第10話 意志の歌
私は何をしているのだろうと思った。
なんでここにいるんだろうと、何もできないのだろうと。
ただただに、目の前の光景に圧倒され目の前の敵に立ち
私じゃ目に追いきれない速度で信じられない光景が広がっている。死神と呼ばれていた化け物に、アディルさんはその剣と魔術で
血が噴く。壁が崩れて炎が唸り風が走る。鎌が斬撃を撃ち返し目に見えない速度の攻撃がアディルさんを蹂躙する。
どうしてアディルがあの攻撃を受けて死んでいないのか、どうしてあの化け物は死なないのか、私には何もわからない。
私には記憶がない。この場所の存在、エレメント、ナギ、人がこんなにも強いのも今日初めて知ったばかり。
そして同時に思う。私にはできない、と。
できるはずがない。できないよ。だって死んでしまうから。
なのにどうして……。
「どうして……あなたは挫けないの?」
アディルさんはその心を折らなかった。リヴでさえ折れかけていたのに、どうして同じ人間のはずなのにアディルさんはこんなにも強いんだろう。
どうしてあなたは戦えるの? どうしてあなたは諦めないの? どうしてあなたは私まで守るとしてくれるの?
わからない。わからない。わからないことだらけだ。
だけどわかったこともある。
アディルさん――あなたの守りたいもの。
アディルさん――あなたが生きたいこと。
アディルさん――あなたは諦めないこと。
アディルさん――あなたが誰よりも優しいこと。
「私は何もできない……私はなんで……」
自罰的な闇が心に
でも、そんな
銀と銀がぶつかり合う意志の叫びのような清音。それは眩い光そのものだった。
「あぁあああああああああああ‼」
『――――――』
炎風の斬撃と漆黒の斬撃が交差し世界は明滅する。
「…………」
その姿はまるで勇者みたいだった。たった一人で邪悪に立ち向かう正義の戦士。
その意志は英雄のようだった。誰かを守るために命を賭す希望の戦士。
その人は眩しかった。あそこに、あの光に行きたい。そう思ってしまうくらいに輝いていた。
たぶん、憧れた。強い彼に憧れたのだ。
胸に密に灯った炎はまるで悪を浄化するかのように、恐怖を払い震えに温熱を与え私の背筋はピンと伸びた。
「私は私が誰かわからないけど……今は強くなりたい」
ぎゅっと手を握る。強く強く祈りよりも願いよりも決意の熱を燃やして。
「あの人みたいに強くなりたい!」
記憶がないなんて言い訳はもう嫌だ。何もわからないなんて逃げるのは大っ嫌い。何もできない私が一番嫌だ!
だから今は一つ、何もできない私を捨ててあの人のように強くなれるように。
「――お願い! アディルさんを助けてっ!」
ぎゅっとぎゅっと強く強く何かを探り何かを求めその何かに捧げるように。その魂の在りどころへと潜り願い求め――
――歌って
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
私は心の底から歌を歌った。
強く強く私を証明するように歌を歌った。
それは唐突な出来事。歌声はすべての音を浄化するかのように旋律を奏で響き渡った。
思わぬ出来事にアディルとギルタブリルは飛び掛かろうとしたその脚を不意に止めてしまう。リヴは震えていた心が穏やかになるのを感じながら背後を振り返った。
少女は歌を歌っていた。
胸の前で両手を握りしめ強く強く歌を歌っていた。
「あいつ……」
ルナの歌に乗って魔術を超越した奇跡にも近い力がルナの意志に応える。
翡翠色の光のベールが広間全体に漂い妖精の鱗粉のようにゆったりと降って来る。翡翠色の光がアディルの身体に触れた瞬間、痛々しい傷口が塞がり魔術の使いすぎで擦り切っていた精神が元気を取り戻していくのがわかった。
リヴの心に巣食った恐怖を打ち消し、ありとあらゆる状態異常と傷を癒した。
「これって……治癒の魔術」
「やっと目を覚ましたか」
驚くリヴとは正反対にアディルの口角はこれでもかと吊り上がる。
歌は響き渡る。
翡翠色の水玉のように生命の潤いをもたらす。身体を心を癒し、
ギルタブリルを中心に翡翠の光は青白い寒々しさに変色していき、雪のように降りかかり大気を包んだ瞬間、ギルタブリルは初めて苦痛に身体を折り曲げた。
「ギルタブリルが!」
「これが
「
ディーヴァの歌声はパンテオンを弱体化させる効果がある。
それは肉体と魂を
生命には必ず肉体に魂が宿り命として顕在している。この法則から逸脱する生命体は存在しない。故に獣だろうが、慣れ果てだろうがパンテオンであるというのなら
されど災厄と言われる『十一の獣』。不自然に消滅したガーゴイルとはわけが違う。
その魂は揺らぎを見せない。その緋色は殺意のみを宿し人間に死を手向ける。
だが――
「チャンスだ。リヴ、腹を
「…………」
「歌が続くこの瞬間に奴を殺すぞ」
「――。任せて。あたしはもう大丈夫だから」
その眼には影のように落ちていた恐怖はなく、抗わん限りの情熱が灯っていた。
アディルは視線を前に向け、二人は走りだす。
左側より急転換して剣を振るい鎌が迎撃する。左足を下げながら右足を軸に左肩をドア端のように身体を開いて瞬撃を回避し、そのまま大きく回り込んで左肩甲骨から剣を振り抜く。見事切りつけた斬撃は虚無を通り抜けるのみ。舌打ちをする暇もなく漆黒の鎌が脳天へと降り落ちる。見ることもなくアディルは大きく後退。大地を粉砕したギルタブリルは宙に飛び散った石礫をすぐさま鎌で撃ち飛ばす。岩礫が反撃に隙を与えぬと迫り。
「【ノームよ・守れ】!」
二秒置いてアディルは右手より駆け出し、同時にリヴが詠唱する。
「【ウンディーネよ・沼となれ】!」
水のエレメントに干渉しギルタブリルの足元に出現した水が土と混ざり合って人工の小さな沼地に仕立て上げる。これによりギルタブリルの動きが鈍った隙にアディルが襲撃。
「オマエの理不尽が壊れたか!」
むろん、足の動きを鈍らせただけで鎌切りのスピードが落ちるわけじゃない。炎の巨撃は相も変わらずに塞がれる。が、押し負けはしない。
『――――――』
「驚いてんのか? たりめーだ。この歌はオマエを離さねーよ」
それは初めてだった。
アディルの渾身の一撃が鎌の防御を崩し心臓を破壊できる範囲内に入り込んだのは。
唐突に訪れた好機。アディルが間髪入れずに剣を構え直し、その闇に赫々と光る心臓へと刃先を向け。
「理不尽は死ね」
突き放った。刃先が災厄の元凶に触れる寸前、緋色の結晶はまるで生き物のように闇の中を動き刃先から逃げたのだ。
「なっ⁉」
「アディル! 後ろ!」
闇の虚無体をすり抜けたアディルは剣を振り払いに任せて振り返り、鎌の瞬撃が剣の刃を砕いてアディルの胸アームを破壊して胸元を切り裂いた。浅い墳血が
「アディルぅ!」
『――――――』
それは刹那のミスか。リヴの意識は完全にギルタブリルから離れアディルへと向いていた。その隙を狙ったギルタブリルの最適解。
その命が危うくなった正体は何か。この忌々しく己を苦しめる歌は誰が歌っているか。明白だ。
殺意の対象が自分から消えたことにはっとなり「しまった!」と叫ぶより速く、ギルタブリルの死鎌が眼を閉じて懸命に歌うルナへと振り被られ――。
『――――』
不意にルナを見下ろす形で止まった死神。その僅かな綻びは微かな奇跡を呼び寄せる。
――捕まえろ。
誰かの
『――――――』
「よし!」
ギルタブリルは闇の虚無を体内に持つが決して実態がないわけではない。緋色の心臓を内蔵する闇こそは概念的な虚無で出来ているがその身を纏う黒のローブが実態としてアディルたちに干渉を許す。つまり、ローブの上からなら奴を捕縛するのは可能、それがリヴの駆けだった。
そして今、仕掛けておいた罠。
穴に埋めて隠しておいた
スライム状の胴体に無数の触手を持つ水色のパンテオン。かのパンテオンはあらゆる生物に絡みつき捕食する雑食型。その体内はすべて毒で出来ており、スライムの内部に囚われれば一瞬にして腐蝕して死に至る。
スラグポリプスを鎌で切りつけるギルタブリルだが、スラグポリプスの触手は分裂してすぐに再生される。毒は効かないが排除できないスラグポリプスに苦戦するギルタブリルを背後に、リヴはルナを安全な所に手を引いて案内し再び向き合う。
「こっからだから! アディル! 早く起きて!」
「ちっとは心配……あー、ブラコン極まってたな」
「うるさい!」
小馬鹿にしたようにアディルは瓦礫を払いのけて立ち上がり、目にかかる血を拭い、浅く切り裂かれた胸はルナのエルリートによって静かに癒えていき、一度傷の具合を確認して頭を振った。
「今度こそは殺す。ルナ、ふんばれりやがれ」
「~~~~っ!」
「行くぞリヴ」
「わかってる!」
身動きを封じられたギルタブリルにアディルが真向から攻める。身動きがとれないとは言え、生を狩る死の鎌は顕在。
アディルが意識を引き付けるように代えの短剣で立ち向かう。リーチが短くなった短剣だが、自由自在に動かられるならまだしも、範囲外からの攻撃がない現在なら短剣でも充分に
ルナの
相も変わらず急所ばかり狙ってくる連撃を短剣の腹や側面を滑らせるように往なし、危なくなったら直ぐに後退し助走をつけて奴の心臓目掛けて切りつける。銀と漆黒が交差した合間を縫って風の刃を体部へ投擲するがスラグポリプスの触手が切れ落ちるだけ。そもそも心臓の在り処がわからなければ一点狙いは不可能。奴の心臓は攻撃を見て動く。つまり心臓に意志なるものが宿っているのだ。
「心臓に意志があんなら、オマエの目玉は偽もんだ。惑わされっかよ」
ギルタブリル……人の姿をした獣はされど人などではない。正真正銘の化け物だ。
過去の例に人に似た背格好から近づいた冒険者が殺された事件があった。これは
切りつけても切りつけても死なない。何度振り払っても切り飛ばしても死なない。
死なないことへの怒りを始めて抱いたのだ。
『――――――』
人では理解できない獣の唸り。声とも喉の震えとも違う空気の揺れがひしひしとアディルに怒りなるものを向けた。アディルは大量の汗を引き換えにこれでもかと挑発的な笑みで迎え撃つ。
「追い詰めてる証拠だな。ルナ! 踏ん張りやがれ!」
「~~~~~~~~っっ‼」
限界に達しつつあるルナの
「えいや‼」
変なかけ声と共に動物の骨で作った入れ物にたっぷりと入っている液体をぶっかけた。
「
一切の害のない緑の液体を全身に浴びたギルタブリル。その身体は黒から緑色に染色され虚無の身体に属性が付与される。
「草木と同じになったあんたに炎はどうなると思う?」
そんな問いかけに獣が答えるはずもなく、ただ何かをされたという
「おら、これでも喰らっとけ」
そう言って頭上からぶっかけたのはぬめっとしたこれまた液体。どこか油臭いそれを感覚のないギルタブリルには感じられないが人間ならすぐにわかる。オイルバードの油だ。
「とりゃー!」
またも変なかけ声でリヴが追撃。投げつけられた煙幕玉をギルタブリルが切り裂いたことで噴出し視界を奪う。
ギルタブリルに五感は存在しない。だが、一つだけの感覚が存在している。直観、その一つだ。そしてギルタブリルが所持する直観こそすべての攻撃を弾き往なし破壊した奴の強さの正体。
モーションのない速度と急所を的確に狙う必殺の一撃。そして彼我の差を圧倒的なまでに凌駕する直観。
故に煙幕などギルタブリルには平時と変わりはしない。その眼も偽りなのだから。鼻もなく、温度も感じず、食事を要らねば喉も乾かない。排便もなく死ぬこともない。
ただ、殺し殺す。そして殺意を殺すだけ。
故に唐突に晴れた先でこちらに向かってきた愚かな魂に、ギルタブリルは無慈悲に鎌を振り被り。
そして――
『――――――』
動揺が走った。まるでなぜだと目の前に驚いたように、あらゆる違和感がその身体を硬直させた。
歌声の止まった世界で立ち向かって来たのは殺意一つも持たない敵にならない少女。
己を
開放された反動と目の前の殺意のない標的。
その少女の唇を噛んだような表情に、見えないはずの、その意志を固めた子供のような表情に、ギルタブリルは致命的な隙を生み出したのだ。
「オマエは殺意に反応しやがる。殺意のねー奴は殺せるか?」
冒険者は常に警戒している。その警戒の意味はパンテオンから捉えればこちらに向けられた殺意そのもの。
ギルタブリルは殺意に反応し、殺意の高い者、己を殺す確率が高い者から殺す習性を持っているのだ。
「オマエは二つの違和感に対処できる感覚を持ってねーだろ」
それがすべてだった。ギルタブリルの直観は優れている。その直観だけでも災厄と称せるだろう。だが、直観だけではすべての物事に対処できるわけじゃない。
五感に頭脳、経験に手札。ありとあらゆる予測と思考などが運命の選択に『生きる』を選び取れるのだ。
「【
それが最後。短剣のセフィラより放たれた大火焔がスラグポリプスによって身動きの取れないギルタブリルを呑み込み大炎上。
『―――――――――――ッッッッ‼』
大気の凄まじい震えは【永劫未来の獣】の絶叫だった。
刹那、三つの爆破が連鎖しすべてを木っ端微塵に吹き飛ばす。大広間の半分近くを包むこむ大火焔は生を燃やし殺す死の象徴だった。
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