谷底に咲くダイアンサス

ことり@つきもも

Ⅰ 前提

1、婚約者と伯母

第1話 婚約者

 その国の王宮は一つの街のようになっている。貴族たちが国王の監視のもとそれぞれの小さな館を建て、そこに住まっている。


 国王の住まいはもちろん王宮という街の中央に存在するが、王の住まいとして五つ宮殿が存在し、そのいずれかに王は住む。王の子供や幼い弟妹などの家族はしばらくその宮殿に住むが、ある程度の歳になれば王の住まいの近くに館を賜る。


 だが、テレーズはまだ十一歳だったので、五つの宮殿のうち、ソレイユ宮殿を好んだ父が崩御したあと、早速引っ越した兄と一緒に、ラ・メール宮殿に住んでいた。


 ラ・メールという言葉の通り、引越し先の宮殿は、海のように真っ青な調度が目立ち、海を模した大きな紺碧こんぺきの池が見える。派手好きな父に辟易していた兄は、こういう静かな場所が好きなのだとはっきりわかった瞬間だった。テレーズも兄の感性に賛成だ。

 だから、宮殿が嫌いなのではない。でも、忙しい兄に父の死について話すのは憚られた。彼女は親たちが決めた婚約者のところに頻繁に行くことが多くなった。


 「会いたい」という内容の手紙を女官に託して届けさせると、すぐに「庭で待ってる」と返事が返ってきた。


 海のような宮殿から出て、もう秋めいてきた小径を行くと、大きな庭に出た。

 王の住まう五つの宮殿のすぐ西に、「街」のなかでは非常に大きな館がある。ヴィニュロー侯爵邸だ。

 テレーズは婚約者と、その館の庭と王の住まいをつなぐ小さな小径を見つけた。

 庭にはプラチナの巻き髪の、翡翠色ジェイドの瞳をした少年がいて、手を振って迎えにきてくれた。婚約者のテレーズさえ意識していないと「男だ」ということを忘れてしまいそうなほど、いとも麗しく少女と見まごう少年だ。三歳年上だという。

 「婚約」とはいかなるものか理解していない少女にとっては、彼女の大好きな友達で、よい話し相手だった。


「お引っ越し先は真っ青だったわ」


 テレーズがそういって美しい少年が差し出してきた手を握る。


「真っ青?」


 少年は首を傾げた。


「うん、真っ青。ラ・メール宮殿って本当に海の底みたいなのね。カーテンもベッドのシーツも真っ青なの」

「ああ、宮殿のこと。そう聞いてる。海を表す宮殿なんだって。五つの宮殿の中では一番新しく建てられたんだよ。二百年くらい前に、その時の王様が親征されて、この国はようやく海岸を手に入れたんだ。その記念に作ったんだって」


 テレーズは表情無く少年を見上げた。


「物知りね」

「今日はご機嫌斜めですね、テレーズさま」

「お父さまはどうして亡くなられたのかしら……」


 少年はテレーズの手を引いて、庭に突き出している温室へと彼女を招いた。彼女に付き従ってきた女官たちに、目で下がれと命じる。テレーズを物静かな温室の大理石のベンチに座らせて、自分はその隣に座った。


「去年はお母さま。今年はお父さま。どうしたらいいのかしら」


 少年は、目に涙を浮かべているテレーズをそっと抱きしめた。少女の髪を優しく搔きわけて、撫でる。


「大丈夫。新しい国王陛下は御聡明と評判だし、臣下たちも補佐申し上げる。不安になられることはない」

「ほんとう?」


 少女は少年の胸にすっぽり顔を埋めた。少年は繊細な婚約者の豊かな巻き髪をさらに搔きわけ、撫でた。


「僕の父上も、助力するとおっしゃっている」


 テレーズはにっこりと微笑んで、「ありがと」と少年の胸から顔を上げた。

 少年はその白い頬を、ほのかに桜色に染めた。


「……テレーズさま、だから、お気を落とさずに」


 少年の長い指先が、テレーズの白い頬に伸びた。彼女は微笑んで、小さく頷いた。

 彼女の柘榴ざくろの色をした小さな唇を、少年はついばんだ。

 少年と少女らしい拙くも清らかな口づけを交わしていると、表情のない侍女がやってきた。


「テレーズ王女殿下。若様。マルグリット殿下がお呼びです」


 テレーズは少年を見た。少年は少しだけ苦笑した。


「わかった。テレーズさま、行きましょう」


 まるで侍女に触れさせたくないように、少年はテレーズを温室から客間へ連れていく。

 テレーズはついぞ気づかなかった。見送る侍女が、嫉妬の目線で自分を見ていることに。

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