第15話
二人で揃って会社を出た。もうだいぶ暗くなっている。
資料を一文字一文字じっくりと読み込んでいたから、とんでもなく目が疲れた。肩も首も痛い。そして腹が減った。
「あの、井口さん。今日は本当に、ありがとうござました!」
「おう、気にすんな。普段やらない作業に触れられて、勉強になったわ。新藤もお疲れ」
「お疲れ様です!」
ガバっと勢いよく頭を下げる新藤に、少し笑ってしまう。運動部の先輩後輩って、こんな感じなのかな。微笑ましいんだけど、外では止めてくれねえかな。通行人が何人か振り返ったぞ。
「疲れたなー……。あ、どっかで飯でも食ってく?」
「え」
部活帰りの買い食い気分で誘ったら、新藤が驚いた様子で顔を上げた。
「ああ、でも、あんまり帰るの遅くなってもアレだよな。もう暗くなってきてるし……」
「い、いえ! 行きたいです! 私の家、徒歩圏内なので全然問題ありません!」
「あ、そうなの? じゃあ、行くか」
「はい!」
電車を一本逃しただけで、通勤時間が数十分単位で変わる田舎町だ。しかも夜間は、終電が近付くにつれて本数が減っていく。残業した上に寄り道までしていたら、帰宅が何時になるか分からない。……ということに、誘ってから気付いてしまったが、家が近いなら問題ないか。
元気な新藤と一緒に、適当な店を探した。
自覚していたよりもだいぶ空腹で、「もう食えればなんでも良くね?」みたいな状態になっていた俺たちは、たまたま目に入った定食屋で腹を満たした。
店のメニュー表にはアルコール類の記載もあったが、俺は味が苦手で酒全般が飲めないし、新藤もあまり強くはないらしいので、二人ともソフトドリンクだ。なんとも色気のない光景だが、そんなことより食欲を解消するほうが、今の俺たちにとっては重要事項だったのである。
仕事の話も、そうじゃない話も挟みながら、和やかな時間を過ごした。粗方、食事が終わったところで、新藤が手洗いに行くと言うから、俺はその間に会計を済ませておいた。店を出る時にレジでごちゃつくの、嫌だし。
会計が終わってもまだ新藤は戻っていなかったので、手持ち無沙汰でスマホのロックを解除した。すると、ホーム画面にLINEの通知が表示される。蓮からだ。
『今日、定時で上がれそうなんだけど、そっちはどう?』
数時間前に来ていたらしいそれを見て、「やべ……」と口から零れる。忙しくてスマホを見ている暇がなかったから、気付かなかった。今さらだけど、返信はしたほうが良いよな……。
『悪い、今気付いた』
『残業して、そのまま同僚と飯食ってた』
簡潔な状況を打ち込むと、それほど間を開けずに既読がつき、同じく簡潔なメッセージが返ってくる。
『了解。お疲れー』
『平日だと予定合わせるの難しそうだし、練習は休日だけにしよっか』
最後に、よく分かんねえキャラクターがムカつく顔でこちらを指さす謎のスタンプが送られてきたので、俺も了承の意を示すスタンプを押してトーク画面を閉じた。
演奏会まで一ヶ月半くらいあるけれど、その内、合奏できるのが休日だけとなると、あまり余裕はない。曲自体はシンプルなのが、せめてもの救いか。
そのままスマホを操作して、前にダウンロードした「Trumpet Love letter」の楽譜を開く。小さいから見づらいが、ほとんど暗譜しているので問題ない。
左手でスマホを持ち、右手でトランペットを演奏する時のように指を動かした。頭の中ではもちろん、指に合わせて音が鳴っている。でも、譜面がシンプルだから、運指(演奏時の手や指のポジショニング)を確認するだけじゃほとんど練習にならない。ああ、楽器が吹きたい。
「すみません、お待たせしました。……何してるんですか?」
戻って来た新藤が、不審な俺を見て首を傾げた。ハッと我に返り、スマホをしまう。
「ああ、楽譜見てたら指も動いてた。止めてくれて助かったわ。たぶん俺、だいぶやべえ奴だった」
「ふふふ、遠目でも『やべえ奴』感が出てましたよ。トランペットやってるんでしたっけ?」
「おお。演奏会も控えてるから、なるべく練習したいんだけど、時間と場所がなぁ……」
「働きながらだと大変そうですね」
「そうなんだよ……」
酔っ払っているわけでもないのに、グダグダくだを巻く。程よく相槌を打ちながら水を勧めてくれる新藤は、出来た後輩だなと思った。明るくて素直だし、なんとなくモテそう。
ふと、最近俺の頭を占拠している疑問が、口をついて出た。
「……新藤ってさあ、ラブレター書いたり貰ったりしたことある?」
「ええ!? ラブレター、ですか? 唐突ですね……」
「今度の演奏会で吹く曲がラブレターを題材にしたやつなんだけど、上手くイメージが掴めなくてさ」
「な、なるほど……? それで、市場踏査ですか。ううん……私はないですね。告白なら直接するほうが、相手に気持ちが真っ直ぐ伝わる気がするので」
「だよなあ。俺もそう思う」
難しいな。やっぱり、自分で考えて答えを出すしかないのか。いろいろ吹いて試したいのに、時間もねえし。あーあ、課長に会いたくないからって理由で有給申請出してやろうかな、ちくしょう。
互いの飲み物が空になったタイミングで、店を出ることにした。席を離れ、レジも素通りする俺に、新藤が慌てて声をかけてくる。
「え、あれ? 井口さん、お会計は?」
「ああ、もう済ませてある」
「ええ!? ごめんなさい、自分の分は払います! いくらですか?」
「別にいいよ」
「良くないです! 奢らせる為に『行きたい』って言ったわけじゃないのに……!」
「分かってるよ。でもほら、俺も職場ではまだまだ下っ端だからさ。たまには先輩風ふかせてみたかったんだよ。付き合わせて悪いな」
「っ…………。井口さん、優しいですね」
「そうか? 普通だろ」
「……そうですか」
ぽつりぽつりと話していたら、あっという間に駅に着いた。俺が乗る下りの電車は、あと十分後に来るらしい。少し寒いけれど、十分ならまだマシか。
また明日、と言うつもりで振り向くと、新藤が定期券の入ったパスケースを取り出しているところだった。……あれ?
「お前、徒歩圏内って言わなかったか? なんで定期……?」
混乱する俺に、新藤が少しだけ頬を赤らめながら笑いかけてくる。
「……井口さんとご飯行きたくて、嘘ついちゃいました。ごめんなさい」
「え」
「電車で一駅ですし、駅と家もそんなに離れていないので、ご心配には及びません。今日はいろいろ、ありがとうございました。お疲れ様です」
「あ、ああ……お疲れ……」
ガバっと頭を下げると、そのまま新藤は改札を抜けて行ってしまった。俺とは逆方向の電車に乗るようだ。
タイミング良く電車が来て、彼女の姿はすぐに見えなくなった。
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