第15話 帰還

 グレイユルは、いまカトライアと係争中のコンパニュル地方とはやや遠いが、王国北部にある。


 その日の空は鈍色だった。重い雲が立ちこめて、今にも激しく雨が降り出しそうだった。

 レオンは礼装を身に着けて葦毛あしげの馬に騎乗し、王妃の乗る馬車のすぐ後ろに控える。

 馬車の窓から覗く王妃の顔を見れば、空と同じく今にも泣きだしそうなほどの曇り空であった。

 思わず、王妃に、――王妃殿下、あなた、私の母の標的になっていますよ、スリゼー公爵を遠ざけられてはいかがです――と告げ口して慈悲を垂れてしまいそうなほどの悲し気な顔だった。

 そこまでの付き合いも義理もない。それに、とレオンは無表情に馬車から目をそらす。


 ――王妃殿下は最近、お人が変わったと聞く。


 それこそテレーズ最愛の妹のエリザベートの面倒を見ているかどうかわからない。


 物思いに耽っていると、待ち合わせの場所についた。しばらく待っていると、非常に壮麗な馬車が見えた。

 馬から降りて跪いていると、その壮麗な馬車が目の前で止まった。


 馬車の壮麗さに、テレーズのいたずらではないかと、ふと思った。父とスリゼー公爵とグランシーニュ侯爵を巻きこんで、王妃をも仲間に入れて、自分に無用の心配を掛けさせて遊んでいるのではないかと。

 馬車の扉が、軋む音を立てて開いた。

 女官が一礼して出てきた。彼女たちは顔を青褪あおざめさせていた。何故か暴れだし、殺してくれだ、死なせてくれだと叫んで、ついてきたものたちに止められていた。


 馬車のなかに入る。

 一瞬、ぞくりとした。馬車のなかにヴェールに包まれた女が寝かされていた。その女は、全身を包帯で巻かれていた。包帯にはあちこち血が滲んでいた。まるで、怪物のようだった。


「……殿下?」


 「怪物」にそう声をかけると、彼女は指先でぴくりと反応した。


「テレーズ様?」


 彼女は小さく頷いた。赤く腫れあがった目から、ひとすじ、涙が零れ落ちた。

 女を抱き上げる。恐ろしいほど軽かった。

 何があったのです、と彼女に問いただしたかった。だが、包帯だらけで表情も何も確認できない。声も出せそうではなく、呼吸も苦しそうだった。


「テレーズ様、お苦しいですか?」


 腕のなかの彼女は何も答えることがない。柘榴ざくろ色の唇は薄く開いたままだった。しかもその唇も切れた後が無数にあり、無残なかさぶたがあちこちにできている。


 心が毒矢で何度も射抜かれているかのような気分になった。

 もし、自分がテレーズから失寵したと思いこまなければ。もし、雌豚を試すようなときの方法でテレーズを試さなければ。

 破談には至らなかったかもしれない。もし、かりに、よしんば、カトライアとの縁談をテレーズが強要されたとしても、それでも、きっとテレーズは自分に相談したはずだ。縁談を強要されているのだ、と。そうすれば自分はテレーズのカトライア行きを避けるために様々な行動をしたはずだ。


 そのテレーズの信頼や信用を自分は無下にした。


 その結果が――このテレーズの無残な姿。


 自分が裏切ったのに、どうしてテレーズがこんな目に遭うのだろう。


 酷く涙が溢れてくる。彼女を馬車から出し、外に出た途端、悔しくて呪わしくていきどおろしくて、彼女をきつく抱きしめたまま、絶叫して膝から崩れ落ちた。


 同時に、酷く雨が降り出した。


 王妃がようやく馬車から出た。彼女は、「それが、テレーズなの?」と表情を凍らせていた。


 ***


 目を覚ますと、水のせせらぎの音が聞こえた。


 ――何?


 どこだろう。もう連れまわされるのは嫌だ。

 身体のあちこちが痛い。流産させられてから、特に、全身が痛い。それで、痛がっていると「豚小屋」に詰めこまれるのだ。

 だが、とテレーズは周りを見回す。「豚小屋」ではないようだった。温かい柔らかいシーツに、広い寝台。


 ――夢か。


 彼女は自分に呆れ返った。夢のなかにしか柔らかいシーツと広い寝台などないのだから、夢なのだろう。いつまでそんな馬鹿な夢を見ているのだろう。夢を見ている暇などないのだ。早く体力を温存しないと。現実の世界では血を失い、涙を失い、希望も失うのだから。

 今度はどこに「豚小屋」に詰めこまれて連れていかれるのだろう。何を見せられるのだろうか。暴力を振るわれることも、罵倒されることにも、強姦されることにも、狭い場所に詰めこまれることにも慣れたが、あれを見るのだけは嫌だ。

 眼を閉じ直すと、静かな足音が聞こえた。その足音に感情が消えていく。


 ――ああ。悪魔だ。

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