書き物集

@keme_omochi

手記

最後にこれを残しておこう。書かないと落ち着かない。2023年の冬に私の身に起きたことを記しておこうと思う。三年前の一月四日の午後三時、私は実家に到着した。職場が繁盛期で大変忙しく、帰省の予定に大きな遅れが生じたが、母の変わらぬ元気な笑顔を見ることができたので、嬉しかった。私はそのまま十五の時に使っていた自室に入り、戸棚、椅子、机、寝具がすべてあの頃の配置と様相のままであることに安心した。そのまま椅子に腰かけ、しばらくは過去の思い出に思いを巡らせてゆったりと短い休暇を過ごした。結構な時間が経ったのを感じ、手元の時計に目をやったがあまり時間は経っておらず一時間ほどしかたっていなかった。そのことに気づいてから少し間が空き、母から買い出しの願い出しを私は快く引き受けた。そろそろ故郷の変化に目をやりたかったところだった。玄関を出て階段を下り、近くの売店を巡りつつ私は近所の様々な場所を練り歩いた。大通り、潮の香りと船の音が響く港、高い草が生え、緑の木々の枝が垂れる川の道を歩いた。指定された品物を購入した頃には辺りは暗闇に包まれ、数多の生物が発する音によって静かな故郷は昔と変わらぬ美しさを帯びていた。その中をゆったりと歩き、何事もなく実家の玄関に着き、鍵を回した。内鍵を閉め、靴を脱いでいた時、確かに玄関のノブが回った。音もなく、妙に機械的な動きだったように見えた。少々気味が悪かった。何者が回したのかを確認するためにスコープ越しに外を見たが、人影はなかった。気味の悪さが強まった。気のせいだとして、そのまま夕食の席に着いた。食事を済ませ、就寝の準備を終えた。八年前に使っていた寝具の上に横たわり、眠りについた。完全に目を覚ます前、窓辺から何か大きな堅いものが何かを行おうとするまさぐるような音を耳にしたが、仕事の疲れがあまりにも苛烈だったため、そのまま眠りに入った。翌日の朝、特に異常もなく昨晩の出来事も忘れ、私は一日を何もせずに過ごした。激務からの疲労に泣く体には、何もせずに故郷の懐かしい空気を回すのが最も適切な休暇の過ごし方だった。そのまま日が落ちるまで過ごし、昨日と同じように眠りについた。昼に少し寝てしまった故なのか、まだ外は暗く、しばらくは夜が明けそうにない時間帯に私は目を覚ました。もう一度眠ることはできなかった。私は体を動かし眠りを誘おうと散歩に出ることにした。財布だけを携え、行き先なく故郷の道を歩いた。昨日と変わらない美しさを帯びていた。一時間ほどたった気がし、そろそろ戻ろうと帰路を辿った。実家の駐車場を通っていた時、私は自分の所有している車にねとねととした、透明な粘着性の液体がボンネットに付着していることに気が付いた。それに気を取られ、気が付いたころには周囲には以前のような美しさはなく、異常を孕む静寂に包まれていた。精神がこの状況に警鐘を鳴らし、私は早急にあの寝具の上に戻らねばならないと感じ、部屋に戻ろうとした。それと同時に、自身の足が何か堅いものにしっかりと握られている事、その者の正体と、昨晩に窓辺でのまさぐるような音が気のせいでない事。音を発した存在と今足を握る存在が同一であることを理解した。そして、その者の正体もよく理解していた。今で自身の足に加え、腰さえも握るそれは木の幹と枝であり、私の良く知る木のものだった。私が十の時からよく知る、私の部屋の窓からよく見える木のものであった。気が付けば私はその木の根元近くに確かな力で押さえつけられた。逃げることは叶わなかった。それでも逃れんと私は足搔こうとした時、私は突如不快感に襲われ、それを断念した。不快感といえば凄まじく、体の末端から脳に向けて、とても細い何かが血管の内側をまさぐり進んでいるようだった。あまりの不快感に涙を流し、それが脳にまで達したときに、私は気を失った。私は自身の寝具の上で目を覚ました。私は寝具の上から崩れるように降りて、出立の支度を済ませた。もう三日ほど滞在する予定であったが、昨晩の夢による影響により私の精神は限界に達し、早急にこの地を発たねばならないと感じたからだ。母に別れを告げ、階段を下り自身の車のボンネットを確認して安心した。車に乗り込みそのまま自宅に帰った。道中は何事も無かった。次の週、仕事に戻り、あの時の出来事は夢だったのだと思い忘れ、二ヵ月ほど以前と同じ日々を過ごした。もう一月程度時間が経った時。私の体に異常があることに気が付いた。私は色覚異常を患い、それは今現在知られているもののどれにも当てはまらないものである事。自身の尿が浅黒い緑になっていることを知った。一応薬を処方して頂いたが、もう効き目はない。時間が経つにつれて私の体の異常性は増していき、終には幻覚さえ見るようになった。それもはっきりと。植物たちが『戻れ』とだけ、そうとだけ語りかけてくるようになった。仕事のストレスと重なり、私は職場で気を失い倒れてしまった。後に医師からしばらくの入院が必要だと言われ、そうすることにした。職場の皆に申し訳ないが、あの日の夢で多大なる悪影響を受けた私の精神には回復が必要なのだ。






追記:あれは夢などではなかった。ましてや悪影響などを及ぼすものではなかった。あの木‐実家の私の部屋からよく見える木‐は大変素晴らしいものだった。あれは人の限界を高めてくれる効果を持つのだ。生物の成長を促進するものだった。私はあの木を保護し、更なる恩恵を受けるため。この厭わしい拘束を解き、急いで向かおうと思う。

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