


 嘘はつけなかった。

 シメオンに触れられた時には気持ち悪くて吐き気までしたというのに、胸が弾んで同時に切なくもなる。

 もっとしっかり触れてほしいと、そんなはしたないことまで思う。

 

(あのルトよ? ルトなのに)


 やせこけて汚れて傷だらけだった幼い男の子。

 いつのまにこんなに綺麗な青年になったのか。

 違う。本当は気づいていた。いつからかわからないほど、ずっと前から。

 三年前、ラウラに初めての愛を告げてくれた時、ラウラは嘘をついた。

 戸惑ったフリ、気づいてなかったフリをした。

 怖かったからだ。

 認めてしまえば捕らわれてしまう。

 シメオンやウラリーのような愚か者になり果てると思ったから。

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