第40話 鉄砲場
鉄砲場は妙香寺を通りすぎたところだった。山手の丘を背にし、南西の別の丘までほぼ平らで真っ直ぐな谷あいがある。奥までは四、五町ほどもあろうか。そこにこちらから鉄砲を撃ち込むらしい。
「ここは……たぶん畑だったんだよねえ」
兵隊のいる向こう側をのぞいても夏の野菜は植わっていなかった。端に人家が残っているようだが、住んではいないだろう。弾が飛び込むかもしれないところには居られまい。
と、兵士らの到着を待っていたのか日本人の武士たちが姿を現した。赤隊の指揮官と思しき者と言葉を交わしている様子は、懇意の間柄と見える。
「――あれは幕府の者でしょうか」
知らぬ顔で通りすぎると、宇賀はそっと弁天をうながし近くの木陰に入った。村人も行き来する広い道筋だが、どう見ても農夫ではない神仏二人。あまり目立ちたくはない。
農家の庭先に植わった柿の木の下でひと休みのふりで見守ろうとすると、声が掛けられた。
「おや、どちらかのお
その農家から顔を出した中年の女は、明るい縁側で縫物をしていたようだ。弁天はさらりとお嬢さんぶった。
「まあありがとう。お気づかいなく」
「遠慮なさらんで。まだまだ暑いですからねえ」
手仕事を置きひょいと立ち上がった女は、いちど引っ込んで盆を持って戻ってきた。好意に甘え縁側にお邪魔した二人は水をいただく。ついでに宇賀が聞いた。
「そこに来ているのは赤隊ですね。鉄砲場は恐ろしくありませんか」
「そりゃ初めはたまげましたけど。うちの土地もあの奥にありまして、地代が入るんでかまいません。赤隊さんも青隊さんも、悪さするでもなしね」
「ほう、ここは青隊も使うのですか?」
「はい。みなさんちゃんとしてますから怖くはありませんよ」
元町に酒を飲みに来るのとは違い、上官つきでの訓練となれば規律もしっかりしているのか。弁天は吹き出すのをこらえ、上品に話した。
「でも鉄砲なんて、大きな音がするものでしょうに」
「いつも撃ってるわけではなし、慣れるもんですよ。それにね、馬の駆けっこやらもやっていて、そんな時にはみんなで遠巻きに見たり」
「え、駆け乗りをこっちで?」
たまらずに弁天は笑ってしまった。居留地に家が建って出来なくなった駆け乗りは、場所を変えて続いていたらしい。ここでやるのは駐屯軍だけのこじんまりした会だったが、彼らの馬への想いは更地がなくなったくらいでは尽きないのだった。
弁天の笑顔で気分がほぐれたのか、女は手仕事を続けながら愚痴を言った。
「異人さんら相手に茶屋ができたら儲かりますかねえ。うちにはそういう話は来ませんで残念だわ」
「お茶屋? やればいいじゃないの」
「ここらで茶屋を一軒作れと言われたんですが、寄り合いで別の家に決まりまして。なんでも異人さんの通り道だから、ちょこちょこお役人さまが様子を聞きに来るんだとか」
ここは山手の尾根にある地蔵堂から下りて十二天までの道筋にあたる。おかげで外人遊歩道とされ、丘の上とあわせ道沿いに点々と茶屋が置かれるらしい。神奈川奉行の命によるもので、外国人の見張りと浪士への警戒のためだった。せっかく東海道から切り離した地に居留民を押し込めているのに事件があってはかなわない。
「ふうん。赤隊といたお侍さま、あれは奉行所の?」
「いえ、あちらは……たびたびみえますけども、どこのお方なのか。あたしらには聞き取りづらい言葉をつかわれるので」
女が首をかしげ、宇賀は眉をひそめた。神奈川奉行所からではない、武士。しかも訛りのきつい。それはどういうことなのだろう。
水と世間話の礼にわずかな銭を渡し、二人は農家を出た。ちょうどドン、ドンと鉄砲の音がする。驚いたのか鳥が一斉に飛び立ち、その羽音の方がうるさいぐらいだった。
鉄砲場の入り口近くを横切るように小川が流れていて、そこでは兵が舟の往来を見ていた。撃ち方が止んだところで、下ってきた住民の小舟を通すため旗を振って兵らに合図している。通れと身振りされた舟は、悠々と下っていった。
「……鉄砲の前を行くのに怖がる様子もないよ」
「慣れたものですね……」
居留地の賑わいとはまた別の、村人と軍隊がともに暮らす景色がそこにはあった。商人でも兵士でも、何が来ようと受け入れていくしかないのが庶民。そして村がどうなろうとそこで生きるすべを編みだすのも庶民だ。
せっかくなので件の遊歩道をたどって丘へと登る。山手の尾根まで来れば辻の右手に地蔵堂が鎮座していたが、外国人が行き交うようになった道をお地蔵さまはどう思っているのだろう。遊び歩く弁天とは異なり、ひっそりと見守るにとどめているのか。
「……お出ましにはならないかな?」
こんなところまで来るのは弁天も久しぶりだ。ひょいと地蔵堂に挨拶して、そのまま反対に地蔵坂を下る。下りきったところは元町と石川中村の境だった。
前に流れるのは堀川の上流、中村川。その対岸で大きな普請がされていた。製鉄所というものを建てているそうだ。
「いや、ここで黒船を造っても海に出られませんよ」
「そうか、橋をくぐれないね」
では小さな蒸気船か。今でも少しは見かけるが、そんなものが当たり前に川を走るようになったら又四郎のような船頭たちはどうするのだろう。心配した弁天だったが、宇賀は微笑んで川面を見渡した。
きっと彼らは何でもして働き、如何ようにも生きていく。それが人の子だから。
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