万延元年(1860年)初夏
第13話 洲干島、島となる
「よく来たね、
弁天がにこやかに微笑み、石川半右衛門はぎこちなく正座した。板の間に平伏してしまおうかとも思ったが、むしろ怒らせるかもしれないとやめる。
増徳院の僧坊に呼び出された半右衛門は、横濱元町の名主をつとめる男だった。そんな立場なので、弁天の作り笑顔の理由はわかっている。
「まずは礼を言うよ。半右衛門も
「は。不肖の身ではございますが」
「堅苦しいな」
弁天がふふふ、と笑った。
後ろに控える宇賀は、珍しくしゃっちょこばった半右衛門に少しばかり同情した。こうなっているのは半右衛門のせいではないのだから。
横濱の港が開かれてから間もなく一年。まだまだ貿易は手探りだ。だが、ふくれあがる日本人商人と正式に居住を始めた外国人とで開港場はたいへんな賑わいだった。
そしてまた、攘夷の事件もいくつか起きている。外国商館の安全を守らなくてはならない幕府は、居留地を囲い込んで関門を設けることにした。
そんなわけで、旧横濱村の村人は全員退去、元村に引っ越すことになった。そして増徳院の前で砂洲の根元に堀を設け、それによって洲干島は陸地と切り離される。浜と運河に囲まれた完全な島にされてしまうのだ。
「元々我は横濱村の鎮守なのに……横濱村が横濱村でなくなる日がくるとはねえ」
「まことに申し訳なく――」
「半右衛門のせいではないよ。徳右衛門はどうか知らないけど」
半右衛門の兄、石川徳右衛門。ペリーがやってきた時に名主を務めていた男だ。今は横濱町の総年寄の一人となっている。
開港し、異国への門戸となった横濱村。それをそこらの村と同列に扱ったままにしてはおけない。そこで奉行所を置く
つまり、町の代表者となった徳右衛門には村民の退去と堀川の掘削に責任があろうというのが弁天の言い分だ。
「弁財天さま、徳右衛門とて如何ともしがたいことがありますよ。開港場はもう横濱村だけのものではないのですから」
「わかってるけど」
宇賀のとりなしに半右衛門は恐縮することしきりだった。
四十男が小さくなっているのがやや可哀想になり、弁天は貼り付けていた冷たい笑みを引っ込める。拗ねたように口をとがらせ、とたんに可愛らしくなったこちらの顔が地だ。
半右衛門は徳右衛門より十五も歳の離れた弟だった。今は徳右衛門に代わり名主として元村改め元町を任されている。
横濱村の元村民たちのことは主に半右衛門の責の内、暮らしが立つよう心を砕いているのは弁天も承知だ。しかも堀川を通す土地には石川家もあり、そのせいで屋敷を箕輪坂に移さなければならなくなっていた。村人だけに負担を強いているわけではない。
だが馴染んだ洲干島が人々の暮らしと分かたれてしまうのはいかにも寂しい。拗ねたくもなるのだった。
「だってねえ、橋を架けて番所を置くんでしょ。出入りを改められるなんて物々しいじゃない」
堀川で隔てた居留地の出入りを取り締まる番屋は、まさに増徳院のすぐ近くに作られることになっているらしい。
「いや、改めるのは主に帯刀でして。女人などは何事もなくお通りいただけるはずです」
「そうなの? 下の宮も私の家だし、行き来に面倒があるのは嫌よ」
「それは問題ないかと」
弁天にはぜひとも納得してもらわなければならない。だが実は、移り住んだ村人たちも気持ちは弁天と同じだった。
「暮らしていた所を追われ、皆も良い気はしておりません。先年、山の上に
「浅間さんに参道を?」
「あそこからだと開港場がよく見えます。暮らした土地を忘れたくはありませんので」
浜近くにあった浅間神社の小さなお社を、開港場造りのために昨年動かした。もっと富士に近いところにと見晴らしの良い丘に据えてみたのだが、そこと元町を真っ直ぐ結ぶ石段を寄進しようと
その音頭を取る
「開港場なぞ上から見下ろしてやらあ、と」
「血の気の多い連中だものね」
棹一本で浅瀬を自在に行き来していた勘次郎たちの姿を思い出し、弁天は嬉しげだった。まだ昔の浜は、人の心に生きている。
「もちろん石川の家からも寄進を」
「え。だけど増徳院にもずいぶん出してくれたじゃないの。おかげで元町の通りにむけて門を構えられた」
「それで町の者らの拠り所になるのならよいのです」
そう。薬師堂を再建しようとしていたところに石川家から申し出があり、敷地を整えたのだ。新しく真っ直ぐな道を通すことになった元町の突き当りに寺の門を置けばいいと入知恵してくれたのが半右衛門だ。
「元町を門前町にしちゃったもの。
「お役に立てて何より」
「まったく半右衛門はやることが派手で――知ってるよ、あの時、黒船に乗り込んだんでしょ?」
おかしそうに弁天に言われ、半右衛門はついニヤリとしてしまった。
ペリー艦隊に近づくべからずの禁。それを名主の家の者みずからが破ったのは、親しい者なら皆が知っている武勇伝だった。
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