第41話 水郷の苔と鱗 side『風』
左頬や腕や脚にある
「クゥーは好きじゃなかったけど、アイレが好きっていってくれたから好きになった!」
そう言うのだ。君の小さな体と心はやけに儚く感じられた。
翠星と呼ばれる緑と水豊な秘境で、僕ことアイレと僕の身長の半分ほどのクゥーという少女は暮らしていた。
クゥーを探し続けて三年。やっと見つけた君は少し不思議な女の子だったけど、その笑みも笑い声も触れた温もりもただ一人の君でしかなかった。
三年間、ずっと共にいてくれた君は僕にとってかけがえのない人。
艶やかな水色の髪は地面に擦れるくらいに長く、真っ白な肌には所々に浅葱色の鱗がついており、翠のコロンとした大きな瞳に愛嬌のある幼い相貌。
僕とは違い水を操ることができる少女の名前はクゥー。
水泡で遊ぶ君を見つめながら僕は思うのだ。
「君が何者でも、僕はここにいるから」
それは誰かに向けた言葉だ。きっと僕に向けた言葉だ。そして、神様にした決意表明だ。
「僕がきっと君を幸せにするよ」
恥ずかしく君には直接言えないけど、僕はそれを言霊にして誓う。どうか、少女を育んだ緑あふれる大地が覚えてくれるように。
「アイレ! みてみて!」
てくてくと駆けてくるクゥーはアイレの前で両手を広げた。そこには水玉を苔で覆う不思議な生物がいた。よく見ると苔から小さな脚が二本生えており、水玉の中にある気泡が眼なのだろうか。とにかく不思議な生き物だ。
「アイレアイレ! かわいいね!」
「あー……うん。かわいいのかな?」
「かわいい!」
ピンと来ないアイレに詰め寄って強く主張するクゥー。こういう姿を見ると声越しの頼もしい少女と同一人物なのかと疑いそうになる。けれど、きっと少女の本質が目の前の子供のようなクゥーなんだろう。
そうやって君の本当を見る度に僕の胸の中は暖かなもので満ちていく。
「ねぇアイレ?」
「ん。あーうん。かわいいかどうかはわからないけど、綺麗だとは思うよ」
「確かに。でも、かわいいもん!」
かわいいは曲げたくないらしい。
「その生き物がなにかわかってるの?」
これまで数多の獣を見て来た。かわいらしい見た目に反して凶悪な獣も当然、その逆も然り。見た目通りのも確かに存在していた。不安を覚える僕にクゥーははっきりと「だいじょうぶい!」とピースする。
「モスハロゼって言うの。水滴に寄生して暮らすの。苔がね、本体なんだよ」
「水滴が家ってこと?」
「うん。水滴から何年もかけて成長するの。それで最後には苔になって自然に還るの」
そう見渡すクゥー。この秘境を埋める苔たちはすべてモスハロゼが成長を遂げて自然に還った証なのだろう。
クゥーはぽつりと言葉を自然に零し始めた。
「クゥーはこの子たちをずっと見て来たの。一生懸命に水滴にしがみついて頑張って生きている姿を見て来たの。みんなお母さんの所に帰るために頑張ってるの」
それはどこか尊敬と羨望の眼差しで、クゥーが見つめる先がどこなのか僕にはわからなかった。
「でも、クゥーは違う。クゥーたちはお母さんの所には帰れない。……ほんとはいちゃだめなのに……クゥーは死にたくないって思っちゃう」
それが罪だと言わんばかりに君は儚げな笑みで。
「ひとりぼっちだったのは寂しかったけど、今はアイレがいるから寂しくないの」
そう、生きていたい理由を笑みに変えた。
僕に言える言葉を探した。探して君のことを何も知らない事実に打ちのめされた。でも、それ以上に言うべき言葉が決まっていた。
僕の頼りない呼吸ですら
僕は言った。
「僕も一緒だよ。クゥーがいたから頑張れた。クゥーに会うためにここまでこれた。この先も変わらないよ。孤独じゃないから僕はこれからもここにいるつもり」
特別が欲しかった。無能を追い出した家族を見返したかった。でも、特別を手に入れても帰ることができなくて途方に暮れた。誰も僕が生きていたことを覚えてくれないことが恐ろしかった。孤独が酷く怖かった。でも、君が逢いに来てと言ってくれかたら、僕は頑張れた。今も生きているのは全部、目の前の少女のお陰。
僕の人生とは君のためにあるんだとわかったんだ。
「クゥーがいなくなったら、情けないけど僕がはもう頑張れないんだ。それに僕だってまだ死にたくない。まだまだいろんなものを見て知って聴いて楽しく生きていきたいんだ」
うまく笑えているだろうか。情けない笑みだろうか。それとも引き
クゥーはくすくすと笑って。
「じゃあ、クゥーは死ねないね! アイレ泣いちゃうもんね」
「否定はしないけど……あまり泣きたくはないかな」
「どうして?」
キョトンとするクゥーに、男としては泣くなんて情けないところは見せたくない、なんて言えなかった。どうにも君の瞳は純粋過ぎて気後れしてしまう。
だから、できれば君の綺麗な瞳に君が思う僕のまま映り続けられたらと。そう切実に願った。
クゥーという少女は不思議な子だ。十五だった僕は三年の旅で十八になり声変わりをして身長も体格も変わった。短かった髪も伸びて、それを自分で整えるようにもなり、獣の毛皮や糸なので作った服は知っていたサイズだと小さく、十五の時には
けれど、三年の時を得てもクゥーの声は変わらなかった。もちろん、女性の声変わりは男性より激しくはないとは知っている。だけど、見た目が僕よりも幼い君は三年を得てして一つも変わっていない。三年前と同じ音質、高低音、リズム感。まるでそこで停まっているかのように。想像していた君は君のままに僕の前に現れた。
クゥーの不思議な部分は他にもある。肌に混じる浅葱色の鱗に水を操る力もそうだが、三年前に唐突として現れた【穴】に落ちたのは三英雄よりも先だ。穴に落ちたのは三英雄が【穴】の中の調査に行くことを噂程度に耳にした時だった。そして、クゥーはそんな僕よりもずっと前にこの世界にいると思われる。じゃないと、こんなにもこの世界や生態に詳しいはずがない。
他にも生命に対しての考え方や生きている罪悪感、最も強く思うのは。
「クゥーがクゥーじゃなくなっちゃったら、アイレがクゥーを殺してね」
そんなことを時偶に告げること。まるで何かに怯えその運命からは逃れられないと諦観しているように。
「その時は僕も一緒に死ぬから」
「だめ! アイレは死んじゃだめ!」
「じゃあ、そんなこと言わないで。お願いだから君は僕が守るから」
「…………」
そう言うとクゥーはそれ以上何も言わなくなる。クゥーの萎んだ表情は見ていて辛い。でも僕だってそんな日が来るのは嫌で嫌でしょうがない。
「アイレはここにいるのはつまんない?」
「そんなことなよ」
「クゥーわかるよ。うそってわかるよ」
「そんなこと」
「だってアイレいつも暇そうだもん」
「うぐっ」
この秘境に辿り着いて夜を三十回
やることがない……それを暇と思われるのはしょうがない。けれど、つまらないなどと思ったことは一度もない。
君と共にいる時間のすべてをつまらないなどと思ったことは一度もない。
そう、簡単に伝えられたらいいのに、今日も僕は言葉に詰まる。きょとんと見上げる君に言いたい言葉が言えなくなる。喉の奥に細い骨が引っかかったみたいに。
理由はわかっていた。それがなおさらに僕を苦しめた。
「…………。じゃあ、クゥーの話しを聞かせてよ」
「クゥーの?」
「うん。クゥーが今まで体験してきた思い出話し。クゥーがどんな女の子なのかもっと知りたいって思うから」
それが関の山だ。許してくれ。
クゥーはうーん、と頭前後に揺らしながら。
「それって楽しいの?」
「あ、クゥーが嫌なら別にいいんだ。ただ」
「?」
はっきりとした言葉が迫り、僕はそれを
「お互いのことを知れたらもっと仲良くなれるかなって」
どうか情けない僕を怒らないでほしい。不甲斐ないことくらい僕自身が一番わかっている。でも、その感情は抱いてはいけないものかもしれないから。
だからどうかと神に祈りながら君を知ることしか今の僕にはできないから。
案の定、僕の提案にクゥーは喰いつくように。
「クゥーお話しする! それでアイレのことももっともっと知ってもっともっと仲良くなるの!」
純粋無垢で潔癖なその笑顔が好きだった。変わらぬ笑顔を好んで僕は眼を背ける。答えなどわからないなら、今はただこのささやかな幸せを望んでもいいだろうか。
クゥーが笑えている日々を願ってもいいだろうか。
「えっとえっとあのね!」
「まってクゥー。落ち着いて。ちゃんと話しは聴くから」
「わかった!」
せめて僕だけは願い続けよう。木の根を背もたれに並んで座る僕らがいつまでもここにこうしていられることを。
「昔はみんないたんだ。みんなといる時間は楽しかったの。でも……みんないなくなっちゃった。すごく痛くて……いつの間にかクゥーは一人になっちゃって…外は怖いことばかりだからずっとここにいたの。水越しに見ているだけで……クゥーは寂しかったの」
みんなとは仲間、同胞のことだろうか。仲間と逸れた、あるいは……。その先を考えたくなくて頭を横に振る。クゥーがちょこんと水たまりに触れると、そこにはアイレが冒険をしていた大自然が映し出されていた。
「これって……他の水越しの映像ってこと」
「うん。こうやってずっと見ていたの。ずっと、みんなを探していたの」
もしかして僕はクゥーのみんなと間違われているのかもしれない。そんな不安が急速に背筋を冷やしていき、居ても立っても居られずに。
「クゥー! 僕はっ」
「――そんな時にアイレを見つけたの」
その透明な瞳が僕の恥じるような不安を払拭させた。
「初めてだったの。クゥーがアイレをこの場所で見つけたのは」
「僕を初めて? 人間がってこと?」
「みんなじゃないけど、アイレを見つけて助けないとって思ったの。アイレは初めてだったからすごく気になったの。クゥーもアイレの冒険にドキドキワクワクしてたんだ!」
「僕はドキドキでヒヤヒヤだったけどね」
「こんなにドキドキワクワクしたのは初めてだったの! だから逢いたい……クゥーは思ったの。でも、クゥーはここから出れない……ううん、出るのが怖かった。でも、アイレとは逢ってみたかったの!」
僕は思ったんだ。この瞬間、このひと時に僕のすべてがあったんじゃないかって。
それは酷くお
それでもいいと思えた。それでいいと思えた。君がいいと思えた。
だから、僕は思ったんだ。
――この想いに間違いはないんだって。
だって、君が言うんだもん。
とびっきりの笑顔で種族なんか超えたとびっきりの言葉で。
「逢って思ったんだ。クゥーはアイレのこと大好きだって!」
しんしんと雫がゆっくりと降って来る。髪を揺らす風が花草の香りで満たし、音もなく波紋を立てる水面に僕たちが映る。静かにぎゅっと静かに。なのにどうして胸の鼓動はこんなにもうるさいのだろう。
君の薄紅の小さな唇。孔雀の羽のように広がる艶やかな水色の髪の毛。白い薄衣から覗く白く綺麗な肌。それでも女性的に少しふっくらとした肉付きが
僕は愛おしいと思えて堪らない。
きっと、君の『好き』は僕もものとは違う。それでも、僕を選んでそんな僕のことを好きだと言ってくれて。
「僕も……同じなんだ。……っ同じなんだ!」
同じだ。同じなんだ。同じなのに――
「君に選ばれたことが嬉しいよ」
言えない。たった一言が言えない。だって君は――
「やっぱり、クゥーが知ってる『怪物』とは違うね」
人間じゃないから――
わかっていたこと。最初からわかっていたことだ。僕と君が逢い見えてはいけない関係なんだと。
それでも、そうだとしても。僕が人を裏切ることになったとしても今は思うのだ。
「もっと、クゥーの話しを聞かせて。君がどうやって今まで生きて来たのか」
「アイレのためなら沢山お話しするね」
獣の痛苦が響き渡った。強風が草木を煽り、水滴が宙高く踊りだす。天地がひっくり帰るような静謐が一瞬を染め、次にはいつも通りの秘境が顔を覗かせる。
遠く、目の端の水鏡に映る景色から聞こえてきそうな誰かの誰かの絶叫を。
「みんな言うんの。アイレの仲間はみんな悪者だって。だからね、クゥーは退治しないといけないんだ」
「それはどうして?」
絶叫を無視しながら僕が尋ねると君は懐かしむように。
「約束したんだ。みんなの帰れる場所を作ろうって」
言えない言葉の代わりに僕は笑みを浮かべた。
どうかと願う。どうか神様と祈る。
このささやかな幸せだけでいいのでください、と。
「……そっか。約束、果たせるといいね」
「うん!」
無邪気な女の子にどうして言えようか。言えない真実の代わりに、もうすべてから目を逸らして僕はしがみつき
「僕が君を守るから」
僕は今もこれまでもこれからもずっと、ちゃんと笑えているのだろうか。
君に愛想をつかれるほうがずっと怖かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます