第二章 ヴァスキアの王子

第16話 亡国の王太子

 八年前の夏の終わり、エカルトは薄暗い木製の檻の中にいた。

 食事も寝台も排泄の場所さえない、湿って不潔な空間だ。

 右半身の火傷がただれて熱をもって、ひきつれるような痛みが絶え間なく襲う。


「殿下、どうぞご辛抱を」


 うめき声を懸命に抑えるエカルトの耳元で、テオバルトが囁く。エカルトの幼馴染で学友でもある彼は、武術の師であるドナウアー辺境伯の次男だった。

 エカルトの故国ヴァスキアは滅びた。

 悪夢の夜、冷徹な表情かおをした宰相ハーケ侯爵の命で、エカルトの右半身は焼かれた。最高位の神官の手による青い炎がエカルトの身体を覆い、あまりの痛みに気を失ってしまう。そこからどう逃げ出したものか、エカルトは憶えていない。

 気がつけば檻の中にいた。

 ここにテオバルトがいるということは、彼がエカルトを連れ出してくれたのだろう。


「テオバルト、ここはどこだ?」

「奴隷商の檻でございます」

「奴隷……。俺は奴隷になったのか」


 奴隷とは最下層の身分だと、学問の師であった宰相ハーケ侯爵から教わった。犯罪者への刑罰として奴隷に落とされる他、親が子を売る場合にもそうなる。けれどヴァスキアでは太王太后エドラ様の御名で、人身売買は固く禁じられていたはずだ。もし禁を犯せば、極刑に処せられたはず。

 けれどそうだ。ヴァスキアは負けたのだった。戦に敗れれば、それまでの法などなんの価値もない。弱肉強食の残酷なルールが代わりに世を支配する。

 敗戦国の貴族の子弟、特にエカルトのような幼い子供はまっさきに狙われる。よい教育を受けているが、まだ大人に抵抗するだけの力がないから。

 親を失くし故国を失くし、自由も失くしたのか。


「殿下、これより先はどうか御名とご身分をけして口になさいませんように。知れればお命が危うくなりましょう」


 呆然としているエカルトに、これからはルトと名乗れとテオバルトは言う。自分のことはテオと呼べと。


「おそれおおいことではございますが、殿下は私の弟ということにさせていただきます。言葉遣いも改めますので、どうかお許しください」


 声をひそめながらの必死の形相に、エカルトはわかったと頷いた。生きるため、生き延びるためなのだと理解したからだ。


「何があっても俺がおまえを護るから。だから安心してついてきてくれ」


 兄のテオがルトの頭を抱き寄せる。その腕にもあちこち切り傷があって、鉄臭い血のにおいがした。


「いつかヴァスキアに戻る日が来るから。それまで我慢しろ」


 戻る日が来る。そんな日が本当に来るのだろうか。

 王城は陥落し、宰相ハーケ侯爵もどうやら裏切ったらしいというのに。


「信じろ、きっと帰れる。諦めたらそこで終わりだ」


 ルトはまだ七歳だった。幼いと言って許される年齢だと思う。その彼にテオは難しいことを求める。

 何もかもすべてを失くしたばかりの彼に、我慢しろ、泣くな、諦めるなと。

 そんなの無理だと泣けたらどれだけ楽だろうと思うが、結局できなかった。


「王太子殿下、殿下はけして人前でお泣きになってはいけません」


 師であった宰相ハーケ侯爵、ドナウアー辺境伯がそろって教え諭したことだ。知らぬ間に身に沁みついている。

 わかったと短く応えたルトには、テオを思いやるゆとりがなかった。

 テオは10歳だ。

 わずか三歳しか違わない。泣きたいのを必死にこらえているのは彼も同じであったのに。



 その後はひどいボロ馬車に載せられて、陸路を長々と揺られた。

 何日過ぎたのだろう。ひと月かもっとかもしれない。時間の感覚がまるでなかった。

 ガタガタと大きく揺れる荷台は板張りで、車輪の衝撃がそのまま伝わってくる。汚物で濡れた板がいつのまにか生乾きになって、また濡れる。それを繰り返し繰り返すうちに、いつか時間を気にする無駄をルトは手放していた。

 化膿してじくじくする傷は相変わらずつらくていつも気分は悪かったが、既に吐くものもないくらい胃の中は空っぽだった。うめき声を出す余力もない。ただくたりと荷台の床にへたり込んで、膝を抱えて丸まっていた。

 

 古びた幌で外の景色は見えなかったが、外の空気のにおいは入ってくる。

 焦げ臭い硝煙や血の匂いの風が止み、清潔な木々の香りが入ってきて、やがて賑やかな街の雑多なにおいが入って来て、馬車は停まる。


「降りろ」


 幌が外されて、手かせの鎖を乱暴に引っ張られる。そのまま引きずり出され、路上に放り出された。

 膿んでただれた右半身がひきつれて、痛みに顔が歪む。


「ルト、しっかりしろ」


 駆け寄って抱き起してくれたテオに、大丈夫だと言おうとして驚く。

 テオの姿が違っていたから。

 テオ、テオバルトはドナウアー家特有の燃えるような赤毛に陽気な緑の瞳をしていたはずだ。けれど今、ルトを抱き起してくれている少年は濃い茶の髪に同じ色の瞳をしている。


「テオ……」


 目を見開いたルトの表情でテオは察したらしい。黙っていろと首を振ってみせた。

 まさかと信じられない思いで、ルトは木綿糸のようになったぼさぼさの髪を掴んで確かめる。

 垢や脂、埃や血に泥それに汚物、そんなものにまみれていたからか。

 

(これが俺の髪?)

 

 黒ではなかった。濃い茶の、テオと同じ色だ。

 では目の色もそうなのか。父譲りの金色の瞳も、今はきっと違う。

 ヴァスキアの王都を落ちたあの夜、ルトは親と故国だけでなく真の姿と名前も失くしたらしい。

 

(俺はもう俺自身ではいられない)


 奴隷に落とされて、名前も姿も奪われて、それでもテオは生きろと言う。

 空腹も過ぎると感覚がなくなるのか、今は固形物よりも水が欲しかった。長い道中に一度も水はもらえず、とにかく喉が渇いて仕方ない。

 こんな惨めな有様でもまだ生きている。

 簡単には死ねないものだと子供らしくないことを思っていると、突然乱暴に抱き寄せられた。


「少しの間だ。絶対に声を出すな。我慢してくれ」


 何をと問い返す間もなく、ルトの背に衝撃が襲い来る。火傷の上をしたたかに打ち据えて、それは二度繰り返された。

 三度目からはテオがかばってくれた。その背を鞭に向けて、ルトをまるごと隠すようにして。

 なにが起こっているのか。なぜこんな目にあうのか。

 混乱する頭はぐちゃぐちゃで、ただ悔しく惨めで怖ろしく身体が震えた。


「なにをしているの」


 透きとおるような声が降る。

 瞬間、恐怖とはあきらかに違う衝撃がルトの身体を貫いた。

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