プロローグ

「こんなに長い階段、とうちゃんは上れる?」

「だいじょうぶ、おかあさん。とおこは、ちゃんとあるける」


 あし透子が持つ母の最後の記憶の舞台は、夏だ。


 あれはたしか、しの厳しい、八月のはじめだった。

 猛暑の中、せみは少しも中断することなく鳴き続け、透子は買ってもらったばかりの麦わら帽子を目深にかぶり、うんせ、うんせ、とおぼつかない足取りで石畳を上る。

 まだ五歳の透子の足にはこの大きな石が何個も連なった階段はどうにも大変だ。


「気をつけて。転ばないようにするのよ」


 すこし先を行く母が振り返る。

 笑顔の母。髪の長い母。夏の蒸した空気を風がさらう。

 さらりと髪がゆれて透子はにこりとした。

 一段一段上って、待っていてくれた母に追いつき大好きなその人を見上げた。


「おかあさんの、髪きれい」

「透子と一緒ね」

「ほんとう?」


 母が本当よとほほむので透子はうれしくなってぴょん、っとはねた。

 大好きな母、優しい母、柔らかい母……透子とずっと一緒にいてくれる。


「このうえになにがあるの?」


 透子の問いに、母は笑って答える。足取りも軽く少女のように一番上まで駆け上がると、大きな木と空を背負って透子にこっちへいらっしゃい、というように手を振った。


「────」


 だが、逆光で母の表情は見えず、何を言っているのかわからない。


「透子──」


 蟬の声がうるさくて、母の声が聞こえない。


「おかあさん、なあに?」


 透子は聞きたくて耳を澄ますのに……何も聞こえない。

 そればかりか、母の姿はなぜか遠くなっていく。よくわからないものに引き離されるかのように──。


「まって、おかあさん、どこにいくの! どうして、とおこを、おいていくの、なんでなんで……」


 母の表情が険しくなる。

 悲しいことをこらえるように唇をんで、首を横に振る。透子は慌てて追いかける。


「おかあさんっ! おかあさん! まって、いかないで!! おかあさんっ!!」


 透子、と母は言った。おいでと呼んでくれた笑顔は消え、ひどく悲し気な表情になる。


「──ここへ来ては駄目……あなたは、こちらにはこないで……」


 母の背後から無数の青い手が現れて彼女をがんじがらめにする。闇に母を引きずり込んでいく。透子は暗闇と同化していく母になんと叫んで手を伸ばしただろうか。

 それがどうしても思い出せないまま十数年がつ。母が行方不明のまま父は失意のうちに亡くなり、透子はひとりになった。







 ──十数年後。


 記憶と同じ階段を異なる高さの目線で透子が見上げた先には、母とは全く異なる人物がいた。


「荷物貸して。俺も上に行くし」


 れいな顔をした少年は透子を色素の薄い目で見下ろすと、「来い」というようにきびすをかえす。


 ──来ては駄目。


 一歩を踏み出した透子をけんせいするように、遠い記憶の母がささやく。


「……あ、の……」


 少年が振り返る。

 透子は、彼を見上げながら、ごくりと喉を鳴らすと──一歩を踏み出した。


 たぶん、大嫌いな自分を変えるために。

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