第34話 動乱の中でも


 ところで今の横濱は、やや閑散としている。港がなくなるかもしれないからだ。


「ちょっと徳右衛門、まだ港を閉じるのどうのの話は終わっていなかったの?」

「左様でして……」


 暮れ方になって増徳院に顔を見せた石川徳右衛門はもう還暦の町の名士だ。僧坊に足を運んだ弁天の前でも悠々とした態度を保ちつつ、そっと頭を下げた。


 兵庫は京都に近すぎるゆえ開港はまかりならぬ。そして江戸からすぐの横濱も再び閉じるべし。

 そんな議論が朝廷と幕府の間でなされているのだそうだ。すべての港を閉じろという強硬論からは一歩引いたものの、鎖国と攘夷の風は一部に根強い。

 その話が出た文久三年の秋からは商いが低調だ。特に主力輸出品の生糸を横濱へ出荷するのが難しくなっているのは、有名無実だった五品ごひん江戸えど廻令まわしれいが徹底されたからだった。しかもこの年、霜害のせいで生糸の生産量そのものが激減。明けて元治元年となり数ヶ月たった今も、弁天通りや本町通りの生糸商は青息吐息だった。

 また、強硬な攘夷派も活発に動いている。この春に水戸天狗党が挙兵し主張したことの一つが、横濱の即時鎖港だ。そのうえ西洋からの航路にあたる馬関海峡を長州藩が封鎖している。

 開港からこっち横濱には、アメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランス、ポルトガル、プロイセン、スイスなど様々な国の商人が闊歩し、各国の旗が潮風にはためいてきた。だが危険をおかしてまで商う市場でもないと日本に見切りをつけ、横濱を離れる外国商人も多かったのだ。


 徳右衛門は横濱町の総年寄。だが今日訪ねてきたのは洲干島弁天社氏子としてだ。例祭が出来ないとの報せだった。

 昨年のこの時期は、幕兵が港から船で上洛したり英仏軍の駐屯が決まったりで横濱は大騒ぎだった。そのせいで弁天社は祭を見合わせていたのだが、今年も諸々物騒でどうにもならないらしい。

 港と居留地をめぐる情勢を話して聞かせ、徳右衛門は畳に手をついた。


「まことに申し訳ございません……」

「いやいや、仕方がないのはわかっているから」


 弁天は鷹揚な態度を見せた。上総などでは実際に攘夷志士と幕府徴用の農民兵が戦ったりもしているらしい。ということは横濱もいつ何時襲撃されるかわからないのだった。


「世の中が騒がしいね――我は珍しい物を見られて楽しんでもいるけれど、皆の暮らしはどうなの?」

「……厳しいところは厳しく。だが新しい商いも見つけて何とか、でごさいましょうか」


 鎮守らしく民を気づかった弁天だったが、徳右衛門は頭を振った。


「石川屋の生糸などは、まったくいけません」

「徳右衛門がどこぞの藩に名を貸していた店だっけ」

「福井藩でございます。先から生糸以外の店は分けておりますので、そちらで呉服や漆器などを商ってつないでおるようで」


 藩としての出店が許されずに徳右衛門が名義人となって開いた本町通りの店が石川屋。生糸貿易締め付けのあおりをもろに食らったが、福井の産物は他にも多い。


「締役の金右衛門はなかなかの男でございますよ。他の大店も苦しいところですが、小回りのきく者は赤隊や青隊相手の商いを始めたり」

「ああ、農場が出来ているんだってね。我もオランダの苺を食べたよ」

「それはよろしゅうございました。食べ物もそうですし、西洋洗濯屋などというものも出てきておりますな」


 兵士の暮らしの何もかもをまかなうため、様々な商売が生まれているそうだ。あの手この手で食っていこうとする人々のたくましさに弁天は笑顔になった。


「人の子は強い」

「まあ、そうするしかありませんので」


 徳右衛門は微笑むと、ゆるりと挨拶し箕輪坂みのわざかの家に帰っていった。早めに仕事を終わらせた帰路に立ち寄ったらしい。


「徳右衛門は忙しそうだね。ずいぶん貫禄もついて」

「それは歳も歳ですし」

「たった六十かそこらのくせに」


 弁天はしかつめらしい顔をする。わざと言っているのだが、その尺度で計れば人はいつまでも幼子のままだ。

 お堂に戻ろうとした弁天は、夏を迎えつつある宵の空を見上げてつぶやいた。


「……たまには夜歩きでもしてみようか。我は大人だもん」

「珍しいことを。でも暮れてからの居留地はおやめ下さい」

「まだ異人さんたちは落ち着かないかな」

「それは無理ですよ」


 今まさにイギリスと長州は海峡封鎖解除交渉の最中だし、江戸周辺には反乱や一揆の動きが渦巻いている。なんなら情勢は開港後もっとも緊迫しているかもしれなかった。


「というか、女人の夜歩きそのものをお勧めしませんので」

「……面倒なことだねえ」


 小さな村だった頃には、男でも夜になれば寝るのが当たり前だった。ともす油がもったいない。

 たまに出歩くのは空いたあばら家に集まり賭場を開くような荒くれ者だけだが、のどかな横濱村ではそんなこともまれ。遊びたければ神奈川宿にでも出た方が早い。

 だが今は、元町でも遅くまで灯がともる。関内も関外も普請や工事は続いていて、大工や土方たちの楽しみといえば仕事のあとの一杯と飯。元町の奥には土方長屋の集まる坂があり、そこに帰る前に元町でひっかけていくのだ。


「ていうことはさ、店の女たちは働いているわけでしょ」

「それは店の中ですから。ちゃんと男手があるんですよ。でなきゃ危なくて」

「我にも宇賀のっていう男手があるからだいじょうぶ」


 弁天はにっこりし、さっさと歩き出した。


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