第22話

 小さく溜め息を吐くと、蓮がビクリと肩を震わせた。


「…………だってさ、おかしいじゃん、こんなの……。俺は友達なんだから、幸せになるのを誰よりも喜んでやらなきゃいけないのに、デートの為に音楽の時間潰されるのムカつくし、八つ当たりしても見放さないで『練習しよう』って言ってくれんの嬉しいし、でも音が優しいのは彼女に会って癒やされてきたからなのかなって思ったらやっぱりムカつくし……。なんだこれ、もう嫌だ……俺に、どうしろって言ってんだよ……っ」


 ボソボソと、呪詛のように独り言を唱える蓮。小さ過ぎてほとんど聞き取れない。


「聞こえねえよ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」

「……何もないよ。お前に、言いたいことなんか、何も……」


 短気だとか下手くそだとか、文句があれば遠慮なく言ってくるこいつが、何もないと言っている。何かしら思うところはあるのだろうけれど、少なくとも今、俺にぶつけて解消できる類のものではないようだ。本人に答える気がない以上、俺が気にしていても仕方がない。


「あっそ。じゃあ、練習戻ろうぜ」

「……練習は良いけどさ、もうほとんどお前の問題じゃん。そっちが方向性決めてくれないと、こっちだって合わせられないよ」

「うん、だからさ、お前にはこの曲がどんな風に聴こえてるのか、参考までに教えてほしいんだ。前にも訊いたと思うけど」


 前に訊いた時は、はぐらかされた。受け取り方は人それぞれだとか言っていたから、こいつにはこいつなりの解釈があるのだろう。それを話し合うのは、決して悪いことではないはずだ。


 藁にも縋る思いで尋ねた俺を、蓮が乾いた声で嘲笑う。


「本当に何も想像できないの? だって、ラブレターだよ? 大切な人を想って書く手紙だ」

「それは分かってるよ。愛情を込めてるから、こんなに穏やかな曲調なんだろ? でも、だったらなんで――」

「恋愛とか、友愛とか、家族愛とか、そういうのって、綺麗なものばっかりじゃないからね。突然失うことだってあるし、相手の幸せを考えたら伝えちゃいけない想いだってある」

「何言って……」

「例えば、こういうことだよ」


 蓮の指が、再び鍵盤に乗せられる。俺も慌ててトランペットを構えようとしたが、こちらに見向きもせず、自分のペースとタイミングで曲を弾き始めた姿を見て、腕を下ろした。たぶん、合わせて吹けということではないのだと思う。


 頭の静かな旋律を、右のペダルを踏み込んで豊かに伸ばし、より情緒のある響きへと変えていく。残響と新しい音が重なって、楽譜に記されているCalm sea(穏やかな海のように)の指示を忠実に再現していた。そして。


「――ラーラーラ~ララララララ~」


(……!)


 両手で伴奏を続けながら、トランペットのパートも自分の口で歌い出した。


 音程も正確だし、変に気を取られて指が転ぶこともない。ビブラートを利かせた甘いテノールが、ピアノと共に心地好く響いてくる。今までしみじみ聴いたことはなかったけれど、こいつ弾き語り、うまっ……。


 驚いてポカンとしてしまったものの、すぐに我に返った。蓮は何も、自身の技術を自慢する為にリサイタルを始めたわけではないだろう。集中しろ。ちゃんと意図を汲み取れ。


 凪いだ海を連想させる、穏やかな調べ。俺が音源を聴いて感じたものと大体同じ。序盤はイメージを共有できている。


 様子が変わったのは中盤、Secret episodes(秘密の思い出)の記載があるパートに入ってからだった。


 テンポが速くなったり、伴奏に強弱がついたりするのは譜面通りだが、主旋律をなぞる蓮の声が、揺らぎ始めた。ビブラートじゃない。頼りなく震えている。


 序盤ほど声が伸びなくなって、音の区切り方も粗くなっていく。そして、この曲の山場。Overflowing emotion(溢れる感情)のパートにある、ピアノがクレッシェンドした先でトランペットが高音を伸ばす部分では、掠れた地声で歌とも呼べない音を、ただ叫んでいた。


 まるで激痛に喘ぐような、もがき苦しむような、助けを求めるような。悲愴に溢れた絶叫が、防音室に木霊する。これがラブソングだなんて、一体誰が分かるって言うんだ。


 曲は序盤の静けさを取り戻し、緩やかなフィナーレへと向かっていく。最後にも長く伸ばす高音が出てくるものの、掠れて、震えて、ボロボロだった。聴いているのも苦しくて、涙が滲みそうになる。絶対に、こんな曲ではないはずなのに。


 演奏が終わった。声をかけて良いのかも、そもそもなんと声をかけるべきなのかも分からない。静寂の中、やがて蓮が口を開いた。


「……お前は『穏やかな曲だ』って言うけどさ。俺には、やりきれない気持ちを抱えてのた打ち回ってるように聴こえる。気持ちの逃げ場所を探して筆を執ってるように思えるんだ。自分の中だけでは消化しきれないけど、言葉にして伝えることもできないから、誰にも届ける宛てのない手紙に、必死で吐き出してるんじゃないか、って。……お前の音で、助けてやってよ。……なあ!」


 蓮が、両手で強く鍵盤を叩いた。


「助けてくれよ、航大!!」


 でたらめな不協和音が鳴り響く。耳に痛いその音が、俺の全身をビリビリと揺らした。


(……なんで)


 なんでだよ。ラブレターだって言ってるだろ。愛情を込めて書く手紙なんだよ。それなのに、なんでそんなに、苦しそうに歌うんだ。お前の中で「愛情」って何なんだよ。そんなに自分を苦しめてくるものなのかよ。


 思うことは、いろいろある。でも、どれも上手く言葉に変換できない。もどかしい気持ちで立ち尽くしていると、


「――みたいな解釈で吹いてみるのも、面白いんじゃない?」


 そう言って、蓮がへらりと笑った。演奏中の悲愴な雰囲気はどこにもない。


「…………え?」

「分からないなら、いろいろ試せば? って言ってんの。しっくりくるのが、そのうち見つかるでしょ」

「いや、お前……」

「後はもう、本番まで個人練習で良いよね? 俺もいろんなパターンで弾けるように練習しておくからさ、航大もどこかで楽器OKの場所借りるとかして練習しといてよ。中途半端な演奏するようなら、途中でピアノのソロ曲に切り替えて俺の舞台にしちゃうから、そのつもりでね」


 意見を挟む余地が与えられず、柔らかい口調で押し切られてしまった。へらへら笑う表情は、いつも通りのようでいて、少し違うような気もする。どこが違うのかと訊かれても、説明できないけれど。


 それから本番までの間、本当に合奏の予定が組まれることはなかった。休日や祝日も、定時で上がれた平日も、合同練習の承認は得られないままだった。

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