第17話 天国と地獄と

 ヴァスキアの物見の塔に、こっそり上ったことがある。

 その日の昼間、宰相ハーケに星の読み方を教わって、この季節にはとりわけ美しい星の帯が見られると聞かされたからだ。どうしても見たかった。

 今にも地上に降りこぼれそうなほどの星々が、豊かに広々と帯を成していた。今でも目を閉じれば鮮やかに蘇ってくる。


(あの銀色の帯のようだ)


 目の前の少女は、流れるように美しい銀色の長い髪をしていた。

 透き通るような紫の瞳は、母の宝石箱にあった宝石のよう。

 今の惨状を忘れて、ルトは彼女から目が逸らせないでいる。


「口、開けて」


 少女が花のように微笑んで、細く白い指で赤くキラキラ輝く何かをひょいとルトの口に放りこんだ。

 ふわりと拡がったイチゴの甘い香り。口中の飴のせいだけではない。

 少女が側にいるだけで、痛みも惨めさも悔しさも、寂しさ哀しさすべてが消えて、ただ幸せな歓びだけが心に拡がってゆく。


「あまい」


 爽やかで甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで思わずこぼした言葉に、少女はもう一度ふわりと微笑んでくれた。


「一緒にくる?」


 夢かと思った。

 ずっと一緒にいたい。離れたくない。この甘い香りが何よりも恋しくて、泣きたいほどだ。

 だから即座に頷いた。

 どうか側においてほしいと、願いをこめて。


 


 イチゴの香りの姫ラウラがルトたちを連れて行った先は、ノルリアンの王宮だった。いや正確には離宮。そこが彼女の住まいだという。


「ばば様、あなたたちにはヴァスキア太王太后陛下と言った方がいいのかしら。わたくしの大伯母なの。その方が、ここの女主人よ」


 一階の西の端、厨房へ続く別棟に使用人の部屋がある。

 その一室にテオとルトを通してくれた。


「ここなら小さいけどバスルームがついてるの」


 ルトの火傷を気遣ったのだと気づいて、酷い火傷の痛みをルトは忘れた。どきどきと心臓がうるさくて苦しい。けれど切なくてとても嬉しかった。

 後はメイドに任せろと傍の女に言われても、ラウラは首を振って手ずから汚れたルトの手当てをしてくれた。

 

「火傷がよくなるまでお風呂は我慢してね」


 ぬるめのお湯に浸したタオルで丁寧に身体を拭ってくれる。すぐに真っ黒になるタオルを三度取り換えて、また新しいタオルで頭を拭いてくれた。

 その間、ルトはカチンと固まったままだ。身動き1つできない。呼吸をしていたかもあやしい。

 ラウラの小さな手が触れる箇所が次々と熱くなって、頬に血が上る。それは悪夢の夜に蒼い炎で焼かれた熱さとはまるで違う。知らない熱だ。

 熱くて胸が苦しくなって、そして泣きたくなるほど幸せで。

 いつまでも触れていてほしいと思う。

 

「じゃ、次はテオね」


 ラウラのサクランボのような唇からテオの名がこぼれた時、胸の奥がじりりと焦げついた。

 それがテオであったとしても自分以外の男の名を呼んで、まして触れてなど欲しくない。

 幼馴染で学友で命の恩人でもあるテオを、恨めしく思ってしまう。


「自分で拭きます。俺はケガしてませんから」


 ルトの様子に気づいたらしいテオがそう言わなければ、どうなっていただろう。

 これまで感じたことのない気持ちに、ルトは戸惑い混乱した。

 ただ本能が告げてくる。

 ラウラは特別な姫だ。なにものにも代えがたい、ただ一人の人だと。

 

 


 

「エカルトよ、よう無事でいやった」


 ラウラの大伯母、ヴァスキアの太王太后エドラが、ラウラさえ下がらせる厳重な人払いをした後に、ルトを抱きしめて泣いてくれた。


「さぞつらかったであろう。よう耐えたの」


 太王太后エドラ、ヴァスキアの往年の隆盛を支えた賢妃であり、実質上の国王であり続けた女性だ。その名は幼いルトでも知っている。

 

「太王太后陛下に拝謁いたします」


 跪こうとするルトを、太王太后エドラの手が止める。

 

「よい。傷にさわる」


 曾祖母にあたる方だというのに、ルトの記憶にある母より若やいで美しい。銀の髪はラウラと同じ。瞳の色は濃い青で、銀の長いまつ毛が重たげにその上を覆う。

 ラウラより深みのある瞳の表情が、いまや奴隷でしかなくなった彼を痛ましげに思いやっていた。


「そなた、落ちのびた後のヴァスキアを知っていやるか?」


 首を振ると、さもあろうと太王太后エドラは頷いてあらましを話してくれた。

 両親はマラークで揃って殺されたという。あらかじめ密かに国境にしのばせて置いたマラーク軍が、マラーク国王の命令一下ヴァスキアに侵入したのだそうだ。

 ヴァスキアの盾ドナウアー辺境伯の獅子奮迅の働きをもってしても防ぎえず、ついにヴァスキア王都は陥落した。

 王太子の遺体を土産に携えた宰相ハーケがマラークに投降して、戦は終わった。

 今やヴァスキアはマラークの属領だという。


「王太子の身体には、始祖ドライグ様への誓紋の墨がある。ハーケめ、そなたと同じ年頃の遺体に罰当たりなことをしたらしいな」


 火傷で醜くひきつれた痕を、太王太后エドラはそっと指で撫でる。


「神官に焼かれたか。さぞ痛かったであろうに」


 誓紋の墨は神殿で施される。だから消し去るのも、神官、それも最高位の神官でなくては不可能なのだとか。

 確かにあの墨が身体にあれば、どんなに姿を変えようと言い逃れはできない。


「ハーケを恨むでないぞ。あの負け戦の元凶は、そなたの父じゃ。うかうかとマラークの罠にはまり、あろうことか夫婦ともども殺されるなど。間抜けという他ない」


 正しいと、幼いルトにもわかる。

 宰相ハーケは最後まで国王をあしざまに罵ることはしなかった。冷静沈着を絵に描いたような指示を飛ばして、王城の陥落を防ごうとしていたように見えた。

 けれどドナウアー辺境伯討ち死にの凶報には、がくりと膝をついて身体を震わせていた。二人は幼い頃からの親友なのだと、テオバルトに聞いたことがある。

 その宰相ハーケが、いきなりなんの説明もなくルトの身体を焼いた。わけがわからなくて混乱して、ハーケは裏切ったのだと思った。最後の最後でハーケはルトを捨てたのだと。

 けれど太王太后エドラの言うようにハーケがエカルトの身代わりを立てたなら、身体を焼いた理由はたったひとつだ。

 王太子の証を消してルトを落とすためだと、今ならわかる。

 そしてそこまでハーケを追い込んだのは、父である国王の無能さだとも。

 


「宰相閣下は我が父におっしゃいました。必ず殿下を落ち延びさせてヴァスキアを再興させてみせるから、だから許せと。父は笑って頷いて戦場へ向かい……、兄ともども還っては来ませんでした」


 絞り出すような声だ。ルトの少し後ろで控えたテオ、テオバルトの肩は、小刻みに震えている。


「私は閣下の命で殿下をお守りし、太王太后陛下のご指示どおりこちらへお連れ申し上げました」


 ようやくルトにも、おおよそのことと次第がわかる。

 太王太后エドラの庇護下に入ったのだと。


「よいか、エカルト。そなたはこれより王太子であることを隠さねばならぬ。そなたを拾うてきた娘、あのラウラの護衛騎士となってもらおう。そこなテオバルトと共にわたくしの騎士団で鍛えさせる」


 ラウラの護衛騎士と聞いて、ルトは自分の置かれた状況を一瞬忘れた。

 願ってもない役目だと。

 けれどその直後、太王太后エドラの一言がルトを地獄に叩き落した。


「ラウラはマラーク国王の婚約者じゃ。そなたらにはマラークへ共に行ってもらう。しっかり励みや」


 婚約者。あの姫の。

 目の前が真っ暗になった。

 

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