第17話 忘却と回復

 テレーズのいるキャメリアは有名な保養地で、社交界の華たるレオンが渓流のそばに優雅な館を借り、保養に来ていても誰も不審がらなかった。


 だが、最新のファッションを着こなし、髪の毛先から足の爪の先まで洒脱で身を包んでいるはずの彼は、洒脱ではあれども動きやすい服装に身を包み、ずっとある女性の看病にかかりきりだった。淑女たちは肩を落とした。


 レオンの――ヴィニュロー公爵家の借りているその館で静養しているその女性が誰かは極秘とされた。ゆえに、淑女たちは、身分低い幸運な娘が高貴な社交界の華の眼に留まり、手厚い看病をされているのではないか、と誤解して噂を流した。


 流させるように、レオンが誘導した。


 一目その身分低い娘を見せろと館に押し掛けてきた淑女たちを優雅な笑顔で追い払い、扉を閉めて鍵を掛ける。ふう、と彼は扉にもたれて溜息をついた。


「――迷惑、かけてる?」


 寝台からかそけき声が聞こえる。レオンはその声に、少し安心した。


「むしろ、貴女がそこまで気を回せるほどにご快復されていることに、安心していますよ。テレーズ様」


 寝台に向かう。テレーズは見るも無残な姿だった。左の眼のまわりに真っ青な痣が残り、長く豊かだったプラチナの巻き髪は肩のあたりまで刈り取られていた。もともと華奢だった体はげっそりと骸骨のように痩せこけていた。


 回復に向かうテレーズが、何日もかけて、ぽつりぽつりと話してくれたことによれば、王に嫁いでから、豚呼ばわりされ、「豚小屋」と名のついた小さな木製の箱に入れられ、あちこち連れまわされたという。特に「我が国の言葉フルール語を話す人々の所」へ連れていかれたとき——コンパニュル地方であろう——、王の目の前でそばに控えていた近衛兵がその地の住民を殺しつくした。テレーズは「豚小屋」のなかから助命嘆願したが、「豚が鳴いているぞ」と王に嘲笑われ、「豚小屋」ごと繰り返し蹴り飛ばされた。


 何のために国王はそんなことを、とレオンはテレーズに問おうとして止めた。その時のテレーズの蒼の瞳が凍り付いていた。北の国のカトライアで氷の破片を瞳にめこまれてしまったかのように。とはいえ、表情が凍り付いたのはそのときだけだった。


 そして話を終えた次の日、すっかりその話を忘れてしまっていた。


 テレーズは体が回復する反面、急速に結婚生活での出来事を忘れていった。


 レオンはそれが不安だった。辛い結婚生活での出来事を忘れたいと思うのは当然だ。自分も、テレーズ様が結婚生活のことを忘れてしまわれればいいのにと思うことはよくある。だが、忽然と記憶が消えるものなのだろうか? 何か悪い方向へとむかっているのではないか。


 そんな不安を吹き飛ばすように、テレーズが起き上がった。見ていられないほど酷い状態の顔に、それでも微笑みを浮かべている。


「歩きたいの」

「わかりました。どちらまで?」

「今日は安楽椅子まで」

「はい」


 テレーズはここ数日、ゆっくりと伝え歩きにだが、歩けるようになっていた。寝台のまわりを歩いて、自分が寝台から落としたものを拾うことができるようになっている。

 寝台近くの小さな窓へ向かい、外の眺めを見ることも。

 大抵、三十分すると足が耐えきれなくなり、その場にうずくまってしまって、レオンが呼び出される。


 とうとう、今日は同じ部屋の中でも寝台から随分と遠い大窓の近くの、安楽椅子へと向かうらしい。

 レオンが片手を差し伸べると、テレーズは「恥ずかしいからやめて」と頬を染める。彼は微妙に顔を背けた。


「ひとりで行けるから」


 テレーズはそういってよろよろと進んだ。いう通り、ひとりで歩くことができた。

 だが、もう少しで安楽椅子、というところで姿勢を崩した。


「……あ!」


 急いでレオンは彼女を抱きとめた。その身体は、恐ろしいほど細く、力を少しでも込めたら折れてしまいそうだ。申し訳程度の薄い肉がへばりついただけの、モスリンの寝間着を着た骸骨を抱きしめているかのようだった。


 ——俺が、彼女を、こういうふうにした。


 罪悪感に心を裂かれそうになりながら、安楽椅子に座らせる。


「ありがとう。迷惑をかけるわ」


 レオンの主君たる王女はそれでも、気品のある微笑みを浮かべてきた。


 窓の外を眺めようとする王女にショールをかけていると、がつん、という音がした。扉が開いた。

 追い払ったはずの淑女たちであった。もう女性の正体が知りたくてうずうずしているらしい。


「——レオン様! その女性は……」


 どうして女というものは、自制ができないのか。すでに女性嫌いの極みにあったレオンは彼女たちを限りなく蔑む目で見た。淑女たちはいつもは優しい気品を湛えているその視線が敵を見るように冷たいのに気づき、呆気にとられた。


「ごめんなさい」


 テレーズが安楽椅子から少しだけ顔を覗かせた。痣をショールで隠して。


「騒がせてしまったわね——。わたくしのことをおぼえていない?」


 淑女たちは顔を見合わせた。プラチナの髪をした骸骨のような女がいる、と。


「申し訳ございませんが——」


 彼女たちが当惑していると、レオンは優雅に失笑しながら答えた。


「忘れてしまったのかな。この国の、第一王女の、テレーズ殿下だよ?」

「カトライアにお輿入れなされた?」


 淑女が聞くと、テレーズは「」と頷いた。レオンは息を引く。カトライアに輿入れしたことも、忘れようとしているのか。


「ともかく体調を酷く崩してしまって、こちらでお世話になっているの。ようやく歩けるようになったの」


 淑女たちは安心したようにお互い顔を見合わせた。自分たちの社交界の華は、下賤の女に奪われたのではなく、次期ヴィニュロー公爵として、病床にあるこの国で最も高貴な姫君の世話をするという義務——名誉に預かっていたのだと。そして、淑女たちはレオンに微笑んだ。


「大変なお務めですこと。では、お務めのお手すきの時に、わたくしたちがしなければならないわね」


 彼はぴくりと肩を震わし、「お手すきの時なんかないよ」とかすれた声で言い放つ。

 テレーズは「別に忙しくさせているつもりはないけれど」とえんじるような視線で彼を見た。

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