第2話 第二の人生を始めよう

 学生時代から、小説家になるのが夢だった。それなりに夢を追いかけたのだが、一度社会に出る事にして、就職氷河期のさなか、他に選択肢がなく(と思い込み)、システム会社に就職した。当時のIT業界は残業時間が月に100時間も当たり前で、とても小説を書きながら、という生活はできなかった。あの大変な就職活動を二度としたくないと思い、とにかく3年は我慢して働こうと思った。

 逆に言えば、何が何でも3年で辞めようと思っていた。結婚して寿退社なら尚結構だと思った。かなり真剣に相手を探し、無事3年を待たずに結婚が決まった。夫は、結婚してもしばらくは共働きでいいんじゃないかと言ったが、私は結婚するより3か月も前に仕事を辞めた。引っ越しや結婚式の準備にかこつけて。

 さて、仕事も辞めたし、また小説を書こうと思った。だが、さあ書こうと思ったからと言って、書けるものでもなかった。結婚して1年くらい、勉強をしたりしつつ専業主婦をやったが、

「家で何してるの?」

と聞かれるたびに心苦しかった。今思えば、手を抜かずに家事をやっていたし、充分仕事をしていたと思うのだが、家で自由にしている時間もあったので、一日中会社に缶詰になっている元同僚に対して、後ろめたさがあった。何かやっていないといけないと思い、校正や作詞の通信教育を受けたりした。でも、それが終わっても仕事に結びつくわけではなかった。

 そのうち子供を身ごもり、吐き気や腰痛に悩まされ、やはり執筆どころではなかった。出産後は慣れない育児で精いっぱい。2人目が生まれるともう、自分の時間などは無いものと思った方が幸せだった。育児と家事、そしてその後子供の学校の事、PTAの仕事、サッカークラブの当番、習い事。毎年変わっていく生活、新しく加わる仕事に四苦八苦した。そうやって、生活にいっぱいいっぱいになっている時には、自分とは関係ない世界の事を想像する余裕はない。少なくとも私にはなかった。特に、子供を第一に考えなければならない為、子供が家にいるのにぼーっと他の事を考えているわけにはいかなかった。

 子供のせいでもないかもしれない。まだ子供が生まれる前、携帯電話会社が、携帯電話にまつわる短い小説を募集した企画があった。私はそれを知って、何とか書いてみようと思った。で、何について書こうかと頭の中で考えていた時、お風呂上りにカッターを使っていた夫が、いきなり指を深く切り、血が止まらず、一晩経ってもまだ血が止まらなくて、私はパニックになった。血の匂いが気持ち悪くて。朝になり病院に行ったら、縫う代わりにテープを貼ってもらっただけで、大事には至らなかったのだが。そんな事があったものだから、

「ああ、私が小説の事を考えたりしていたら、家族が不幸になるんだ。」

と、なぜか思ってしまった。主婦は、ちゃんと家族の事を見ていないとダメなんだ、と思い込んだのかもしれない。

 私の価値観は、けっこう古い状態で30年くらい生きてきた。結婚は20代にする、子供は2人生んで育てる、それは義務であり、親孝行であり、勝ち組の象徴でもあった。自分の計画通りに事が進み、育児が大変だと思いながらも、どこか安堵し、満足していた。

 でも、自分を全て犠牲にしてきたわけではない。私は歌が得意だったので、何か歌をやっていたいと思った。歳を取ってからでは遅いと思ったので、思い切ってゴスペルを習う事にした。それが、子供が小学校3年生と幼稚園の年長組だった時だ。自分は34歳だった。下の子が小学校に入ってからにした方がいいか、とも思ったのだが、何か35歳というのが節目な気がして、35歳になる前に始めた方がいいと思ったのだ。

 ゴスペルをやっている時には、日曜日には子供を夫に任せてレッスンに行ったり、ライブに出演したりした。サッカーの当番との兼ね合いも大変で、行ったり来たりもした。だが、それも上の子の高校受験の時に終わりを告げた。他にもいろいろと理由はあったのだが、高校受験にお金がかかるから、という理由が最も大きかった。これからは子供の為にお金を使おうと思った。ちょっと、自分の為に使い過ぎたと思った。外で仕事もしていないのに。

 子供が高校生、中学生になった。上の子は第一志望、第二志望の学校に行くことができず、いわゆるすべり止めの高校に通う事になった。最初は残念に思ったのだが、よく面倒を見てくれる学校だから、きっとこれが一番良かったのだと思おうとした。そして、入学金を支払いに行った時に、ふと思った。

 そうか、この子はこれから「男子校」に行くのか……。

 そう、上の子が行く高校は男子校だった。そして、私の小説家としての本性が、しばらく眠っていた何かがふと鎌首をもたげた。私はボーイズラブ小説を書いていたのだ。男子校が舞台になるものを書いたりしていた。それで、実際に男子校に足を運び、これから息子が通うという事を考えた時に、一種の歓喜というか、愉悦が沸き起こって来た。そして、勝手な想像、妄想をかきたてられた。

 その頃、引き出しを整理していたら、ほとんど記憶にないが、確かに自分が書いた原稿が出てきた。男子校を舞台にした小説で、本当に触りだけ書かれていた。それを見た瞬間、続きを書きたい、書ける、と思った。

 子供が小学生までと違って、勉強を見てやる事もほとんどなくなり、習い事などの送り迎えもなくなった。まだPTAの仕事はあったが、小学生と比べたら時間を取られる事も少なくなった。多くの母親が、その辺で仕事を始める。そうだろう、昼間は家に誰もいない。暇を持て余すことになる。それで、私はまた小説を書き始めたのだった。どんどん書けた。空白の20年を一気に埋めるかのように。そして、20年前とは違い、インターネットの時代になっていた。小説の投稿サイトがあるらしいと知る。そこに書いた小説を投稿していく事にした。


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