第14話
(あー…………)
倉庫での備品の在庫確認を終え、一人で廊下を進む。知らないどこかの部署の人とすれ違い、お互い機械的に頭を下げ合ったが、視界から外れた瞬間にその人の顔は忘れた。たぶん、相手のほうも同じだろう。
週末の貴重な練習時間が潰れた上に、俺は未だ曲想を掴み切れていないままだ。そして、蓮ともあまり話せていない。
なんだろうな。なんかこう、上手くいかないと言うか、いろんなことがちょっとずつ噛み合っていないと言うか。モヤモヤする。
(一人で悶々としてても、仕方ねえんだよなあ)
曲は練習しないと上達しないし、蓮のことは本人と話さないと解消できない。どちらにしても、あいつに連絡を取る必要がある。今日は珍しく残業なしで帰れそうだし、声かけてみるか。スマホは……あ、やべ、デスクに置いてきてる。
善は急げと足早に総務部の部屋へ戻り、出入り口の扉を開いた。
「いえ、ですから、これは私の担当ではないので、やり方が……」
「担当者がいないのだから、誰かが代わりにやらなければならないだろう。作業量で考えれば、お前が一番、手が空いているはずだ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「そうだろう? それじゃあ、頼んだぞ」
「……は、はい……」
な、なんだ? 騒然としているかと思ったら、今度は一気に静まり返った。課長が何か指示をして、指示された新藤が肩を落としている。ああ、これはたぶん、良くないやつだ。
俺は真っ直ぐ新藤のデスクへ向かった。
「お疲れ様。どうかしたのか?」
「井口さん、お疲れ様です……。あの、営業から回ってきた書類の確認を頼まれたのですが、やり方が分からなくて……」
「営業から? ちょっと見せて」
しょんぼりした様子の新藤から、紙の束を受け取った。他社との契約内容を記した書類に、ところどころ付箋でメモのようなものが貼ってある。
「うわ……確認って、リーガルチェックか。こんなもん、新人に丸投げするなよ……」
リーガルチェックは、提携先との契約内容に対して、法律的な問題や自社とのトラブルになりそうな点がないかを確認する作業だ。必要があれば他の部署や、弁護士と連携を取る必要性も出てくる。大手企業なら法務部が担当するものだが、法務部がない中小企業なんかでは総務部が担当しているケースも多い。ウチの会社みたいに。
とは言え、内容が専門的なので、ウチの総務部でもこれは専任の担当者が決められている。ただ、確か今日はその担当者が病欠なのだ。たぶん、他の皆も、内容が内容だったから気軽に「自分がやります」と助け船を出せなかったんだろう。
「どうせ課長だって分かんねえだろうし、担当の溝口さんに聞かなきゃ進められないよな。溝口さん、起きてるかな……」
「あ! 連絡くらいなら、私がやります!」
「いや、いいよ。俺がやる」
自分のデスクへ戻ってスマホを手に取り、普段リーガルチェックを担当してくれている先輩の連絡先をタップする。もしもまだ具合が悪くて寝込んでいた場合、俺は仕事を休んだ病人を、仕事の為に叩き起こした薄情な後輩になるのだろう。新藤にこの役をやらせるのは可哀想だ。
「…………もしもし、お疲れ様です。お休みのところ、すみません。具合、どうですか? ……あ、そうなんですか。それなら良かったです。で、あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、今大丈夫ですか?」
良かった。溝口さん、それほど重症ではなさそうだ。なるべく手短に用件を伝えて、必要な情報を教えてもらい、「お大事に」と添えて通話を切った。
「新藤! 溝口さんのデスクの引き出しに、参考資料とか過去の事例とかがまとめて入れてあるから、使って良いって!」
「は、はい! ありがとうございます!」
「俺も自分の仕事片づけたら手伝うから、分かるところだけ進めておいて」
「え!? いえ、そこまでしていただくわけにはいかないです! 井口さんの仕事じゃないのに……」
「本来は、お前の仕事でもないじゃん。俺も担当じゃないからあんまりテキパキ捌けないけど、手分けしたほうが絶対早いし、相互確認できてミスも減らせるだろ」
「っ……ありがとう、ございます……!」
慣れない作業は、ミスが出て当たり前。新人なら尚更だ。そんな時こそ、先輩を使えば良い。溝口さんも、いつでも連絡して良いって言ってくれてたし、どうにかなる。
俺と新藤は残業確定コースで、課長は定時きっかりに帰りやがったが、周りの皆もちょこちょこ手伝ってくれたおかげで、なんとか当日中に必要な作業を終わらせることができた。
練習も話し合いもできなくなってしまったけれど、仕事の場合は仕方がない。一応、社会人だし。あいつと話すのは、いつでもできることだし。たぶん。
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