第8話 阻む炎と運命の逢瀬
においがあった。声がした。それはほんの微かな火の粉のようなもの。
しかし、その身は感覚を感じない。においがわからない音がわからない。温度も痛みも感覚器官を持たないその身体は常に矛盾を孕みながら生きている。
感じるのは命を脅かされた時の何とも言えない感覚だけ。きっとそこに熱いや痛い、苦しいなどがあるのだろうが、その獣には一切の感覚を感じられなかった。
何百年、何千年か。時間など数えずに永遠に彷徨う獣は『生きる』それだけに特化していた。決して死なず、冒涜的に命を奪い、ただただに生きる。
いつしかその獣には複数の異名が与えられた。が、もっとも大きな異名は人が禁忌として与えた獣の名であろう。『十一の獣』の一体として与えられたあまりにも無価値に恐ろしい名だ。
そしてもう一つの異名。
感覚などありはしなく、ただただに生き、ただただに襲い掛かってくる存在を殺し、ただただに生きる。殺し生きる。それを永遠に繰り返しながら決して死ぬことはない不滅の獣。
畏れられるはその不滅。慄かれるはその力。疎まれるはその姿。
黒衣を纏う二足脚の二本の腕。フードに隠された相貌はどこまでも闇であり、どこからが人か。その人のような手で持つ大きな鎌はどれだけの生物を殺したか。
矛盾の怪物。黒衣の
誰かは言った――『死神』だと。
その『死神』はその何もない身体と頭と心と何かで、それを確かに感じ取りあるいは導かれるように歩いていた。彷徨っているのにどこか目的の場所へと向かうように。
神の仕組みでもなければ、悪魔の悪戯でも、摂理の運命でもない。
それは出逢うして出逢い、迎えるとして迎える。
ただ一つの因果の下に『死神』はただ一度の感覚のままに歩き続け――
何かを待っていたのだと、笑ったのだ。
*
激しく壁が砕けた。土煙を払い、のきりと瓦礫から姿を見せるのは人間の形をした岩石の生物。顔はなく肩は水平に腕は直角。全身が岩でできたパンテオンはドシドシ踏み込み再び突進してきた。
リヴがルナを抱き寄せ、アディルと反対側に飛び回避する。パンテオン、
「リヴ!」
「任せて!」
リヴは杖を突き出す。土のエレメントにナギが干渉し大地が盛り上がる。それは強固な土の壁となり岩石男の突進を咳止めた。
「おりゃ!」
振り上げた杖を振り下ろすと、宙に出現した水が噴き出し岩人間に激突。その身体を押し流す勢いは身体を転ばせることに成功する。そのまま土でハンマーを形成し粉々に砕いてやろうとした時、ルナが「なにかきたよ!」とリヴの裾を引っ張った。
振り返ったリヴではなくルナに駆けてきた外套を被り人間に扮したパンテオン。奴は鋭い爪を立ててルナへと飛び掛かり。
「死ね」
真横から割り込んだアディルの剣型のセフィラが炎を纏って胴体を貫き吹き飛ばした。転がっていくそのパンテオンの身体は炎に焼かれ動かなくなる。
「問題ないか?」
「は、はい。大丈夫、です」
「もーアディル遅ーい。あんたはあたしたちの護衛兵士なんだからちゃんと守ってよね」
「んなもんになった覚えはねーよ。その岩石男は殺せよ」
「わかってるよーだ!」
そう言うと中断していた土のハンマーでのろのろと立ち上がろうとする岩石男を砕き殺した。ふーと息を吐く暇はなく、刹那に左遠方で爆発が起こり何事かと視線を移す。
「
「オイルバード……名前通りに油を巻いたりするの?」
「そうそう。その鳥、お腹が膨らんでるでしょ。そこに油を貯めてるってわけ。その油はあたしたちが普段使ってる油だよ。発火したらヤバいから気をつけてね」
「もう爆発してたけど……」
つまり、あの爆破は先ほど燃え死んだ何かにオイルバードの油が着火して爆破したのだろう。ゴウゴウと燃える炎は星空のような洞窟を奈落のように一変させた。
「っち。音につられてきやがったか」
「え?」
背後を振り向けば岩石男と呼ばれたパンテオンに外套を被り人間に扮したパンテオン。他にも粘々したものや、頭蓋骨を甲羅のように背負った羽虫など四方八方から群れのようにそれらはやって来た。
「どうしてこうなったの……」
どうしてもこうしてもないのだ。
これはよくある話し。運悪くパンテオンたちに狙われただけの話し。
奴等の習性は獣。人間を一番の敵とみなし排除する性質をパンテオンは有する。故に多種多様なパンテオンが一斉に人間を襲うことなど不思議でもなんでもない。
「全部で三十くらいか?」
「あーあ。今日は運が悪い。折角気分が良かったのになー」
「ごちゃごちゃ言うな。オマエは
「はいはい。ルナと援護は任せていってらっしゃーい」
そう送りだされるとアディルは大地を駆けた。
瞬撃、ひと振りの閃光が外套の獣を切り裂いた。痛苦に比例して胸から血が噴き出すのを
まずこの中で一番厄介なパンテオンは頭蓋骨を被る羽虫――スカルコックローチ。
かの虫は死体や異物などを食べる習性を持ち、放つ異臭は糞毒病に
感染を防ぐには
アディルはそのどれもを持ち合わせていないが真正面から突っ込んだ。
宙を飛び交う
アディルはスカルコックローチを飛び越え背後から炎を穿つ。油に着火して容赦なくスカルコックローチは燃えカスになった。
「次は
風のエレメントにナギを通し身体に風を纏う。風力を利用して速度を上げ跳躍。オイルバードの中を風を自由に扱って躍り出る。
『キィィィィィィィィィィ!』
唸ったカダベルコメルは跳躍して一メルを超す異様な両手十本の爪をアディルへと突き上げる。アディルはギリギリで回避し岩石男を足場に使ってカダベルコメルにそれを何度も繰り返す。頭上ではオイルバードがアディルにその大きな口で攻撃してくるが風で往なす。岩石男が不意を突いて突撃してくるが土の壁がそれを阻み、大地を操ってパンテオンの妨害がなされる。
「あんたはあたしがいないとダメなんだから。もー」
などと姉貴ぶってるリヴの魔術だ。
アディルは鼻で笑うが馬鹿な妹は図に乗っているほうがずっと扱いやすい。
それは見事な連携だった。
風を纏ったアディルが超人的な運動能力でパンテオンを
「んなくらいで充分だな」
アディルは現場から離脱し余裕綽々にセフィラを構える。風を消し不敵に。
リヴがルナの手を引っ張って遠ざかる。前方の敵は既にリヴの手によって倒されており、残りは二十近くの奴らのみ。
して、その場は墓場と成り果てる。
「【サラマンダーよ・燃え上げろ】」
誘導されたオイルバードへの攻撃。カダベルコメルの爪が、岩石男の腕が、互いの攻撃の反動が、アディルの剣が、宙を飛ぶすべてのオイルバードを殺し、パンテオンの身体と足場に
アディルの身体は風によって守られており油の一滴もかかっていない。
故に剣より放たれた焔は獣を焼き殺すのみ。
『~~~~~~~~~~ッッッッ⁉』
絶叫は燃え上がった焔に呑み込まれ、その身体は輝きを放つように赤く染まり崩れていく。どれもこれも例外なく圧倒的な火力が呑み込んだのだ。
炎は背の高い天井まで昂り獣のように唸っては燃え広がる。
「ちょっとアディル! すごい熱いんだけど! あたしたちまで殺す気っ!」
回り込んできたリヴが殴り掛からん勢いで責め立てる。
そう、炎はまるでアディルたちをも喰うかのように大きく唸り始めたのだ。
「これって消えるんだよね?」
心配気なルナを見返してアディルは焦った様子もなく薄く笑みを浮かべ。
「逃げるぞ」
と、ルナの
唖然とする二人は背中の獣のような炎が笑った気がして。
「アディルのバカぁあああああああ!」
「きゃぁああああああああ!」
と一目散にその場を離脱するのであった。
なんとか逃げ延びた一同はやっと休息を取ることに。
件のアディルだがリヴに散々説教された挙句、アディルの取り分の半分をリヴとルナで分け合うという裁定が降され見たことないほど項垂れている。
「だ、大丈夫?」
心優しいルナが尋ねるとアディルは僅かに顔を上げ。
「問題ねー。いつか倍で取り返してやる」と憎しみが籠っていたのでルナはアディルから遠ざかった。
リヴはと言うと先の戦闘で手に入れられたオイルバードの油やカダベルコメルの爪などを並べて整理していた。
「それも錬金術に使うんだよね? どんなものにあるの?」
「オイルバードの油はさっき見たいに燃やすために使ったり、あとはにおい消しとかそのまま使うことが多いかな。素材として爆弾とかの火力を上げる効果はあるね。カダベルコメルの爪はこれ実は細かい棘みたいなのが骨みたいにくっついてできてるの」
「ほんとうだ。隙間なく重ね合わせたみたい」
「これを分解して鉱石で強度を固めると投擲武器とか手芸の針になるよー」
「すごいね錬金術って。全然思いつかないよ」
「ふふん。でしょ。あたしはすごいし錬金術はもっとすごくて素晴らしいの」
その笑顔は無邪気で眩しく彼女がどれだけ錬金術を愛しているのかが目一杯に伝わってきた。きっとこの好きなことのためならばさっきみたいな戦わないといけない瞬間があっても挑み続けるのだろう。
「これが冒険……」
実感する。記憶もなく戦う術もなく生き残る知恵もなく、純粋純然だからこそ繊維の針で見えない魂まで突き刺されたみたいに感じた。
これが冒険。これがこの世界で忌避される行動で、憧れを生む正体。
それは正しく純然なる探求心と恐怖心から生まれる闇の輝きだ。
闇でさえ輝く何かだ。色なんてわからないけど、それは思わず焦がれてしまうほどの何か。奇跡と絶望の狭間。運命を超えた先にある何か。
それがほんの少しだけルナには見えた。今はまだ闇の合間に目を細めて微かに見えるくらいの小さな光りだけど。
きっとそれは、今ここで錬金術に思い馳せるリヴと戦闘中に生き生きしてみえたアディルなのだろう。
「私も何か見えるのかな」
もしこの冒険に何か意味や目標を生み出せれば、自分は二人のように勇ましくなれるのだろうか。そう考えてルナは頭を横に振った。
「私は私がわからない。そんな私じゃきっと……」
「なにが?」
隣を視ればリヴが不思議そうに首を傾げていた。素材の確認は終わったみたいであの不思議なポーチに収納されたのだろう。ルナは「ううん」と首を振った。
「私にも何かできないのかなって、ちょっと思っちゃって」
本当だった。ルナは先の戦闘で確かに焦燥を感じた。何もできない守られるだけのお荷物として心が痛んだのだ。
「才能があるんだよね……」
か細い言葉を聴き取ろうとリヴが近づいてきて俯いていた顔を上げて声を大きくする。
「リヴもアディルさんもすごかったよ。すごく強くてドキドキした」
「まーね。あたしらも伊達に冒険者に憧れてないよ。冒険者になるために沢山努力したしねー」
「やっぱりそうなんだ。確か軍に入ってるのも冒険のためなんだよね」
「そうそう。軍は入団したら厄介だけど教育機関はしっかりしてるし兵士として実践も詰める。何より機密情報が手に入りやすいし、食べ物がおいしいからね!」
「後半の方が主張強いんだけど」
「タダで美味しいごはん食べられるんだよ! 誰でもおいしいごはんが一番だと思うけどなー」
「……うん。きっとそうだね」
おいしいごはん。温かいご飯。誰かと一緒に食べるごはん。きっとそれに勝る幸せなどないのだろう。万の宝も奇跡の石も神の知恵にも勝る。
あの瞬間、確かにルナの心は温かく幸せに満ちたのだから。
「リヴならどんな怪物にも勝てる気がする」
「さすがにそれはムリ。特に『十一の獣』は別格だから」
「十一の獣?」
それは初めて聞く言葉だった。
「まだ言ってなかったっけ? 簡単に説明すると」
その時だった。今までのどんな鋭利な声よりずっと尖って怜悧で激しい何かを孕んだ言葉が空洞を裂いた。
「――立て」
えっ、声の方を見るとアディルは今にでも剣を抜き放つ体勢で後方を睨んでいるようだった。背中が痺れのような震えを感じさせる。
「なに――」
「っち。クソがァ! 逃げろォ!」
怒声に近いアディルの炎の一撃が大地を爆ぜさせると同時にリヴとルナはとにかく走り出した。身体が勝手に走り出す。途轍もない恐怖に本能が逃げ出す。まるで身体が乗っ取られたかのようにリヴに手を引っ張られながら全速力走り出した。
「アディル何がいるの!」
「クソ野郎だ。もっとも会いたくねー災厄だ!」
「――っ⁉」
「奴の
「外ってどっち! あーもう! あってるかわからないから!」
足を止めることはせずにパンテオンも無視してとにかく洞窟の外に向かって走る。背後を振り返る暇はない。それはアディルとて例外ではなく、炎で大地や壁を破壊して妨害するのが関の山。しかし悲しくも災厄のスピードは彼我の距離を少しずつ詰めてくる。
背後、抜き去ったパンテオンの死に声がやけに鮮明に響いた。
走る走る走る。とにかく逃げるしかない。
額の汗はすべて命を脅かされて溢れ出たもの。胸の鼓動も恐怖が迫ることに怯え鳴り。息が上がってもなお走れるのは本能が魂が走り、逃げ続けているから。
止まれない。走れ。追いつかれる。死にたくない。生きろ。
ドクドク。ドクドク。ドクドク。
それは緋眼を眇めた。
よくある話しがある。
冒険の最中に運悪く命を脅かす絶対的絶望に出逢った時、冒険者は死にたくない一心に逃げ続けた。そして、救いの光を視たその瞬間。神の悪戯か運命の呪いか悪魔のシナリオか。その希望が絶たれる。
例えば地割れ。例えばパンテオンの群れ。例えば罠。例えば仲間の不運。
そうよくある話しだ。
希望の前に何かが阻み希望を容易く絶つことなど。
そう、例えば崩落による咳止めなど。
「なっ⁉」
「そんなっ……」
「っち! クソかよ」
これは神の試練か。悪魔の悪戯か。運命の刻限か。あるいは冒険者の呪いか。
この世界に希望はない。理不尽が蔓延る世界にて、希望なる光を切り開くのは己でしかない。
故にそいつはやって来た。
真っ黒な衣を被った人型の何か。すべてが黒く衣の内側、身体全身もただただに闇に呑まれた闇の化身か。フードの奥、緋眼だけが確かな生命体としてその意志を覗かせる。両手に持つ背丈と同じ漆黒の鎌はその名を冠する絶対絶望を想起させる。
「なにあれ……?」
その漏れ出た呟きがリヴとアディルの理性を留め精神を生かした。知る者と知らぬ者との差。リヴは下手くそに笑った。
「い、いやハハハ……まさかこんな大冒険になるなんてね。予想外なんだけど」
アディルは舌打ちをして剣を構えた。
「やるしかねーみてーだな」
「そうみたい。あたしたちの最初の冒険にしちゃ大物過ぎるけど。ルナ、これを着て下がってて」
手渡されたのはケープ。まだ何も把握できないルナはただ一つだけ訊ねた。
「あれってなに?」
リヴはセフィラの杖を構え、アディルは一歩前にかの獣は鎌の刃を獲物へと。
「天場に進出してきた『十一の獣』の一体。【永劫未来の獣】ギルタブリル」
災厄の獣は今ここに顕在した。
その名はギルタブリル。不滅と未来を切り取る十一の獣の一体。
そして冒険者が呼ぶかの異名こそが相応しくその獣を形どる。
「【死神】、それが奴だ」
今ここに絶望の試練が始まった。
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