発狂寸前!癒やされライティング【短編集】
鴻上ヒロ
ダメな大人と死にたがり女子高生
目覚めると、拓夢の目の前に大きな膨らみがあった。おっぱいだ、と一目見ただけで気づくも、なぜ目の前にそれがあるのか、皆目検討がつかない。自然と伸びそうになった右手を左手ではたき落とし、それの持ち主であろう誰かの顔を見ようとするも、視界におっぱいしかなく、思わず息を漏らす。
ふと、後頭部に確かな温もりと柔らかな感触があることに気づくと、拓夢はどうしていいかわからず、チラリと視線を横へとやった。豊かな自然に囲まれた噴水が見えて、ここが公園のベンチだと悟ったはいいが、状況はとんと見えてこない。夜も更けているものだから、余計に眉間にしわが寄る。
「あの……」
それの持ち主であろう誰かに声をかけると、再び視界の中心へと戻ってきたものが揺れる。
「あ、目が覚めました?」
「あっはい」
その持ち主の声は、真夏の縁側で揺らいでいる風鈴のようだった。
身じろぎして双丘をうまく避けて起き上がると、聖母のごとく温かな笑みを浮かべる女性が隣に座っている。その瞳はガラス玉のごとき綺麗さだ。思わず息を飲むと、彼女は拓夢の頭に手を伸ばし、撫で始めた。
しかし、彼は彼女のことをまるで知らない。その手には確かな温もりを感じるものの、知らない人物に膝枕をされた挙げ句、起き上がれば頭を撫でられる今の状況に、拓夢はどうしたものかわからず、縮こまってしまう。
「あの、何がどうなってるんです?」
「覚えてないんですか?」
「ええ、まるで」
「私がここでぼうっとしていたら、急に目の前で倒れたんです」
試しに記憶の引き出しを探ってみるも、出てくるのは仕事のことばかりだった。仕事の最中に付き合っていた女性から別れ話を切り出され、営業職からは大量の仕事を発注され、発狂寸前の中残業をし、会社を出たところからまるで記憶に無い。頭を掻いてみても、フケが溢れるだけで記憶は溢れてこなかった。
「なんだか死んでしまいそうな疲れ切った顔に見えました」
「……俺が?」
彼女が拓夢の頭から手を退けて、彼を見つめる。真剣そうな眼差しに射すくめられ、拓夢は目を逸らせずにいた。
――嘘ではなさそうだ。
そう思いながらも、未だに胸中には靄がかかる。確かに仕事も恋愛もうまくいかず、今すぐどこか遠くの街へと逃げ出したいような心持ちではあったが、死にたいなどとは微塵も思っていなかった。
「なぜ俺が死んでしまいそうだと?」
わからなかったから、聞いてみることにした。拓夢が尋ねると、彼女は眉根を寄せる。何かまずいことを聞いただろうか、と彼は思った。ところが彼女の表情が先程までと同じ柔らかなものになったように感じ、拓夢は首をひねりたい思いに駆られた。けれど、先程までと同じはずの彼女の顔が、どことなく変わっているようにも思える。
「私も、死にたいと思ってましたから」
彼女の口から発せられた言葉が、何度も拓夢の脳内にこだまする。呟きのようであり、しかしハッキリとした口調で語られた彼女の言葉に、拓夢は強い意志のようなものを勝手に感じ取ってしまった。意図せず、息が漏れる。口を開いては閉じを何度も繰り返し、けれど彼女の顔から目を逸らせずに、固まってしまう。
「と、とりあえず、酒でも飲みます?」
ようやく出た言葉は、そんな陳腐なものだった。彼女は一瞬目を大きく見開き、その後すぐにクスクスと笑い、目を細める。
「いいですけど、私未成年ですよ?」
「え」
「もう、メンタル崩してとりあえずお酒なんて、ダメな大人ですね」
その言葉に、拓夢は思わず吹き出してしまった。
「ダメな大人ですから」
「じゃあ、行きましょうか」
彼女が立ち上がり、拓夢に手を差し出す。
「行くって、どこに?」
「もちろん、あなたのお家です。お酒、飲むんでしょう?」
その手を取っても良いものか――少しだけ逡巡しながらも、拓夢は彼女の手を取り、立ち上がった。
「ふふ。名前も知らない女子高生を家に上げてお酒を飲ませるなんて、変な人ですね」
「……ダメな大人ですからね」
「あはは、そうでした」
唐突に吹いた風に、彼女の長い黒髪が煽られ、胸の奥を締め付けるほどの甘い香りが拓夢の鼻孔をくすぐる。目を細めて笑う彼女の顔が目に焼き付いて離れない。
「死にそうなもの同士、仲良くしましょうね」
「別に俺は……いや、そうですね」
彼女の小さい手は、拓夢の大きな手をしっかりと握って離さない。二人はそのまま、夜の公園から追い立てられるようにして出た。
「私があなたを死にたくなくさせてあげます」
「こっちのセリフですよ」
二人して笑いながら、誰もいない夜の道へと吸い込まれていく。拓夢の心にはもう、靄はかかっていなかった。
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