文久三年(1863年)初春から夏

第25話 舟運


 境内に白と黄の水仙がすっくと顔を出し、風がややぬるむ。それでもまだ若葉が芽吹くほどではなく、暖かさが待たれる頃だった。

 弁天堂の前で何やら熱心に祈る者がいて、弁天と宇賀は表に出る時をはかっていた。住民が増えて以来、こうして人目をはばからなければならないことも多くなっている。


「……裏木戸を作ろうか」

「いえ、そこまでのことでは」


 ほんの小声でささやき合った。

 だいたいそんなことをしても、お堂の裏から現れる身形みなりのきちんとした男女など怪しくて仕方ないだろう。のっぴきならない二人の逢引きにしか見えない。

 そうこうして待つうちに気配が去った。わずかに開けた隙間からうかがうと、若そうな女が軽やかに肩掛けをひらめかせる後ろ姿。弁天は扉からすべり出て、ふふ、と笑った。


「今の娘はね、旦那の舟の無事を祈っていたんだよ」

「おや。船乗りの妻ですか」

「遠くに行く船じゃなくね、ここらで荷を運んでる小舟みたい」


 祈られる側の弁天には参拝者の願いは筒抜け――というか、きちんと聞こえなくては困る。今の女の用向きは、新婚の夫の仕事がつつがなく済みますようにという微笑ましい願掛けだった。

 港に揚げた荷を小舟に積み替え、縦横に張り巡らされた運河で横濱の町のあちこちへ届ける。そんな運輸業者が増えている。夫は舟を操って働く男の一人なのだろう。


「なんとも可愛らしい」

「若いよねえ」


 見た目は二十歳そこそこの弁天が言うのもおかしいが、こちとら神仏。物言いが上からでもいいだろう。


「今は水も冷たいし、舟がひっくり返ったらと心配なんだってさ」

「……そんなに旦那の腕を信じていないんでしょうか」

「信じてたって何があるかわからないのが水の上。だから皆、我にすがるんでしょ」


 今時は弁天だって肩掛けに身をくるみ、宇賀は羽織を着ている。寒いと感じるわけではないが、町行く者の装いに合わせているのだった。海や川に投げ出されるのは、人の子にはつらい季節だ。

 寺を出た二人は、居留地へ渡らずに堀川沿いを歩いてみた。流れを見やれば、たくさんの小舟が行き来している。特に川を上る船には荷が満載だった。


「あれ、さっきの女ですね」


 二人の先をゆるゆると行くのは、お堂から去って行った背中だった。堀川を気にしながら歩いている。と、女は立ちどまり小さく手を上げた。はずんだ声で川面に呼びかける。


「又四郎さん!」

「おーう!」


 声を返したのは川を下ってきた小舟の男だった。へへ、と照れくさそうにしながらも船足をゆるめる。


「なんだ待ってたのか? さみぃんだから、とっとと店に戻んな!」

「そろそろあなたが通るかもって。今ね、弁天さまにお詣りしてきたの」

「そうか、あんがとよ!」


 それだけを言い交すと、又四郎は川下へと通りすぎていった。女はそれを見送って嬉しそうにしている。振り向いた女はなかなかに愛らしかった。これは又四郎とやらの方も、背を向けた今頃は鼻の下を伸ばしているのだろうと弁天はニヤニヤした。そこで女と視線が合う。


「あら」


 少し恥ずかしそうに、女は顔を赤らめた。いや、今さら。宇賀は吹き出すのをこらえたが、弁天はにっこり歩み寄ると話し掛けた。


「今のは旦那さん? いいかいさばきだね」

「――そうでしょ?」


 照れていた女は又四郎をほめられてパアッと笑顔になった。これは夫にぞっこんらしい。見ない夫婦だが、最近越してきたのだろうか。


「どこかで荷揚げをやっていた人なの?」

「違うわ、根岸の漁師よ。こっちで荷運びをする方が稼げるって聞いて移ってきたの」

「ああ」


 根岸は丘を南に越えたところだ。根岸湾は外国人からミシシッピ・ベイなどと呼ばれているらしいが、その周りに暮らす漁民のうちから横濱にやってくる者も多いのだと聞く。


「実家が近いのは何かと心強いよね」

「それに私は親戚がこっちで店をやるのを手伝わせてもらってるから」


 にこにこと言う女は幸せそうで、新しく元町に来た人でもちゃんと暮らしているのだなと弁天は安堵した。

 この間の夏には家族をみんな亡くして泣いていたキセみたいなこともあった。だが宇賀が言うにはキセも元町で歩いているのを見かけたらしいから、働き口を見つけたのだろう。なんだかんだ人はたくましいのだ。


「四丁目の駒ノ屋って飯屋なの、食べに来てね……って、あなた良いところのお嬢さんかしら。ごめんなさい」


 女は弁天と宇賀を見比べて謝った。はにかんでいるが、悪びれてはいない。なんとも愛嬌のある女だった。


「いいのいいの。あまり外に食べに行くことはないけど、もし何かあったら寄らせてもらうから」


 弁天が言うと、女は会釈して駆け出していった。店に戻って仕事があるのだろう。

 そういえば名も聞かなかったが、まあいい。あまり会うこともないだろうから。弁天が食事に行くとしたら、外国の料理や食材を食べられそうな所ぐらいだ。


「元気な娘でしたね」


 宇賀はやや苦笑いだった。一方的にのろけて、店を宣伝して去っていかれた。


「そうだね。可愛い嫁で、又四郎とやらも嬉しかろうよ」

「調子に乗って海に落ちないといいですが」

「……そこは我の加護を願ったからねえ。こっちの信用に関わるから、しっかりしてもらわないと」


 弁天が真面目な顔をした。仕事中にデレデレして何かしでかされては、神仏の立場からも都合が悪い。まあ一番困るのは雇った親方だろうが。

 船荷の量は、港と町が栄えてきたしるし。たくさんの舟がのぼり、くだる堀川には冷たい風が吹き渡っているが、活気があふれていた。


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