第三章 マラークの叛乱
第24話 熾火
「いつものとおり処理しております」
旧ヴァスキア領鉱山担当の役人は、木製のクリップで閉じた書類を総督エルケ侯爵に差し出した。
エミール・ド・エルケ侯爵。元のエーミール・フォン・ハーケ、ヴァスキアの宰相だった。
執務机を挟んで手を伸ばし、ハーケは書類を受け取った。
「その……、閣下。大丈夫なのでしょうか。バルト侯爵がお気づきになれば……」
油っ気のないぼさぼさの茶の髪をした青年は、元は宰相ハーケ侯爵の側近だった。主の立場が変わっても、彼は変わらず側にいる。不本意ながら、今はマラークの禄を食んでいるが。
「なぜ気づく? 鉱石の製錬度がヤツにわかると思うか?」
艶のない灰色の髪をした元宰相は、同じ色の瞳に皮肉な笑いを乗せている。
「エミール・ド・エルケは、バルト侯爵の娘婿だ」
二度も離縁されたバルト侯爵の娘を、ハーケは妻に迎えている。
その際、マラーク風の名と爵位を授けられた。同時に旧ヴァスキア領の総督の地位も。
八年前王太子エカルトの右半身を焼いた時、ハーケは己の自尊心を封印した。
旧ヴァスキアの民から裏切者、恥知らずよと罵られ蔑まれながら、総督を務め酷な税を課してマラークにしっぽを振ってみせている。
マラークの社交界でも評判の良いはずはなく、故国と主人を売って生き延びた卑劣漢よと嘲笑されている。
「わたくしのおかげであなたはマラークでの地位を得たの。あなたにはわたくしを大切に愛する義務があるのよ」
バルト侯爵家から迎えた妻は、まるで王女が降嫁してきたかのように尊大だった。
若く美しい自分が三十過ぎの、敗戦国のおまえに嫁いでやったのだから、ありがたくないはずはない。そう心から信じている。
美食の限りを尽くした身体はまるまると肥えて、控えめに言っても出荷前の豚のようだ。肉に埋もれた目は糸のように細くて、盛り上がった頬はここ数年でたるんで下がりつつある。
この尊大な豚をハーケは週に一度抱く。それはもう、下僕が王女に尽くすようにして。
牙を抜かれた獣のように振る舞って十年余、最初こそ用心していたらしいバルト侯爵も今ではすっかりハーケに気を許している。
「あれの我儘が過ぎるようなら、私が許す。女を作るといい」
本気で言っているらしい。その後何度も、候補の貴婦人を紹介された。
そろそろか。
ハーケは隠した牙を研ぎ始める。
ノルリアンに逃れた太王太后エドラからの密偵は、ハーケの判断に任せると言ってきていた。
アングラード侯爵によるマラーク王権奪取の工作も順調で、配下の騎士団は王太子エカルトが掌握したという。
友ドナウアーが命がけで逃がした王太子エカルトは、立派に成長してくれた。
後は託せる。ヴァスキアの全権を、正当な継承者に戻す時機だ。
「おまえは気にせずともよい。すべての責任は私にあるのだから」
長く仕えてくれる青年に、ハーケは微笑んでみせる。
鉄鉱石から
敗戦国の詳細、その調査すら適当に済ませたツケを、マラークは支払うと良い。
出荷された鋼の精度など、愚かなやつらにわかるものか。
目利きの商会はすべて抱きこんである。
マラークの騎士の持つ剣も槍も弓も、すべて粗悪品だ。十年かけて、そうしてやった。
馬もしかり。
軍用に使う馬車も、鎧も盾もすべてだ。
11年待った。
食糧も金も、マラークの目をかすめて貯めに貯めた。
ヴァスキアの民に恨まれながら、彼らに雑穀の粥を食させてそれを冷たい顔で眺めながらだ。
ようやく戦に耐える兵站が整った。
赤毛の友の顔が眼裏に浮かぶ。
「約束を果たす時がきた」
友の浅黒い顔が、にかりと笑ったような気がした。
同じころ、マラークの王妃宮でラウラは備蓄の食糧を作っていた。
戦時に騎士に持たせる携帯食だ。
大豆を炒った粉に砂糖と炒った麦の粉、それに豆の油を少量入れて団子にする。その後蒸して乾燥させる。
およそ王妃のする仕事ではないが、ラウラにはごく普通の作業だった。
何があっても生き残れるようにと、ばば様からしっかり仕込まれている。長期間保存のきく携帯食も、飢饉の際には必要な備えだ。
食糧自給率100パーセントのマラークでは正直なところほとんど必要のない心配だが、旧ヴァスキア領は違う。平地の少ないあの地では、食糧はほぼマラークからの供給に頼っている。
いったん飢饉が起きればどうなるか。
以前まだ国家としての体裁があった頃なら、国の備蓄を放出してしのぐこともできた。けれど今ではそれもない。マラークの王宮が敗戦国の食糧事情にまで気を遣ってやるとは、とても思えない。
今年は雨が多かった。初夏から秋にかけて、晴れたと言える日は数えるほどだ。おそらく秋の収穫量はひどいものになる。
小麦、トウモロコシ、雑穀に砂糖、赤ん坊のための粉ミルクは、王妃宮の地下に常時備蓄してある。
ラウラが王妃としてマラークへ入ってから、王宮の生活費に使う費用を削減した金の一部で用意したものだ。三年備蓄した後は、ノルリアンの商会へ廉価で譲りヴァスキアへ運び込むつもりだった。
そして新しいものをまた備蓄する。
今年はその備蓄に加えて、携帯食の準備も始めていた。
気象担当の官吏から今年の収穫量予想を聞かされたこともあるが、アングラード侯爵の最近の言動がラウラになにかを直感させたからだ。
(おかしいわ)
極端に王宮へ伺候する頻度が落ちていた。
たまに会うと貼りつけたような微笑で挨拶だけを残し、そそくさと退出する。
そしてルトとテオ、彼らの様子にも違和感があった。
表面上はいつもどおりにしているが、それはいかにも努力してそうしているようで、どこか緊迫している。
(じきになにかある)
ラウラがマラークへ嫁いで、そろそろ三年になろうかという頃。
きなくさい風が吹いていた。
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