第2話 唯物という考え方

 この考えは、

「観念や精神、心などの根底的なものは物質であると考え、それを重視する考え方」

 と呼ばれるものとは、少し違っているように感じるが、

「最終的には、どこかで重なるものではないか?」

 と感じるものであった。

 それは、世の中というものが、生まれ変わったりするという、

「輪廻転生」

 というものであったり、前章で書いたような、

「自然界の摂理」

 さらには、生活していると、自然に起こってくる、

「ブーム」

 というのも、定期的に繰り返しているといえるものではないだろうか。

 そういう意味で、

「一つの世界にいると、繰り返されているように思うのだが、その繰り返しと言っているわりには、すべてが円として、きれいに繋がっているような意識がないのは、ひょっとすると、これも前章の最期に書いた、パラレルワールドや、マルチバースというように、今は、一つだと思っているものが、実はいくつもの世界と接していると考えると、この繰り返しているものが、キレイな円になっていない」

 ということに繋がっているのではないか?

 と考えられるのではないかと考えるのであった。

 そういう意味で、

「世の中は、一つではない」

 ということを結論付けてしまうと、今度は、

「じゃあ、まったくの無双と言われるものの存在を、打ち消しているように思えて、その発想はあっていいのだろうか?」

 ということになってしまうのだった。

 そう考えると、少なくとも一つ言えることとして、

「唯物、つまり無双のものというものほど、価値が高い」

 という発想は、絶対にあるのではないかと思うのだった。

 だからこそ、

「鑑定」

 というものがあり、

「他にない無双のものだ」

 ということになれば、その価値はものすごく上がるのだ。

 前置きは長かったが、その問題を抱えることで、世の中は大いに変わるということだってあるだろう。

 この話がそこに結びついているということを考えた上で、入っていくことになるのだが、前置きが仰々しかったことで、いかに発想が変わっていくかが、楽しみであった。


 世の中には、

「テレビなどで、何とか鑑定団」

 などという番組をやっている。

「昔から家に残っている財宝や、お宝を公開し、その値打ちを、番組として、鑑定してもらおう」

 という番組だったのだ。

「そんな番組が、なぜウケるんだろう?」

 と考えるが、

 まず最初に、

「俺たちにそんな夢のような財宝のようなものが残っているわけもないし、もし、その人が秘蔵しているものが、本当にお宝だったら、普通に羨ましいと思うのではないだろうか?」

 と考えるであろう。

 そこで羨ましく思ったり、妬んだりする人がいるかも知れない。

 だから、普通だったら、

「羨ましい」

 と思うのだろうが、テレビを見ていると、逆を感じたいと思う自分がいるのだ。

 実際に、鑑定に出して、

「最低でも、百万円くらいじゃないか?」

 と、提供者がいうと、実際の鑑定をすると、

「三千円くらいですね」

 ということも普通によくある。

「これは確かに有名な人の作品ではあるが、ある時に、大量生産されたもので、しかも、花押も、よくある印鑑のようなものを使っているので、どれをとっても価値はない」

 と言われてしまい、それこそ、三千円というのも、

「材料費でしかない」

 というような、言ってみれば、

「バッタもの」

 と言われる程度のものの時もあるだろう。

 その時の提出者の気持ちになってみれば、どうなのだろう?

 正直、見ている方は、ほとんど皆、

「ざまあみろ」

 と思っているかも知れない。

 当事者の本人以外は、皆程度の差はあるだろうが、ほとんどが、留飲を下げているようなものではないだろうか?

 テレビの視聴者はもちろん。出演者。

 これは、鑑定をする人も思っているかも知れない。

「いや、鑑定者の方が正直思っていることであろう」

 何と言っても、鑑定をして、

「これは高価なものです。一千万円の価値はくだらないでしょう」

 と言ったとしても、だからと言って、鑑定した人が、その一割を得られるというわけでもないだろう。

 相手が、満面の笑みを浮かべ、

「ありがとうございます」

 と言われたって、複雑な気持ちで苦笑いをするしかないのだ。

 そうなると、逆に、

「がっかりした人」

 の顔を見て。-、

「ざまあみろ」

 という気分にでもならないと、自分の留飲が下がるということはないだろう。

 それを思うと、

「鑑定する人ほど、やり切れない商売もないだろう」

 と思い、

「自分の作ったもので、主役が脚光を浴びているのを、羨ましいと思ってみている人と変わりはない」

 だが、その裏方は、あくまでもクリエイターなので、それなりにプライドがあってしかるべきだ。

 鑑定者がどこまでプライドがあり、プロ意識があるかによって変わってくる。

 それを思うと、鑑定する人間のやり切れない気持ちは、誰が分かるというのであろうか?

 だから、鑑定の番組というのは、いろいろな思惑が入り組んでいて、しかも、その中心にあるのは、

「巨額の金」

 である。

 鑑定一つで、ものの価値が変わるのだ。今までは何も変わったわけではない価値が変わるということだ。

 そんな番組をよく見ていたのが、

「ブームというのを気にしていた」

 あの日下部恭三だったのだ。

 もちろん、彼は、そんな

「秘蔵」

 のようなものを持っているわけでも、

「ご先祖様が、殿様だった」

 などということでもなかった。

 だから、本来なら、

「普通の人」

 と同じように、

「こんな番組の何が面白いというだ?」

 と思う方だったのだが、彼は、ある時期を境に見るようになったのは、やはり、

「自分の中にある留飲を下げられるものがあったら何でもいい」

 と思っていたのだろう。

 その頃、誰か嫌なやつがいて、

「留飲を下げたい」

 という気持ちを持って、テレビ番組を見ていたのだ。

 だが、今となってみれば、

「どこの誰だったのか?」

 そして、

「その留飲の正体が何だったのか?」

 ということも思い出せない。

 たぶん、

「どこの誰だったのかが分かれば、どういう理由だったのか?」

 あるいは、

「どういう理由だったのかということが分かれば、どこの誰だったのか?」

 ということが分かったに違いないと思うのだった。

 今になって思えば、

「あの頃は、テレビ番組を見ていても、ハッキリと覚えているような気がしないので、見ていても、漠然として見ていたんだろうな」

 と感じるのだった。

 そういえば、いつも、何かをしながら見ていたような気がする。ただ、漠然とというよりも、

「いつも何かを考えているのだが、その考えていることが、マンネリ化しているのか、自分でも分かっていない」

 ということであった。

 さて、そんな中において、

「いつも、漠然としているにはしているのだろうが、絶えず何かを考えていたという思いがあったのも事実である」

 もっといえば、

「今がそうだから、どこかで絶えず考えるようになったきっかけがあるはずで、それが、この鑑定団をテレビ番組でやっている頃だった」

 と思うのだ。

 番組は、結構、長寿に近い番組ではなかっただろうか。だが、

「そんなに毎回、よくもこんなにお宝と思われるようなものがあるよな」

 と、漠然とは見ていても、頭の中にはあった。

 ということは、

「自分が想像するよりも、多くの人が同じことを思っているのかも知れない」

 と感じると、

「もちろんないとは思うが、やらせだったり、サクラのようなものがあったとしても、それは無理のないことだ」

 と思ったとしても、仕方がないだろう。

 世の中において、自分が、想像するのに、

「そんなバカなこと、ありっこないよな」

 と思うようなことが、結構あるような気がしていたのだった。

 それを思うと、

「何で、こんなバカげたと思うような番組を見続けてきたのか?」

 ということが分かるような気がするのだった。

 そんな番組が終わってから、少ししか経っていないのに、気が付けば、

「相当昔の番組だったな」

 と感じるようになっていた。

 そんなことを感じるのは、

「その番組が自分の中で、かなり浸透していたということを感じさせる番組だったと感じたからではないだろうか?」

 と感じることだった。

 それを思い出すと、

「漠然と見ているつもりでも、毎週ともなると、惰性だったことが、自分の生活に入り込んでしまうものだ」

 ということを感じるようになっていた。

 それも、自分の意識の中で、

「他に何も楽しみがなかったから」

 ということなのか、それとも、

「楽しみがなかったというわけではなく、むしろ楽しいことが多すぎて、その中に埋もれてしまった」

 という、正反対の感覚になってしまったことから来るものではないだろうか?

 と考えられる時であった。

 この時はどうだったのだろう?

 と考えた時、今から思えばであるが、

「やはり、楽しみがなかったんだろうな?」

 と思うのだった。

 両極端の可能性がある時というのは、たいていは、

「どちらかというと」

 と感じることの方が結構多い。

 しかも、その確率がかなり高いことから、そう感じてしまうのだろう。

 その考えが、自分の中で、結論として出てこないのは、

「それだけ、その両極端な発想が、あまりにも、どちらかに寄っているということを、意識として感じているからではないだろうか?」

 と感じるのであった。

 それを思うと、この番組のような、あとから思えば、

「こんなに面白くないと思っていた番組をこんなに毎回見ていただなんて」

 という思いと。

「終わってしまって、一抹の寂しさを感じてしまうという思い」

 さらには、

「終わってから、そこまで経っていないのに、気が付けば、かなり経っているようにしか思えない」

 という思いが、それぞれあるということは、それ以外の時は、

「もっと、いろいろ感じているのかも知れない」

 と思うのだ。

 しかし、それを感じさせないということは、それだけ大きな感覚であり、意外とその感覚が似かより過ぎていて、意識として、一つの強いものとしてしか思えないのだろう。

 そういう意味で、

「両極端で、正反対」

 というのは、片方を忘れさせるほどのものがあるといえるのであろうか?

 要するに、

「長所と短所とは裏返し」

 と言われるが、それと同じように、

「長所と短所は紙一重だ」

 と言われるだろう。

 プロ野球選手などで、

「得意なコースの近くに弱点がある」

 ということで、

「得意なコースを、ボール一つ外してなければ撃たれない」

 といって、コントロールに自信がある投手は、そこを狙って投げる人がいる。

「エース級のピッチャーともなれば、それくらいのことができて当たり前だ」

 ということになるだろうが、まさにその通りである。

 プロ野球選手に限らず、さらにはスポーツ選手に限らず、例えば会話などにおいても同じことがいえる。営業職などは、その言葉通りに実践している人も少なくないに違いないだろう。

 両極端なものであっても、お互いに違う方向を剥いていても、釣れ合いが取れているということは、往々にしてあることだろう。

 天秤にしても、やじろべえにしても、中心の重心に対して、同じ距離の同じ重さのものであれば、つりあっているのだ。

 同じ距離、同じ長さでなくとも、

「力の均衡」

 というものさえつりあっていれば、きれいに平衡感覚が保てるのである。

 それが、

「見た目に左右されない」

 ということであり、それが、今の世の中には結構あるのかも知れないのだ。

 そういう意味で、

「唯一無二のモノ」

 という意味で、

「無双」

 という言葉があるが、無双というものは、ひょっとすると、

「必ず、反対側につりあいの取れるものを隠し持っている」

 と言えるのではないだろうか?

 と考えれば、

「何か見えないものが、この世で躍動している」

 という考えも、まったく当て嵌まらないとは言えないような気がするのであった。

「一体何を隠し持っているのか? そもそも、それは、本人が持っているもので、隠している」

 と言えるものなのだろうか?

 本人が持っているものかどうかということに関しては、正直何とも言えない。本人に意識がなくても、無意識の中の意識として分かっている場合もある。

 それをまるで。

「後出しじゃんけん」

 のように、取って付けたように、

「知らない」

 ということで、隠そうとするから、ぎこちなくなるのだ。

 しかし、本人としては、

「意識がなかった」

 というのは、本当のことであろうから、それを、何も知らない他人が、

「そんなことはないだろう」

 などといって責めたりすると、そこで仲たがいをしたり、喧嘩になってしまったりするのである。

 これほど、

「無駄な喧嘩」

 というのも、ないであろう。

 世の中において、このようなムダなことが、どれほど多いというのだろう?

「無駄だと思っていてやってしまうこと」

 というのは、案外あるもので、それこそ、

「必要悪」

 というものがあるという感覚になる。

 それが、前述の、

「依存症」

 のところで話した感覚であったり、いわゆる、

「抑止力」

 というものであったりするのではないだろうか?

 抑止というのは、それこそ、前述の、

「正反対の平衡」

 という意味での、やじろべえであったり、天秤のように、

「左右の均衡」

 というものが保たれていると思ってもいいだろう。

 しかし、もし、

「必要悪というものが見えなければ、それに超したことはない」

 といってもいいだろう。

 そんなことを考えていると、

「2つあることが均衡である」

 という発想は、必ずないといけないとは言えないのではないだろうか?

 先ほどの、

「必要悪」

 という言葉があるが、これも、

「本当はないに越したことはないが、必要となるもの」

 などという意味であり、考えてみれば、

「本当の悪だ」

 とみなす者もいて、その線引きが難しい時もある。

 ということは、先ほどの、

「正反対のもの」

 という理屈から、

「表裏一体のもの」

 とも理解することができる。

 そういう意味では、

「本当に必要なもの」

 あるいは、

「本当の悪」

 と、それぞれ、紙一重で背中合わせなのかも知れない。

 必要悪の中には、

「これって本当に悪なのか?」

 と思うようなものもある。

 たとえば、

「医薬品」

 など、どうであろうか?

「いやいや、医薬品は絶対に必要だから、悪ではない」

 と普通は思うだろう。

 だが、実際はどうであろう?

 確かに医薬品がなければ死んでしまうということは当たり前にあることである。だが、医薬品で助かる人もいれば、下手をすれば、医薬品で、亡くなってしまう人もいる。

 何しろ、

「異物を体内に入れるわけである」

 人間、一人一人個性を持っているわけなので、そもそも、

「万人すべてに、同じように効く」

 などという薬が存在するわけではない。

 下手をすると、

「副作用」

 いや、ワクチンや予防接種ともなると、

「副作用」

 を起こすことも多々あるだろう。

 それが、アレルギーのような、アナフィラキシーショックを起こしてしまえば、

「死に至る」

 というものである。

 そういえば、

「スズメバチに二度刺されると、死んでしまう」

 と言われるが、なぜ、

「二度刺されると?」

 ということなのであろう。

 それは、死に至る原因が、

「ハチの毒によるもの」

 ではないからだった。

 というのも、

「ハチに刺されると、ハチの毒が身体に入ることで、人間は身体の本能で、ハチの毒に対し、免疫という抗体を作る。そして、もう一度刺されると、今度は、侵入してきたハチの毒と、一度できあがった抗体とが副作用を起こすのだ。それが、アレルギー性のアナフィラキシーショックであり、血清を決まった時間までに摂取しないと、命を失う」

 というのが、ハチに刺されたことによる死なのだ。

 つまりは、ハチの毒によって死ぬのではなく、アレルギーによって死ぬことになる。身体の反応が悪い方に働いたというわけだ。この抗体はある意味、人間が自分の身体につくる医薬品のようなものだと考えれば、副作用のある医薬品は、人間にとっての、

「諸刃の剣」

 つまり、必要悪だといえるのではないだろうか?

 さて、他の必要悪というと、やはり、

「本当の悪ではないか?」

 と思うようなものも、あり、実際に、

「本当の悪」

 に近い認定のあるものもあるだろう。

 そのいい例が、

「パチンコ」

 なのではないだろうか?

 そもそも、大きな勘違いをしている人がいるかも知れませんが、基本的に、

「パチンコ・パチスロ」

 というのは、

「ギャンブルではない」

 ということである。

 それは、

「法律的な分け方をすると、パチンコ・パチスロは、ギャンブルではなく、遊戯になるのである。つまり、ゲームセンターの中にあるゲーム機と変わりがない」

 ということである。

「お金に交換できるのだから、ギャンブルなのではないか?」

 ということであるが、それだと、競馬、競輪、競艇などのような、公営ギャンブル扱いにしてもいいはずだ。

 そうならないということは、ギャンブルではないということで、なぜギャンブルではないかというと、

「三店方式」

 というものが使われていて、一種の、

「法の目をくぐっている」

 といってもいいだろう。

 それは、どういうことかというと、

「まず、玉やコインを、計測器を使い、レシートに変える。それを今度はパチンコ屋の受付に持っていって、そこで、景品に交換するのだ」

「何玉で、おかしに交換できる」

 というような、実際の景品に交換する分にはそのままでいいのだが、それをお金にしたいと思うと、

「換金用の景品」

 というものに、交換する。

 今度はそれを、景品交換所というところに持っていって、それをお金に換金するわけだ。

 これを聞くと、

「ほら、結局お金に換金しているじゃないか。これをギャンブルと呼ばずして、何と呼ぶのか?」

 と言われるに違いない。

 だが、言われた人は、ニンマリとして、

「景品交換所が、パチンコ屋が経営しているところであれば、問題なんだけど、そこはあくまでも、景品交換所として独立した経営になっているから、問題ないんだよ。だから、景品でお金を払った交換所は、今度はパチンコ屋に景品を持っていくと、そこで、パチンコ屋が、景品を買い戻してくれるというわけさ。だから、客は、パチンコで儲けたものを、パチンコ屋でお金に換金してもらっているわけではないので、パチンコ屋自体は、ギャンブルの店ではないということになるのさ」

 というのである。

 正直、

「ただの屁理屈なのだ。そこに、別の企業が絡んでいようがどうしようが、換金に変わりはない。だから、今ではそこまではないが、昔のパチンコの景品交換は、分かりにくいところにあり、客が、景品交換所の場所を聴いても、なかなか教えてくれないということがあった。そんな時は、客も気を利かせて、他の景品を手に入れた人の後ろにくっついて行って、そこで確認するという方法を取っていたものだ」

 ということになる。

 それが、パチンコ業界がいうところの、

「三店方式」

 というもので、

「プレイヤーも、パチンコ屋も、景品交換も、すべてが独立した会社」

 というようなイメージを持てばいいのだろうか?

 景品交換所というものが一つ絡むだけで、法を逃れる。パチンコ屋がいい悪いではなく、どちらかというと、

「法というものの抜け目がある」

 ということが、

「本当の悪」

 だということではないのだろうか?

 だから、パチンコ屋というものを毛嫌いする人が多いのだろう。

 しかし、元々は、このやり方を考えたのは、警察だったのだ。

 歴史としては、パチンコの景品交換をタバコで行っていたパチンコ業界であるが、その間に、換金行為を行う仲介者として、

「不法行為を行うことで、利益を得る」

 という連中が出てきて、それが暴力団などの、資金源として使われ出したのだった。

 警察は、

「タバコ専売法違反」

 で検挙していた。

 元々、タバコや塩などは、

「専売公社」

 と呼ばれる、今の、

「日本たばこ産業」

 の前身であるところが、国営として法律で、独占販売が認められていたので、

「他の人間が販売してはいけない」

 ということだったのだ。

 だから、タバコで利益を得ることができなくなったパチンコ屋は。今度は、景品を、チューイングガムや、砂糖に交換したりしていた。

 そのうちに、景品換金利権を巡って、抗争が起こるようになると、警察も黙っていられなくなり、このような、

「三店方式」

 と呼ばれる方法を考え出したというわけである。

 それを考え出したのは、当時の大阪府警の人間だった。

 彼とすれば、三店方式の、景品交換の人間に、障碍者や未亡人を雇い入れることで、

「職のあっせん」

 にもつながり、大阪府障碍者未亡人福祉事業協会に委託させることで、うまく雇用につなげていたのだった。

 ただ、これはあくまでも、

「法の抜け道」

 であり、

「こういう方法を取ることで、これは、賭博ではなく遊戯でである」

 としていたのだ、

 だから、刑法としては、

「賭博及び富くじに関しての罪」

 ではなく、

「風俗営業法」

 で間折られることになり、

「遊戯以外の行為は禁止」

 ということになっているわけである。

 しかし、やはり、

「遊戯をした後、景品に変え、最後に換金していることに変わりはない。本来のような目的から、つまり、

「未亡人や障害者を守る」

 というところからかけ離れているのに、三店方式というのは今までのまま、

 さらには、不況の時期などには、時々、

「景品交換所を襲う」

 というような強盗事件も起こっていた時期があった。

 その時に、本来であれば、思い切って、

「三店方式」

 というものをなくすということもっ考えられたのだろうが、それができなかったというのは、

「元々始めたのが、警察だった」

 ということで、

「その警察が二の足を踏んでいる」

 というところが、難しいのではないだろうか?

 さらにいえば、今も続いている、

「世界的なパンデミック」

 が起こった時、政府も、最初は、

「わけが分からない」

 ということで、闇雲な、

「人流抑制政策」

 である、

「緊急事態宣言」

 というものを発令し、国民を締め付けるやり方を取った。

 その方法は、今の政府が行っている、

「共存」

 といい、

「表ではマスクを外していい」

 などという、クソバカげた政策に比べれば、よほどマシだったのだが、その時に、一般企業、つまり、生活の最低限な必需品である、医薬品や食料などの、

「コンビニ、スーパー」

 や、

「薬局」

 など以外は、基本的に休業(もちろん、交通機関のインフラは除く)ということにしたのだが、その時に、国や自治体が、補助金ということで、

「子供の駄賃」

 くらいの保証を出すことになった。

 実際には、半年以上も遅れたりして、間に合わなく、廃業に追い込まれたところもかなりあったという。

「そんなはした金、家賃の数日分しかないわ」

 ということで、要請に答えず、無視して店を開けていたところもあった。

 それはそうだろう。

「一日に、数百万の利益がなければ、採算が合わないところに、一か月10万円くらいの補助金でやっていけるわけはない」

 というわけである。

 パチンコ屋などがそうだった。

 しかし、ほとんどのパチンコ屋は、休業要請に応じ、さらに、クラスターという集団感染を起こしたわけでもないのに、パチンコ屋が、開店していると、思い切り悪者扱いにされたのだ。

 実際には、他の業界の店も店を占めずにやっていたところがあったのに、そこに対しては何も言わない。たぶん、

「自分たちとは縁のないお店」

 ということで、何も言わなかったのだろう。

 パチンコ屋のそんな営業が、いつしか社会問題となる。自治体は、

「店を閉めなければ店名を公開する」

 と言われ、パチンコ屋も。

「構わない」

 とばかりに営業していると、面白い現象になった。

 何と、店名を公表すると、人が押し寄せたのである。しかも、全国から、

「それだけ依存症の人が多いということか。こんな巣籠生活に対して嫌気をさしているということでしょう」

 ということだった。

 人流抑制ということだから、当然、一般人の外出の自粛も促すことになる。街に出ても、ゴーストタウンなのだから、誰も出ることをしないだろう。

 だから、いい加減に嫌気が差している人が、開店前のパチンコ屋に、長蛇の列を作っているというわけだ。

 店名を公開することで、余計にパチンコ屋に人を集めているなど、完全に、

「ミイラ取りがミイラになった」

 ということであろう。

 それを考えると、実に滑稽だが、問題は、

「どうして、パチンコ屋だけが、集中攻撃を受けたのか?」

 ということだ。

 やはり、ここは、

「三店方式」

 という名の下で、営利をむさぼっているのが、パチンコ業界ではないか?

 という考えが、世間にあるのかも知れない。

 その、

「三店方式」

 を、必要悪と見るかどうかは難しいところであるが、もし、これを

「必要悪だ」

 というのであれば、正直。

「歴史を勉強してから言え」

 といいたい気持ちになる。

 ちゃんと歴史を勉強していれば、

「何が悪くて何が正しいのか?」

 ということを、自分で判断できるようになるからである。

 今の人たちの中で、

「三店方式だから悪い」

 といっている人は、本当に、この

「三店方式」

 という意味を分かって行っているのだろうか?」

 というのも、

「三店方式の何が悪いというのか?」

 ということを、

「どこまで理解しているか?」

 ということである。

 つまり、

「パチンコというものがギャンブルであり、そのギャンブルというものをごまかすだけだけに、都合よく法律の目をかいくぐった」

 としか思っていない人間は、間違いなく、一度でも、三店方式というものを、調べたりしたことはないだろう。

 今はネットがあるので、

「ググってみる」

 というだけで、すぐに情報が出てくるのに、それもしないのだ。

「文字を見るのが面倒だから、ビジュアルに訴えるマンガに走る」

 というのと同じではないか。

 確かに、マンガというのも、

「ビジュアルを使った、日本固有の文化」

 である。

 しかし、昔あれだけ本を読んでいた人が、いなくなり、マンガに走るというのは、そういうことであろう。

 本来小説というのは、

「文字を自分で読み解き、その情景を思い浮べることで、その世界に入りこむ」

 というものだったにも関わらず、その想像力を否定し、ビジュアルに走ることで、安易に芸術を得ようなどという人間も、一定数いることだろう。

 だが、それは、正直、

「どこまでが、正しい」

 という考え方をしてしまうと、進む道を見誤ってしまう。

 決して、

「これは、善悪の問題ではない」

 と言えるのではないだろうか?

 ただ、人間の好き嫌いというだけで、それぞれにいい分があるわけで、それが、いわゆる、

「最近の若いもんは」

 と、年寄りがいい、

「年寄りは頭が硬くて困る」

 と、若者がいっているようなものである。

「いい分はそれぞれ」

 しかし、それだけに、物事を見るのに、

「否定から入ってしまうくせ」

 というものをつけるというのは、人間として、

「損ではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 好き嫌いはあるが、それに対して、自分の意見を持っていなければ。それは、間違った道に進むということになりはしないだろうか?

「必要悪」

 というものを考えるのは、そういうところからも考える必要があると思うのだった。

 そんな必要悪というものは、確かに。パチンコ業界だけではないだろう。

 この、

「三店方式」

 というのも、ある意味、必要悪を使って、本来の悪への、

「抑止力」

 に使おうとしていたではないか。

 それを、いまさらというわけではないのだろうが、

「世界的なお案でミック」

 を理由に、

「三店方式が悪い」

 といって、悪の矛先をそちらに向けてしまうのは、やはり、最近言われるところの、

「コンプライアンス」

 という問題になるのだろうか。

 コンプライアンスであったり、女性問題であったりするのも、行き過ぎると、今度は別の社会問題を引き起こしかねない。

 特に、20年くらい前からであろうか、

「男女雇用均等法」

 の成立に合わせて、表記がいろいろ変わったりしているではないか。

「看護婦」

「スチュワーデス」

「保母」

 などという言葉を使わなくなったりしているではないか。

 それは、正直あまりいいことだとは思えない。

 そもそも、男女雇用均等というのは、

「女性が無理をせずにできる仕事環境なのではないか?」

 と思うのだ、

 女性に、

「男女平等なんだから、男にはない生理休暇をオンナだからほしいというのでは、片手落ちだと思うのは違うのだろうか?」

 と感じる。

 逆に、

「女性は生理というものがあるのだから、男性のように無理をしないでいい」

 という風にしておいて、

「だからといって、女性が休むことを差別に使わない」

 という程度が一番いいのではないかと思うのだ。

 そんなことを考えていると、中には、

「男女雇用均等法というものを、都合よく使おう」

 という輩も出てくるのではないかということであった。

 それが、

「男女差別」

 あるいは、

「性犯罪」

 というものに結びついてくると、一つの問題として、一般の人の頭の中に、

「女性は弱い」

 という発想が刷り込まれているということだ。

 例えば、痴漢犯罪など、昔は、

「女性による親告罪なので、女性の泣き寝入りが多く、女性が可愛そうだ」

 という意識が強い。

 そうなると、今度はそれを逆手にとって、女とまわりの人がグルになって、痴漢されたのを、まわりの人が見ていたという設定で、痴漢をしていない人に対して、その場で公表し、警察に突き出す場合もあれば、黙ってどこかに連れ出して凶悪することもある。

 脅迫の場合は、男の方も、従うしかないと思い、それからそいつらに付きまとわれ、金をむしり取られ続けるという、まるで、美人局のような被害に遭いかねない。

 警察に通報されれば、まわりの目もあることからやってなくても、まわりが見たというだけで、犯人扱いにされてしまって、その場で人生が終わってしまうというのも、女性の立場が強くなったことでの、冤罪を生むということになるであろう、

 そうなってしまうと、今度は、

「女性が男性の立場と同等ではなく、完全に、男性が弱い立場に追い込まれる」

 ということではないか。

「男女平等はいいが、行き過ぎてこういうことにならないかということを、果たして、皆分かってやっているのだろうか?」

 と考えるのだ。

「まことにバランスが悪い」

 と言っていいだろう。

 いわゆる、

「美人局系」

 の犯罪というのは昔からあった。

 特にその中で難しいと言われるようになったのは、

「オンナが、誰か一人を狙って、その男に近寄ってホテルに入る。ずっと女が誘っているところを、急に女が怯えだしたと思うとそこに、別の男が入ってきて、撮影をしているので、これをばらまく」

 といって脅しをかけるというパターンである。

 犯人グループは、その男が、

「金を持っている」

 そして、社会的な立場がある」

 ということで、

「社会的な立場を揺るがされると困るだろう」

 ということを狙って、美人局を行うのだ。

 もちろん、女の色香にやられてコロッと騙される男も男であるが、騙す方は、もっとたちが悪いというものだ。

 彼らはしかし、大きな間違いを犯している。この場合の美人局というのは、

「本当に成功するのだろうか?」

 ということである。

 というのは、犯人グループの間違いは、

「やる方は、自分がやられるということを分かっていない」

 ということである。

 どういうことなのかというと、

「相手のグループは、例えば狙ったターゲットが、芸能人であったり、社長であったりと、その肩書が重要だったりするわけではないか。だから、その分の金を持っているわけだから、確かに最初は、脅されれば、金を出してしまうだろう」

 ある意味、犯人グループも、そこでやめておけば、まだよかったのかも知れないが、調子こいて、さらにその相手を、

「一生、金ずるにでもしよう」

 とでも思うのか、まず間違いなく、最初にうまくいけば、最後脅してくるのは当たり前だというものだ。

 しかし、やられた方は、

「はい、そうですか。私が悪うございました」

 といって、ずっと金をむしり取られる人生を歩むと思うだろうか?

 やられた方とすれば、問題はお金ではないのだ。

「もし、このことが世間に分かれば、自分の人生も終わりになってしまう。そうなると、全神経を集中させて、相手の攻撃を避けようとするに違いない」

 と言えるだろう。

 そうなると、やられた方は必至だ。

「金はこれからまた稼げばいい」

 ということで、金に糸目をつけず、必死になって金を使って、防御することだろう。

 そうなると、金で雇われた連中なのだから、プロといってもいい、ちょっと小遣い稼ぎ気分のチンピラに太刀打ちできるはずもなく、すぐに、素性もバレてしまい、奴らが揺すってきたのをこれ幸いにと、今度は、プロ集団がチンピラをボコボコにするというものだ。

 要するに、犯人グループには、

「自分たちが、すべて攻勢であり、相手は、こちらのいうことを聞くしかない」

 と思い込んでいるのだ。

 だが、普通に考えれば、

「彼らは金を持っていて、立場の問題がある。だとすると、自分を守るために、金に糸目をつけず、こちらを壊滅させるまで攻撃してくるだろう」

 ということが分かりそうなものである。

「何かの策を弄する人間は、えてして、相手もその作戦を使うことを失念している」

 という当たり前のことを分かっていないのだった。

 それが、

「美人局の限界」

 と言え、

「そんなに簡単に成功するくらいなら、誰だってやっている」

 というものである。

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