慶応二年(1866年)夏から冬

第43話 横濱ならでは


「むー。むー」

「牛の鳴き真似はやめてください」


 平静をよそおって宇賀が注意した。抑えている気持ちは呆れか、笑いか、恥ずかしさか。


「だってねえ、貸し馬と貸し馬車だったのが、いつの間にか牛を飼っているんだもの。リズレーって人は本当におもしろいよ」


 くすくす笑いながら弁天が言うと、むももー、と柵の向こうで牛が鳴く。まるで同意するようだった。


 ここは前田橋から居留地に渡ってすぐ、つまり先年を食べに行った時に見たリズレーの氷屋のある区画だった。

 今でも氷屋はある。しかし馬が飼われていた庭に今は牛がいて、店では氷と一緒に牛乳が売られていた。いかにも搾りたてっぽく見せる手法はさすが興行師で、その甲斐あって繁盛しているらしい。流行りに乗り、今日は弁天も牛乳を試してみたところだった。


「牛の乳も美味しかった!」

「……肉と同じ香りはするのに甘さもあって、奇妙ですよね」

「嫌い?」

「いえ。ですが口の中がべとべとします。帰ったら口直しに茶を飲みましょう」


 冷えた牛乳の味は悪くなかったのだが、口中に残る粘り気が慣れない。お茶を欲しがられて弁天はおとなしく増徳院に戻ることにした。言わないが、完全同意だったのだ。

 前田橋から元町に渡り、宇賀は周囲を眺め渡した。


「元町には活気があって何よりです。居留地が勢いづいたおかげでしょうか」

「港の荷が増えているみたいだよね」


 それは条約で関税が引き下げられたからだった。各国からの輸入品が増え、運上所も荷揚げ業者もてんてこ舞いになっている。堀川沿いを歩いていると舟荷を運ぶ又四郎の姿を見ることもあった。

 だが同時に、日本の庶民は物価高にあえいでいた。長州征伐が長引く中で幕府の権威は揺らぎ、騒乱の懸念に諸藩は兵糧米の備蓄を増やしている。おかげで米の値段が急騰し、各地で米一揆、打ち毀しが相次いでいるのだった。

 そんな世情にもかかわらず羽振りが良いのは、外国との商いで儲ける浜商人。農民の反感は大変なもので、武蔵国の西半分が立ち上がったといわれる大一揆がおきた時には「横濱ヲ憎ムコト讐敵ノゴトシ」と報じられていた。

 そう言われるのも、むべなるかな。牛乳屋に行く前にぐるりと歩いてきた本町通りでは大荷物を積んだ荷車が行き交い、幾人もの手代が客を店に案内していて景気がいい。昼間だというのに港崎みよざき遊廓へ続く吉原道にふらりと吸い寄せられていく客が引きも切らないのだった。そんな様子が伝われば食うや食わずの民は怒るはずだ。


「横濱は、ますます日本ではなくなっているよ……」

「あなたが気に病むことではありませんから」

「気に病んだりはしないけど」


 弁天はもう、横濱はそういう町なのだと割り切って楽しんでいる。

 穏やかな漁村だった頃には伝え聞くばかりだった江戸の賑わいに、今は追いついただろうか、追い越しただろうか。

 それともまったく別物の町になっているのかもしれない。江戸にない商売が横濱にはありそうだ。


「あれ、洋物店だって」

「新しい店ですね。洋物とはなんでしょう」


 元町に出来ていた小さな店には〈鹿島屋洋物店 洋酒店〉と看板があった。道の反対側からうかがってみると、日除け布の隙間から見えるのは棚に並ぶギヤマンの瓶。


「……ほかにも何やらありそうですが」

「うん、行ってみよう!」


 好奇心に駆られた弁天は目を輝かせて宇賀の袖を引いた。日本人の店だろうから怖いものなしなのだった。


「へい、いらっしゃーい!」


 飄々と迎えてくれた店主の顔を見て、弁天と宇賀ははたと動きを止めた。見たことがある。

 これは半右衛門が町で呼び止めた、仕事をとっかえひっかえしていた男ではないか。たしか栄作といった。一年ぶりにもなるが、栄作の方もにやりと笑ってくる。


「ええっと、半右衛門親分さんのお連れさまでしたか」

「……言葉を交わしたわけでもないのに、よく覚えていましたね」


 馴れ馴れしい物腰に対して宇賀は慇懃に返した。あまり踏み込ませないようにそうしたのだが、栄作本人から嫌な感じはしない。やはり妙な愛嬌がある男だ。

 

「いやあ、それはお互いさまでございましょう。あっしはまあ、商売ですから」


 へへへ、と鼻を搔いて薄く笑う。弁天は栄作そっちのけで店内を眺めた。

 ごちゃごちゃと置いてある見慣れない品には脈絡がない。外からも見えたギヤマンはワインよりは小ぶりな瓶だ。だがその脇には西洋紙がドサドサと重ねられ、どう使うかわからない金物や木箱、革の細工もあった。


「あの時は異人さんに雇われてると聞いた気がするけど? ここは何屋?」

「西洋の物、何でも屋でさ。西洋の酒も飲ませます」


 ギヤマンを手に取った弁天に、栄作は得意げに鼻をひくつかせた。


「それは勤めてたソーダ屋の瓶で、使い回して傷になったやつを引き取って売ってるんですよ。ギヤマンでできた徳利だと日本人が珍しがりますんで」

「それ、わかる!」


 弁天もワインの瓶を大切に取ってある。そう言ったら栄作は驚いた顔をした。


「さすが半右衛門親分のお知り合い、西洋人の店でお買いに? あちらものの酒は気になってもなかなか買えませんや。高いですし」

「うん、奮発しないと手が出ないよね」

「……ですが、ウチでは安く味見していただけるんですよ」


 栄作はしたり顔で宣伝してきた。ワイン、ラム、ジン、ブランデーなど、試してみたい洋酒を一杯売りしているのだという。目のつけどころに宇賀も感心してしまった。


「上手い商売ですね」

「そりゃどうも。何かいかがです?」


 昼間から酒の味見を勧めて栄作は悪びれなかった。


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