第25話「決死の逃避行」

 女子トイレで手を洗いながら、神無月八尋はひとり落ち込んでいた。


 ……フィーネさん、すっごい美人だった……。

 異世界からやってきたという不思議な人。

 異世界の話の信憑性しんぴょうせいがいかほどのものかはさておいて。

 八尋にとって最も重要なのは、あんなに綺麗な女性が悠真の家で一緒に生活しているという点だった。

 悠真がどうしようもないシスコンとはいえ、立派な男子高校生だ。大人の女性の色香にくらっと負けてしまうとも限らない。

 そうでなくとも、一つ屋根の下での共同生活だ。どんなトラブルやハプニングがラブコメイベントへと発展してしまうかわかったものではない。


 ――それに比べて、自分はどうだ。


 悠真と八尋が知り合ったのは中学生のときだ。二年生の頃からクラスが同じだったとはいえ、それだけだ。

 幼なじみとは呼べず、親友とも少し違う……親しい女友達という微妙な距離感。

 これでも自分のことはそれなりに客観視できているつもりだ。

 大雑把な性格で、男勝りな負けず嫌い。容姿にはそこそこ自信はあるものの、それも同級生と比べての話。年上の本物の美人に勝てる要素なんてどこにもない――。


「はぁ……なんて顔してるのよ、私」


 鏡に映る自分の顔を見て、八尋は余計に気分が滅入ってしまう。

 自己分析すればするほど、自分のことが嫌いになりそうだった。

 藤代家とはそこそこ付き合いの長い八尋だが、未だに悠真に対する自分の気持ちをはっきりとさせることができずにいた。

 ……そもそも、これって本当に恋なのかな。

 沙希のことがきっかけで知り合ったがゆえに気にかかっているだけなのか。

 それとも、ひとりの男の子として好意を寄せているのか。

 八尋はこの恋とも友情とも知らぬ感情の名前を探しては、うやむやにしてしまう自分に対しほとほと呆れていた。

 今の関係性が心地よいと感じているのは確かだ。

 自分が何も言わなければ、少なくとも高校を卒業するまでは、このままでいられる。

 しかし、環境は変わりつつある。

 フィルフィーネのことを抜きにしても、悠真たちはもう高校二年生だ。夏が終わるころには本格的に受験のことを考え始める時期だ。

 変わりたくないと思っていても、時は止まってはくれない。

 選ばなければいけないときが、いつか必ずやってくる。

 否応にも迫られる選択を前に、八尋はただ目を瞑ることを選んできた。


 ――また、繰り返すの?


 鏡の中の自分が、そう問いかけているような気がして、八尋は目を逸らした。

 トイレから出てフードコートへと戻る途中、唐突にある衝動にかられた。


「……甘いもの食べたい」


 考えすぎて疲れたのか、体が糖分を欲しているようだ。

 疲れた頭で考えても、ろくな答えは出てこない。

 今はもう少しだけ、この時間を大切にしたいと思って、八尋は悠真たちが待つ席へと戻った。


「ねぇ悠真ー、ちょっとアイス食べたくなっちゃった……ってあれ、悠真?」


 けれど、そこに居るはずの友達の姿はどこにもなかった。

 悠真だけではない。沙希もフィルフィーネもどこにもいない。


「うっそ……マジ?」


 友人たちが荷物だけを残したまま、忽然と姿を消してしまっていた。


  †


 フィルフィーネをしんがりに残し、一時別行動をすることとなった悠真と沙希は、敵以外誰もいなくなった『オール・モール』の中を無我夢中で走っていた。


「はぁ、はぁ……っ! がんばれ沙希、もう少しだ!」

「う、うんっ……!」


 悠真たちが当初目指していたエスカレーターには、すでに複数の魔術師たちが待ち構えていた。

 フィルフィーネのいない状態でまともに戦っても勝ち目はない。

 プランを切り替え、悠真は他のエスカレーターを目指すことにした。

 『オール・モール』は四階建てとさほど高くはないが、その敷地面積の広さを盛大に使って、東西に伸びる形で建てられている。横に広すぎるためか、階層を移動するためのエスカレーターは、各階に三つずつ設置されている。

 悠真たちがスルーしたのは、四階から三階へと降りるための西側のエスカレーターで、今は中央のエスカレーターへ向かっている。

 外への出入り口は、四階より上の立体駐車場へ接続するエレベーターとエスカレーター、もしくは一階の出入口が東と西、そして中央に一つずつある。

 エレベーターはこの結界の中で動くかどうかわからない上に、降りるところを待ち構えられては逃げ場がない。あまりにもリスキーだ。エレベーターの利用は避けるべきだろう。

 ……今はとにかく走って安全な逃げ道を探すんだ。


「見えた。中央のエスカレーターだ」


 周囲を軽く観察するが、見える範囲に人影はないように思えた。

 この広い建物全体をカバーするだけの人員が用意できなかったのだろうか。

 悠真はこのチャンスを逃す手はないと、急いで下へ降りようとした。


「――あっ⁉ お兄ちゃん、上! 上ッ!」


 沙希の叫び声にはっとして、上へ伸びるエスカレーターを見る。


「いたぞ、例の少女だ!」


 ちょうど四階から下へ降りてきている最中の魔術師たちに見つかってしまった。

 魔術師たちは沙希を捕まえようと、エスカレーターを走って降りてくる。

 ……どうする、一旦引くべきか? でも東のエスカレーターにも敵がいたら挟み撃ちされて終わりだ。それにもう他に下へ行く方法を探してる暇は……っ。


「沙希、先に降りろ!」


 一瞬の逡巡しゅんじゅんの末、悠真は沙希を先に下へと送り出すことを選択した。


「お兄ちゃんは⁉」

「ここで少しだけ時間を稼ぐ。いいから行け! すぐ追いかけるから!」


 悠真の叫びに沙希は迷った。

 彼女の中にある数多くの異世界知識が、それだけはやってはいけないと警鐘を鳴らす。

 ……私が残って足手まといになるのが一番ダメ。だから……怖くても行くんだ……っ。

 沙希はつばを飲み込むと、意を決してエスカレーターを降りて行く。


「……下で待ってるから、絶対追いついてきてよ! 絶対だからね!」


 途中、何度か振り返りながら悠真に檄を飛ばして。

 ……勝手に人の死亡フラグ立てるんじゃねぇよ。


「そこを退け!」


 先頭に立っていた魔術師が右手を横へ払うと、風の刃が悠真へ襲いかかった。


「マジかよ……! うわああっ⁉」


 魔術師の動作に注意を払っていた悠真は、エスカレーターの前から身を投げ出して床を転がった。

 かすっただけで服のすそが綺麗に切断されていた。

 刻印魔術は詠唱を必要としない。簡易な魔術においては起動呪文すら必要とせず、魔力を流すだけで使用できてしまう。

 そんな攻撃、一体どうやって身を守ればいいのか。

 フィルフィーネの話を聞いた時から、どう対処すればいいか考えていた悠真は、一つだけ対策を思いついていた。

 ……相手のモーションを見て、次の魔術を察知するしかない!

 敵を狙って魔術を放つのならば、何かしらの動作を伴うはずだ。視線が動いたり、腕を振ったり、足を踏み込んだり……その動きを見極めれば、対処できるのではないかと考えた。

 究極的には、魔力の流れを見極めれば……相手が魔術を使うタイミングを読み取ることができるかもしれないが、そこまでの戦闘経験は今の悠真にはない。

 だが、悠真にできる対策としては、間違いなく最善と言えるものだった。

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