第28話 再々会
小夜の声で立ち止まったキセは、その横の弁天たちを見て首を傾げていた。見覚えはあるが誰だったか判然としないのだろう。去年の夏、家族全員を亡くしたばかりで茫然としていた時に声を掛けられた二人連れだ。記憶になくて当然だった。
歩み寄ったキセは、弁天と宇賀に軽く会釈し小夜に向かって小さく笑った。
「小夜ちゃんは、いつも元気ね」
「もちろんよ。キセさんは洗濯物のお届けの帰り?」
「ええ」
キセからは少し寂しげな影が抜けていない。だが病などはなさそうだ。弁天はホッとして微笑んだ。
「久しいねキセ、元気そうでよかった」
「……前にお会いしてましたっけ」
「うん。寺でだよ」
弁天のことをじっと見て、キセはハッとする。思い当ったようだ。狼狽したのは「あんたに何がわかる」と罵倒した相手だからだろうか。初対面で大変失礼な八つ当たりだったのだが、弁天はひらひら手を振って笑った。
「いいんだって。とてもつらい時だったんだよね? なんとか暮らしていけてるみたいで安心した」
「……身軽ですんで」
キセはボソリと言葉少ない。取り乱した姿を見せた相手に気づかわれても居心地悪いだけだろうから、弁天はうんうん、とした。
「それでもここから逃げ出さずにいるんだ。二人とも胆がすわっていてすごいことだね」
「――行くあてがないだけだから」
キセはそう呟くと、小さく頭を下げ立ち去った。何となく気まずい雰囲気をオロオロ見ていた小夜が困った顔をする。
「顔見知りだったの? キセさん、いつもはあんなじゃないのだけど」
「前にちょっとね」
小夜によれば、キセは洗濯屋で働いているのだそうだ。どうりで荒れた手をしていたが、口数少ないながら真面目で頼れると重宝がられているらしい。
女ひとり細々とだが、地道に生きているキセ。お膝元の横濱元町にいる者なら皆に幸せであってほしいと考える弁天は、とうに見えない背中に向かって苦笑いした。
「……生き残ったからって負い目はないのになあ」
「キセさんのこと? ひとりぼっちだそうだけど、そうか、ご家族を亡くしたのね」
「ああ、本人には言わない方がいいですよ。同情などされたくないでしょう」
宇賀はつい横から口を出した。弁天をののしったことがあるキセに引っ掛かりはないでもないが、人の子なのだから心乱しもする。今のキセは誰かから手を伸べられても払いのけそうな危うさを感じさせた。そっとしておくが吉だ。
「あら宇賀さん、お優しいのね。だいじょうぶ、わかってれば余計なことを言わずにすむってだけよ」
私っておしゃべりだから、と小夜は舌を出した。どこまでもあっけらかんとした娘だ。
「キセさんの前ではあんまり惚気ないようにしようっと」
「……そんなことですか」
とにかく幸せいっぱいの小夜に宇賀はがっくり肩を落とし、弁天は大笑いした。
世がどうであれ、人の暮らしはそのまま続くしかない。小夜の軽口も、キセの孤独も。
しばらくして、横濱町での疎開命令は撤回された。住民を避難させるのは戦争の準備とみなす、とフランス軍司令から通告されたからだ。だが実際はまだ攘夷事件の賠償交渉中。決裂すればイギリス軍は横濱に上陸後、東海道を江戸まで攻め寄せる可能性もなくはなかった。
初夏を迎えた居留地の日本人町、そして元町にも少しずつ人が戻ってきていた。沖の軍艦を見れば怖いには怖いのだが、今この辺りで働くと給金がいい。又四郎のように逃げもせず稼ごうとするのは珍しいが、一旗揚げたい者にとって今の横濱は魅力的な町だ。
「まあお客さんはそこそこいるわよ、前とは違う人たちだけど」
そして再び、弁天は小夜につかまっていた。元町を歩いていたら横から腕を取られたのだ。目ざといにもほどがある。今後は小夜の目に気をつけねばならないかと宇賀は頭を抱えたくなった。
「なんだかねえ、菜っ葉隊の人が増えているみたいなの。空き家になった所が借り上げ長屋にされて」
「……へえ」
「その人たちも食べに来てくれるから、お店は助かってるわ」
にっこりする小夜だったが、それは微妙に物騒な事態なのに気づいているのかどうか。
この春の軍艦集結への対応策として神奈川奉行支配同心の下に多数配置された彼らは、幕府の兵。これまで関門警備をしていた菜っ葉隊は役所
「店を開けてるなら、伯父さんたちも戻ったんだね」
「ええ。又四郎さんと二人もよかったけど、私やっぱりにぎやかなのが好きだわ」
この朗らかな娘が戦に巻き込まれたりしなければいいな、と弁天の目がかげった時、店の中から声がした。
「――小夜や、お客さんなら上がってもらいなさいよ」
「お祖母ちゃん」
のれんの下から顔を出したのは腰の曲がった老女だった。振り向いた小夜の言葉を聞くに、これは伯母ではなく祖母なのだろう。弁天は笑ってお断りを言った。
「悪いけど、食事じゃないの。ちょっと話していただけでね」
「――さら、さま?」
弁天の顔を見上げた老女は、目を丸くしてそう言った。まじまじと見つめて動かなくなる。
沙羅。そう呼ばれるなんて、どこで会っていたか――宇賀は老女の顔から記憶を探った。
「ああ」
思い当たって微笑んだ宇賀のことも見て、老女はさらに目を見開いた。
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