第30話 風の吹き始め side『風』

 

 特別を探していた。誰も持っていないこの世界で唯一無二のそんな特別を探していた。

 神の真珠。妖精の果実。旋律のオルガン。勝利の旗。大気の小石。不死の花。なんだっていい。物じゃなくたっていい。力での称号でもいい。

 僕が僕と誇れる物を彼は求めていた。

 脆弱だと馬鹿にされ追い出された彼は、そんな家族を見返すために旅を始めた。誰にも負けない彼だけの誇りを探して。

 そんな彼の悲劇はただ一つ。唐突な地震に巻き込まれ崩落と共にへと落ちてしまったことだ。


「ここは……」


 そこは正しく未知の世界だった。視界を蹂躙じゅうりんするように生いしげった草木の大群。天場ではありえない明るい空。草陰からこちらを覗く見たことのない生き物。森林を震わせる咆哮が轟き、木漏れ日を遮るようにこずえの上を大きな鳥が飛んでいった。


「あれは獣⁉」


 四日間にわたり天場を蹂躙した災厄の存在が彼の視界の先にいたのだ。

 突如の大地震と共に大地に複数の大穴を開け、彼らの世界を蹂躙しに這い上がってきた怪物たち。その災厄は英雄たちによって食い止められたが、彼の眼ははっきりと覚えていた。無数に跋扈ばっこした災厄たちの正体……その獣が彼の眼の先にはいたのだ。


「うそ、だ……」


 彼が不運にも落ちてしまった地下世界は、そんな獣たちが蔓延る地獄のような世界だった。

 まさしく不幸の極みだろう。三英雄の一人が獣を討伐するために錬成したセフィラも持たず、平民出身の彼は錬金術の才もなく知識もなく、なにより戦う才がなかった。農作業の心得はあるが、当然獣の世界の常識など一向にわからない。

 それは、三英雄ですらまだ足を踏み入れる前の話し。四日間の激闘で緩んだ地盤災害に巻き込まれた彼の冒険の始まりだった。


「なにここ……なんでっあれって、倒したはずじゃ? じゃなくて、なんで僕が」


 混乱を極める彼に咆哮ほうこうつんざく。彼にできるのはただ一つ。無様に逃げること、それしか生き残る術はなかった。


「あぁっうあぁああああああああああああああああああああ⁉」


 彼は必死に逃げた。まだ家族に見返しもできていなければ、幼馴染の婚約におめでとうも伝えてられていない。何よりまだ何者にもなれていない。自分だけの特別が得られていない。これといった幸せもなく命の循環のために死ぬ運命など冗談だと、彼は死ぬことに抗った。


 複雑奇怪な森林を当てもなく走る。追いかけてくるのは大型の獣。鳥のくちばしが雷を落したような怒声を放ち、彼の心臓を麻痺させてくる。荒く苦しい呼吸を忘れ、振り返る暇などなく、ただただ走り続けた。倒木をくぐり、大葉の合間を抜け、三メルの崖を飛び降りて、獣道でもない背丈を越える草木に呑まれながら、目的など考えずにとにかく走った。引っかかる枝先が腕や脚を裂く。絶え間ない痛みの中を血流がせわしくなく動き回り、発汗はっかんが止めどなく風に煽られる。

 逃げて逃げて逃げて逃げて――世界は理不尽を見せつけたのだ。


「なんでっ……なんで行き止まり⁉ うそだろ⁉」


 生い茂る草道を抜けた先。彼を阻んだのは三メルはある大きな岩崖だった。それはコの字に囲い込むように彼の生きる道を阻んできた。

 どうする……そんな思考の隙を獣は与えてはくれない。ドシンっと大地揺らがす巨大な音とその存在。鳥の嘴に背中に二対の羽の四足獣が獰猛な緋眼でギロリと彼を見下ろす。

 腰を抜かした彼にその獣は嘲笑うかのようにゆっくりと歩を進め、嘴を開いた。ギラつく無数の牙が惨死を想像させる。


「ぁ……僕は、こんなところ。まだ、なにもできてないのに……」


 けれど、それが運命だった。世界はただの一人に奇跡や幸福を与えてはくれない。魂が循環する摂理の中で、死とは生を生み出す現象の一つでしかない。

 家を追い出された青年が一人、獣に喰われた所で誰も悲しむ者はいない。

 だから、世界は非常と言われようと摂理の下に運命を降す。

 けれど、もしも心優しい者が彼を助けようと手を伸ばしたのなら。その手を彼が掴んだのならば。


 ――その果実を食べて!


 誰の声だったのかわからない。彼は死にたくない一心に転がってきた翡翠色の果実を反射的に飛びつき。


「僕はっ! まだ死ぬわけにはいかないんだ!」


 その声に従って果実をかじってみせた。死に抗えるのならなんだってしてみせる。生を貪るように果実を咀嚼して食べきる。

 直後、感覚が進化する。それは言い得て妙だが、その通りだった。今まで感じられなかった存在が唐突に視界いっぱいに広がっていたのだ。


 ――風を呼ぶの。


 また脳に直接聴こえた誰かの声。彼は言われるがままに感じるがままに本能のままに成してみせる。感じる風の存在を取り入れ身体の中で燃える何かと干渉させ、今ここに抗う力を。


「【風よ! 僕に力をくれ!】」

『ギャァアアアアアアアアアアアアアアアア‼』


 逃げた食事を噛み砕かんとする嘴の一撃がその場を粉砕した。二メルの深さを掘った嘴の先に、されど人の男はいない。キョロキョロする獣にその声が落される。


「どこを見てる。僕はここだ!」


 声の方、頭上へと振り返った瞬間。突風が獣の横を抜けた。残滓が追いかけるようにいくばくかの空白を得て獣は理解する。風に舞うのは己の羽と墳血であることを。


「いくぞ」

『ギャァアアアアアアアアアアアアアアアア‼』


 再びの瞬撃。風を纏った強烈な一撃が獣の首を打ち据える寸前、かの獣の嘴に尋常ではない熱を感知。すべてを焼き払う業火の砲撃が放たれた。風を操り無理矢理離脱した彼は放火する獣の背後へと回り込みむ。しかし、読んでいたかのように鋭い尾が薙ぐ。跳躍して回避して眼が合う。意思疎通したかのように互いに動きだした。


「【風よ・もっと力を貸してくれ】!」

『ギャァアアアアアアアアアアアアアアアア――‼』


 かざす掌の先に収集した渦巻風圧を。体内を熱し大気を揺らすエネルギーの煌めきを。


「はぁあああああああああああああああああああ!」

『ギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ‼』


 風撃と砲炎が衝突した。凄まじいエネルギーのぶつかり合いが周囲一帯を揺らがし衝撃の圧で近くの岩や木が破壊される。風と炎の激突はまるで竜巻のように大気を荒し小さな爆発と幾度と衝迫しょうはくが威力を高めていく。まさに命懸けの全力投球。

 ただ心意気のままに莫大な精神量と体力を注ぎ込みこの一撃の風にすべてを賭ける。


「僕はっ……僕が誇れるものがほしい! 僕だけの特別がほしい! だからこんな所で死ぬわけにはいかないんだぁああああああああ‼」


 翡翠色が視界すべてを覆い尽くし、それは真っ白な光に包まれるような錯覚の果て。風はすべてを呑み込み静音に返した。

 力尽き、受け身も取れず身体を打ち付けた彼はゆっくりと眼を開く。


「ははは……空って、青いんだ……」


 この日この時この場所で一つ理不尽は破られた。

 とある少年の強い意志が凶悪な運命を跳ね退けたのだ。彼は気づかないだろうが、錬金物アルケミスを使わずに魔術を使ったのはまさに当時において異常だったことに。

 笑えてくるほど青い空を見上げながら彼は手を伸ばす。


「この力が何かわからないけど、この力があれば戦える。なら」


 痛む身体を頑張って起こし、酷い有様だと周囲を見渡しながら彼は立ち上がった。


 獣の獣声は響き渡る。今だ見たことのない未知で溢れた世界。ここには自分がまだ知らない多くのものが存在している。

 彼の心は歌い踊るように確かに沸き立ったのだ。


「旅を続けよう。僕の生きる意味をみつけよう」


 それが、のちに【風の使者】と語られる、とある少年の旅の始まりであった。

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