冗談
すみはし
冗談
「冗談じゃない」
彼女の口癖だ。
吐いた嘘をすぐにケラケラと笑いながらそう言う。彼女のネタバラシはとても早い。それは明らかな冗談であったり真実味のある嘘だったりするので飽きることがない。
大学で出会った僕たちは4度目の桜を見る頃に付き合い始めた。きっかけはたまたま隣合って、ペンケースを忘れた時に彼女が声をかけてくれたこと。それから少しずつ話すようになって、軽快で自由で優しい彼女に惹かれていった。
告白した時彼女は
「冗談じゃない?」
と照れたように周りを見渡し慌てていた。
大学を卒業してからは2人して東京に就職が決まったのでこれを機に家賃も浮くし、なんて言い訳もしながら同棲を始めた。付き合って10年ほどになる。喧嘩らしい喧嘩はあまりしたことがない。
彼女が怒る時は大抵僕の忘れっぽいところや遅刻したときで、それはもちろん僕が悪く申し訳ないと何度も謝ると、怒り続けるふりをして「冗談」と言って笑うのだ。僕はそうした時は彼女のご機嫌を取るために少しお高めのコンビニアイスを買いに行く。
今はお互い日々充実いると思う。 彼女は大手企業に総合職として勤めていてその企業初の女性初の管理職へと上り詰めた。僕の場合は評価も上々、人にも恵まれ、昇格の話もとんとんと進み今では課長に。家事も分担して、彼女はいつもご飯を作ってくれるので、洗い物や後片付けは僕が担当。きっちり僕も家事もしないと彼女に怒られてしまうかもしれないしね。
ある日少し遅くなってしまったのでお詫びのアイスを買って家に帰ると、彼女がいつものようにご飯を作って待ってくれていた。ただ表情が険しい。
「あなた今日が何の日か覚えてる?」
「え、なんだったっけ…」
ここ最近は忙しく、日付の感覚がなくなってしまっていたことにふと気づく。
「私たちが付き合って丁度10年になります」
「え、あぁ…ごめん!」
テーブルに目を向けるといつもより豪盛な料理。僕の大好きな君が作ったハンバーグもある。僕は酷く後悔する。アイスで済む話ではなかったのかもしれない。僕はすぐに頭を下げすまなかったと謝った。
「すまなかったってなんのことかしら」
「君との大事な記念日を忘れてしまっていて」
「それだけ? 今何時かわかる? 22時。ご飯が要らないならそう言ってって前から言ってたよね。あなた酔うと自分の顔が赤くなるのは知ってた? どこで飲んできたのかしら。記念日を忘れて食べた料理は美味しかった?」
彼女は淡々としていて、僕がヒヤリと冷たくなる背中に反して触ってみた顔が熱いことに気付く。
「違うんだ、本当にごめん。10年だなんてとても大きな節目だってわかっていたのに日付の感覚がなくて、後輩に誘われて少し飲んできてしまった。でも、これでも早めに切り上げたし、アイスも買ってきた、ご飯だって君も待っていてくれたろう、一緒に食べよう。僕もまだお腹も空いてる。とにかく祝い直しをさせてくれないかな。デザートにアイスを冷やしておこう」
胸がとても苦しいけど、彼女はきっともっと苦しかっただろう。待ってくれている間どんな気持ちだったのか想像すると申し訳なくなる。
本当に申し訳ないと思っているし、彼女はきっと分かってくれる、今度埋め合わせをしよう。美味しいレストランに連れて行ってあげよう、時間もゆっくり取ってディナーを楽しもう。そう伝えようとするがその前に彼女が先に話し始めた。
「付き合って最初の記念日に食べたご飯が私の作ったハンバーグだったわね」
「あぁ、そうだ。君のハンバーグは絶品だ。僕の大好物なんだ。覚えていてくれてありがとう」
「しっかり覚えているわ、毎年の記念日には私の作ったハンバーグを食べようって言っていたことも覚えてるし、その機会を4度逃したことも」
言葉が喉で詰まるようで、何も出てこない。
「ここまで言って、他に思い出すことはある?」
「今までずっと、遅刻したり、約束を忘れたり、そういったことをしてしまう事が多くて、数えられないほどのことを忘れてしまって迷惑をかけて、本当に申し訳ない」
「うん、そうね。数えられないほどのことを忘れて」
一言一言をゆっくり紡ぐ。彼女は冷たい目で聞いていた。
「結婚したいと急かした時に」すぅと一息吸って彼女は言った。
「10年の記念日に婚姻届にサインしようって言ったこともね」
彼女は婚姻届を取り出し僕の目の前でビリビリとちぎって捨てた。
「お互い働いているから家事の分担もしっかり話し合うと約束したけど、催促しても話し合うことはなかったね。洗い物だけをやってくれてありがとう。仕事終わりに作ったご飯を1ヶ月に何度も飲み会で潰したね。次の日のお昼ご飯に詰めて楽をさせてくれてありがとう。それじゃあね」
淡々と礼を述べて立ち上がり、スーツケースを転がしてきて、そのまま玄関へと向かっていく。焦りで頭が着いてこない。
彼女とは本当に結婚も考えていたし、心の底から反省している。彼女ならわかってくれるはず。もう一度用紙を取りに行こう、指輪も一緒に決めよう、どんなものでも買ってあげるから。でも彼女は振り返ることなく玄関のドアを開けて一言だけ。
「冗談じゃない」
冗談 すみはし @sumikko0020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます